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CCXLVIII 達人ウェストモアランド伯爵

椅子に押し込められたまま、部屋に登場したものを前に震える私を、伯爵の綺麗な目が覗き込んだ。



「伯爵、あ、あれは・・・」



「ふふ、あれはな・・・」



伯爵がおかしそうに笑う。




「ニワトリのローストだ。」




ローストチキン・・・



現世のニワトリは前世にくらべて小さくて、丸焼きを出されてもあんまり迫力がない。でも私はサイズはあるけど淡白な味の七面鳥より、ジューシーなチキンが好みだった。


あと、現世ではローストポークにはアップルソースとかミントソースが添えられるときが多くて、前世でパイナップル入りの角煮があまり好きじゃなかった私には『ちょっと甘いかな』なんて思っていた。でもローストチキンにはマスタードソースとか、割と塩味の効いた正統派ソースが添えられるのよね。


「まだ前菜も出ていないのに、早くも伯爵が勝負に出ましたわ!」


「王太子妃殿下のときはケーキでしたけれど、男性相手だからチキンなのでしょう。私も早いと思いましたが、タイミングを読む力に関しては伯爵の右に出る男はいないと思いませんこと?」


侍女二人はよくわからないことを言っていた。なんでチキンやケーキがおもてなしでなくて勝負になるのかしら。私は偶然お腹が空いているけど、さすがに我慢できないほどではないと思う。


姫様はケーキが我慢できなかったのかしら。意外と食い意地が張っているのね。


「伯爵、ソ、ソースは?」


恐る恐るたずねる私に、伯爵は笑いかけた。眩しい。


「グレービーだ。」


「グレービー・・・」


グレービーは前世にもあった気がするけど、現世ではポピュラーなソースで、少し健康に悪そうだけど美味しいと思う。ちなみにソースはかけるというより横に添えてあることが多い。


確かに抗うのが難しい誘惑ね。でも私の意思の力を見くびってもらっては困る。私はきっと姫様よりレベルが高い。ケーキとは種目が違う気もするけど。


ローストチキンは私の目と鼻の先まで持ってこられて、香ばしい匂いが漂ってきたけど、私は不屈の意思をもって伯爵をじっと見つめ返した。やっぱりかわいい。


「サインするなら、このウェストモアランド伯爵が直々にあーんして食べさせてやる。」









私は前世で一度もスカイダイビングをしなかった。


一度してみたかったけど。私は多分スカイダイビングが好きになるようなタイプではなかったけど、どうせなら死ぬまでに一度くらいスカイダイビングすればよかったなと思った。


キラキラ9歳児がこうやって積極的に食べさせてくれるなんて機会、これを逃したら一生ない気がする。私から頼んだら犯罪になりそうだし、なんというか倫理的におかしいと思う。別にそういう堕落したライフスタイルに憧れなんてないけど、でもチャンスがあるなら一回くらい体験しておきたい。


サインしたら、可愛い伯爵が手づからローストチキンを食べさせてくれる。もちろんだからといって婚約するほど私は短絡的ではないけど。


これでも私は弁護士の娘だから。


「もう一度書類をよく見せてもらえませんか。」


「どうぞ御覧ください。」


まだ後ろから私に圧力をかけていた夫人が、二枚の書類を私の前に置いた。婚約の方を精読する。


抜け穴を探し始めると、どんどん見つかっていく。


結婚の期限がない、婚約破棄に関する規定がない、そして約束を破った場合の罰則条項がない。


「(素人だわ・・・)」


まず婚約関連の書類はいつまでも引き伸ばされないように結婚の期限を区切るものだけど、この書類はそんな初歩的なステップも踏めていなかった。


ルイス・リディントンの契約が切れる1年後までなし崩し的に引き伸ばすことは可能なはず。でも婚約者が失踪した場合は手続きが面倒になる。亡くなったことにすることも頭をよぎったけど、リディントン家の葬儀とか大変そう。喪主は誰になるのかしら。いずれにしてもタイムリミットがないのは、いろいろな対応を考える時間的な余裕ができて嬉しい。


それから、婚約破棄が認められる条件について何も規定されていなかった。


現世では一度結婚すると離婚が難しくなってくる。スタンリー卿みたいに白い結婚だったと主張するか、そもそも結婚に問題があったということにするならまだ見込みはあるんだけど。普通の不倫騒動では教会が離婚を認めてくれなくて、結婚前に実は別の相手と秘密の結婚をしていた、とかいうかなり強引な設定が必要になる。


でも婚約を破棄することは、珍しいけど全くないわけでもない。相手の家のスキャンダルとかで流れることもあったと思う。普通はサプライズ婚約破棄が起きないようにそういう条件を列記しておくものだけど、これを書いた人はそういうことを考えていなかったみたい。明記されていないならリーズナブルな事情があれば婚約破棄できるから、男爵にたのんでリディントン家になにかスキャンダルがあったことにしてもらえばいいはず。


