XXII 大法官ウィリアム・ウォーラム
二人分のサインを確認して、私のサインを書き加えた契約書をフランシス君に手渡した。
「しかし、魔法のポテンシャルを見せられた後では、ルイーズの裁量に任せるのはなかなか怖いものがあるね。」
王子様に酷いことはしないと約束はしたけど、男爵はやっぱりまだ本調子ではなさそう。
「我々には原理も効果のほども分からないのですから、実施の段階ではルイーズ様にお任せするほかないのでしょう。」
モードリンさんはどこまで話を聞いているのか分からないけど、いろいろ心配しているみたい。よく分からない16歳の女の子に王子様を委ねるんだもんね、それは魔法云々を抜きにしても不安になると思う。
「二人とも、極端なマッサージを見てしまって、ちょっとバイアスがかかっていると思うんです。でも、私はマッサージの強弱をちゃんと調節できるんですよ。」
すぐには信用されないかもしれないけど、バラエティをアピールするのは大事だと思う。
私の立場は少し複雑になっている。王子様にマッサージが効くかもしれないと思わせつつ、マッサージはそんな恐ろしいものじゃないと説得しないといけない。綱渡りみたい。
「君はコントロールできるかもしれないが、さっきのウィロビーのように王子が君の不興を買ったときなど、私は不安で仕方がないよ。」
男爵は私が理性的な女だって知っているはずだけど、何がそんなに不安なのかしら。
「契約はちゃんと守ります!それにアンソニーだって、起きたら九割がた元に戻っているはずです。」
アンソニーはあの後マッサージの最中に寝てしまった。今はロアノークさんに見てもらっている。気持ちよくて寝てしまうお客さんって前世の短いキャリアでは出会わなかったから、ちょっと感慨深いものがある。
「お二人の誤解は、マッサージがどんなものか分かっていないのが原因だと思うんです。それを踏まえて、これを読んでください。」
私は二人に2枚目の契約書を渡した。
「これは何かな。」
「私が男爵にかけるマッサージの詳細と、その際に私と男爵が守る約束事です。」
男爵の顔が引きつるのが分かった。
「待つんだ、私は今廃人になるわけにはいかない。思いとどまるんだルイーズ。」
男爵の顔から微笑が消えている。
「落ち着いてください、男爵。さっきのアンソニーが廃人に見えたとしても、それは一時的でしたし、そもそもあれは誘拐犯へのお仕置きなので、あんなに極端なことは男爵にしません。」
男爵の美しい顔はまだ引きつったままになっている。
「ルイーズ、よく聞いてほしい。私には婚約者がいる。私が君の魔法にかかると困る人間は多い。」
そんな魔法を王子様にかけさせるって男爵もなかなかブラックだと思うけど、突っ込みすぎて私が失業するのも嫌なので言わないでおく。
「だから、マッサージには直接私に惚れさせる効果はありませんってば。」
「じゃあさっきのウィロビーはなんなんだい。」
それは私が聞きたい。ただ、こっちの人は娯楽が少ないせいか、マッサージに夢中になりやすいんだと思う。ストレッチもヨガもないから、耐性がないんだろうなとも思う。
「あれは・・・強すぎたんです。ああいう風にならない範囲でマッサージがどんなものか分かっていただくため、男爵には効果の薄い、弱いマッサージをしてあげます。」
「しなくていい。だいたいこんな場で恥を晒すわけにはいかない。」
男爵もだんだんぶっきらぼうになってきていた。
「こんな場って言っても、これはそもそも司祭様のアイデアなんですよ。」
「トマスの!?」
男爵は少し慌てたように、遠くでウォーラム大司教と歓談していたウォーズィー司祭に目をやった。私たちの視線に気づいたのか司祭が手を振る。
「王子にかける前にどんなものか見てみたいようでしたよ。」
「私はもう用済みということか・・・」
男爵が初めて憂いに満ちた横顔を見せた。
これはすごい、イケメン。
影が差している感じがすごくいい。この世界に携帯があったら写真を撮っていところなのに、目に焼き付けるしかないなんて残念。
「用済みなんてことはないと思います。それに、これでも私は男爵に感謝しているんです。だから何を心配しているのかわかりませんけど、男爵に不利になるようなことはしません。」
そう、マッサージ師への偏見を解きたいだけだから、本当に。
「感謝をしているなら放っておいてくれないか。」
せっかく格好いい顔なのに男爵のセリフがあんまり格好良くない。
「もう、男爵の意気地なし!王子様が私のマッサージを不審に思ったら、男爵の名前を出しますからね。」
「私を売る気なのか、ルイーズ。」
「契約書には守秘義務なんてありません。それに私の後見人は男爵になるんですから、私が問題を起こしたらどの道男爵に波及するのは避けられないでしょう?」
男爵の思い切りの悪さが歯がゆい。多分さっきアンソニーの様子を見たせいなんだけど。
「ほう、5分間の裁判ではわかりませんでしたが、論の立つ少女ですな。」
あまり聞き覚えのない声がした。振り返ると、司祭様に付き添われて裁判長のウォーラム大司教が立っていた。銀髪のおじいちゃんだけど、近くで見ると割と血色の良い日に焼けた顔をしていて、目が鋭いのもあってどこかアンバランスな感じの見た目をしている。
「ウィンスロー男爵、この少女のいうとおり、あなた方二人は運命共同体と言っても過言ではないでしょう。話を聞いてあげてはいかがかな。」
そういえば短い判決の時も少し思ったけど、大司教様は穏やかなのに通る声をしている。
司祭様が合いの手を入れる。
「そうだレジナルド、ルイーズ・レミントンのマッサージは君の切り札であるのに、その強みも使い方もわからないまま、王子に差し出すのはどうかと私も思うよ。」
そういえば男爵のファーストネームはレジナルドだった。二人はやっぱり親しいみたい。道具みたいに扱われるのは気持ちよくないけど。
「しかし私は事態の推移を客観的に見る必要があるのです。ルイーズを冷静に見られなくなったなら、私は国王陛下に与えられたこの大役を全うできません。」
「ウィンスロー男爵、森の全貌を見ようとする者は、森に入ることができません。あなたの立場で客観的でいるというのは、無責任です。」
大司教様がなんだかそれっぽいことを言ってくれた。
「ウィンスロー男爵、あなたはこの少女を信用していない。しかし、実行を担うのはルイーズ・レミントン本人なのでしょう。部下を信用できない人間に対して、部下に何ができると思いますか。」
そう、そのとおり!
男爵がマッサージを恐れているのをどうにかしたいと思ったけど、私はそもそも男爵に信用されていないのが悲しかったんだ。自分でもそこまで考えていなかったけど、大司教様に言ってもらえて嬉しい。
「ウィンスロー男爵、支配・被支配の関係が全てではありません。あなたが何かを差し出すことで、得られるものもあります。それは負けや服従などではありません。」
すごい!大司教様ファンクラブ作ろうかしら。
男爵はしばらく黙っていたけど、おもむろに口を開いた。
「前回伝染病が流行った時に念のため遺書を書いていたのですが、何点か改定するところがあります。魔法はそれからにさせてください。」
「遺書って、死にませんってば。」
「社交界での死に目になる可能性は高いだろう。」
男爵のこんなに情けないところは見たくない。こうなったら無理矢理にでもマッサージをかけて少し心をリラックスさせてあげるしかない。
「司祭様、いいですよね。」
「いいと思いますよ。」
司祭様がいたずらっぽい笑いを浮かべた。
私は同意を待たずに男爵の右手を手に取った。