最後に、契約違反のペナルティがなかった。


こういう約束事は様々な事情で流れたときのために保証や弁償を明記しておくものだけど、その規定がない場合は弁償という話にならない。本来家同士の結婚は準備にお金と労力がかかるから婚約破棄で賠償責任を負うのは当然だけど、婚約自体に規定がないなら、せいぜい婚礼準備にかかったお金を補償するだけでいいはず。


そもそも結婚の準備にあたっての双方の義務も明記されていないし、例えば式の準備や通知をひたすら先延ばしにしても契約違反にならない。


大丈夫。私は、別にここで婚約しても逃げ切れる。


念の為、空白部分に後でなにか書き足されないように斜めに線を引いておけばいいはず。


「わかりました、婚約の方にはサインしましょう。そうすればもう一枚の方にサインがなくとも実質的に変わりはないですよね?」


私はエリーに手を出していない、というのは相変わらず主張しておく。手を出されたから婚約させたいのであれば、最終的に手を出された証明がなくても婚約があれば関係ないはず。


一方で私はここで手を出した証書にサインすると婚約破棄の時に不利になる。でもそこまで先読みはされていないと思う。


「よろしいでしょう。」


私の後ろにいる夫人も、今度は特に反対せずに静観の構えだった。


「ありがとうございます。では、インクと羽ペンを貸してください。」


「こちらに。」


レディ・スタッフォードがインクのボトルとペンをテーブルに置いた。そういえば、リディントンとしてサインするのは初めてかもしれない。辞令をハーバート男爵から受け取ったときもサインはしていないし。最悪の場合、後で違うサインをハーバート男爵のところで登録してもらって、裁判になったらサインが偽物だと主張する手もあると思う。


私は、書くのが面倒な凝ったサインをしてみた。もちろん空白を埋めるのを忘れない。


「リディントン様・・・ふつつか者ですが、よろしくお願いいたしますわ。」


いつの間にか泣き止んでいたエリーが私のテーブルの前にきて、レディの礼をした。


「いえ、こちらこそ。詳細について、今度二人きりで話し合いましょう。」


思わずレディの礼を返しそうになったけど、夫人がまだ肩から手をどけてくれていなかったから、私は座ったままのぎこちない返答になった。


エリーには私が女だって早い段階で伝えたいけど、秘密を守ってもらえるように気をつけないといけないから、慎重さが大事になると思う。乱暴な婚約破棄はエリーの評判にもかかわるから、やっぱりリディントン家側になにか不幸を起こさないといけない。


「すばらしいことではなくって?なんてめでたいことですの!?」


「宴の時間ですわ!ワインを!」


王女や侍女たちは嬉しそうな声を上げた。どの道破棄するつもりだけど、エリーは嬉しそうだし、今は祝ってもらってもいいかなと思う。




「よくやった。ご褒美だ、あーんしろ。」


耳元で鈴みたいに鳴る声がして、私は現実から遠ざかった。伯爵は私の首周りに手早くナプキンをかけると、切り分けたジャストサイズのチキンにソースをつけ、そっと私の口元まで運んだ。私の顎を少し触った伯爵の指が、すごく柔らかいのにびっくりする。


「ほら、あーんだ。」


「あ、あーん。」


優しく口の中にいれてもらったローストチキンは、とろけるようにジューシーだった。でも皮はパリッとしていて、食感だけで幸せになりそう。


「どうだ、うまいか?」


楽しそうな伯爵のキラキラした目が私を覗き込む。


「もぐ・・・おいちい・・・」


食べながら会話するのは絶対に駄目と教えられたけど、思わず答えようとしてちょっと噛んだ。退化している気がするけど、こんなとこみられたら侯爵家から婚約破棄をしてくれたりして。


「ふふ・・・ソースがついている。ふいてやろう。」


「お・・・お願いしまふ。」


ナプキンでそっと私の頬に触れた伯爵はなんだかいい匂いがする。笑顔もすごく可愛いけど、耳元でフフって笑う声が素敵すぎて、もし伯爵が王子の少年合唱団のメンバーだったら応援に行こうと思った。


「あの・・・リディントン様、申し上げづらいのですが・・・」


極楽浄土気分だった私の向かいの席から、エリーがためらいがちに声をあげた。


ひょっとして今の私に幻滅して、婚約破棄してくれたりして。


「どうぞ、気兼ねせずになんでもおっしゃってください。」


「あの・・・みだらな女だと思われるかもしれませんけど・・・私もびっくりしていて・・・その・・・さっきの続き・・・」


エリーはこれ以上もじもじできないくらいもじもじしていて、顔から湯気が出ていた。そういえばエリーのマッサージは途中で中断されたんだっけ。


「分かりました、中途半端でしたよね。続きはしますが、あくまで医療行為で、間違っても子供ができるようなことはありませんからね?」


「お、お願いします・・・」


エリーは恥ずかしそうに頭を下げた。


「まあ、エリ−ったら大胆ですわ!」


「リディントン様もさっきから天の邪鬼でいらっしゃいませんこと?」


侍女二人が囃しているけど、もう反論してもしょうがないんだよね。




「ほら、もう一口、あーんしろ。」


「あーん」


こうして、私はひとまず婚約した。


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