CCXXII 王太后付警護責任者サー・クリストファー・ウィロビー
私が帰宅する時間が近かったからか、御者はラドクリフ家の馬車を準備していたようだった。ハーネスもカラーも付け終わっている。肝心の御者本人は見当たらないが。
「ラドクリフ様、宮殿には馬車は侵入できません。」
私が馬を先導して馬車の向きを変えていると、門番が警告にやってきた。
「中庭で火事だ。この馬車は消火のための水を運ぶ。」
「そうなのですか!?」
暗くて表情は見えないが、門番は純粋に驚いたようだった。あの大声の警告もここまで届いていないのか。避難民が門に殺到していてもおかしくないと思ったが。
「それでしたら御者を呼びませんと!」
「心配ない!馬車の運転は私がする!」
私は御者席に飛び乗った。
今でこそ御者を雇ってはいるが、御者を雇う余裕のなかった時代にホーデンと私は馬車の運転を覚えた。このほうが御者を呼んで状況を説明するよりも早いはずだ。
「ゆけ!」
左手で両方の手綱を握ると合図を出す。馬車が勢いよく走り出した。
宮殿外側の窓は封鎖されず、室内の明かりが漏れていた。宮殿の端までは石畳だ、先導無しでいける。
馬車は一心不乱に宮殿を目指した。
だが桶はどこで手に入れればよいだろうか。
不安を抱えながら宮殿に馬車を走らせると、南棟の外側で衛兵たちに指示を出す、背の高い影が見えた。
「サー・クリストファー!」
南棟の警備責任者、サー・クリストファー・ウィロビーだ。ちょうどいい。
「申し訳ないのですが、ランタンを持って、馬車を先導していただけませんか。」
本来ならこんなフットマンみたいなことを頼めないが、アンソニーをはじめウィロビー家の戦士はみな俊敏さに定評があった。
「ラドクリフ様ですか、ちょうど良かった。ウィンスロー男爵の代理人が、風呂桶を馬車で運ぶようにと指示をだしました。今、風呂桶を集めていたところです。さっそく馬車が来るとは素晴らしい。」
ウィンスロー男爵が?私は自分の判断でやってきたが、同時に同じことを思いついたのだろうか。できすぎたタイミングだ。
「わかりました。桶はどうしますか?」
「衛兵達に風呂桶を運び込ませます。私は宮殿の北の端まで先に行っています。マージョリー、後は頼んだよ。」
「わかったわ。クリスおじさんも頑張ってね。」
サー・クリストファーは近くにいた私と同年代くらいの少女に後を託すと、ランタンを持って走っていった。
「ありがとうございます、サー・クリストファー・・・」
サー・クリストファーを見送っていると、後ろにやや乱暴に風呂桶が積まれるのがわかった。可憐な少女が衛兵にテキパキと指示をだしているのは不思議だ。流石に風呂桶は運んでいないが。
「この馬車では一つしか乗りませんわ。蓋は用意しました。」
「・・・わかった。ありがとう。これで出発する。」
再び発車する。振り返れば、風呂桶の蓋は紐で固定するものようだ。衛兵一人に抑える役を頼むべきだっただろうか。
思案していると、前方に棟の壁に寄りかかった見覚えのある影がみえた。乗ってもらおうか。
「ギルドフォー・・・なんでも無い!」
顔は見えなかったが、レース一枚だけをまとった男がギルドフォードに覆いかぶさろうとしていたのを見て、思わず通り過ぎてしまった。白いレースに肌色が透けるおどろおどろしく変態的な格好をしていたが、あれほど立派な体躯の男はなかなかいない。チャールズ・ブランドンではないだろうか。
目が汚されてしまった。悪夢にでないことを願う。しかしヘンリー王子周辺はやはりみんなそうなのか。火事よりもそっちなのか。
ヒヒイという馬の鳴き声で我に帰る。そうだ、変態レース男に惑わされている場合ではない。
宮殿の端では、ランタンをもったサー・クリストファーが待っていた。
「なるべく地面が平なところをご案内します。」
舗装されていない道では、馬車の速度は速歩き程度。先導の後を追って追いかけるのが精一杯だった。
「このようなことをお願いしてすみません!」
馬車の中から大声をあげる。くぼみに車輪をとられないよう、目は必死に地面を追っているが。
「この非常事態でしょう。無礼講ですよ。そちらこそ男爵の身分で馬車を運転しておられる。」
「はは、それもそうですね。」
少し安心していると、なんとか川岸についた。暗くてはっきりとは見えないが、何人かの衛兵がランタンを置いて川から水を汲もうとしている。
「夜の川は恐ろしいな。」
真っ黒な川が悠然と流れている。川と岸の境目がなかなか見えず、流されないか不安になるだろう。
馬車の後ろを覗き込むと、大きな風呂桶と蓋があるだけだった。風呂桶に水を汲むことを考えていなかった。
「衛兵のみな!この馬車に蓋のある風呂桶がある!ここに水を汲むのを手伝ってほしい!」
桶を手にしている衛兵たちに声を掛ける。何人かは協力する態度を示すように手を上げた。
「ラドクリフ様、馬車の向きを変えておいてください。水汲みは私が監督しましょう。」
「助かります、サー・クリストファー。」
あのときに風呂桶といっしょにいくつか桶を積んでおけばよかったが、そもそも桶が不足していたのだから致し方ない。衛兵が川と馬車を往復するのを地道に待つ。
「別の馬車も来ていますね。」
「別の馬車?」
サー・クリストファーの声に振り返る。
横を見ると、たいそう立派な馬車が到着するところだった。鹿の紋章が見える。ダービー伯爵家だろう。ウィンスロー男爵と懇意にしていると聞いたから、おそらくは男爵の指示できたに違いない。
存在感の違いのせいか、馬車へ水を運べと指示された衛兵が、みなダービー伯爵家の方に水を運んでしまう。
「こちらを優先してほしい!もうすぐいっぱいになる!」
白い塗装の伯爵家の馬車は月明かりに映えた。黒くてボロボロのうちの馬車が幽霊みたいにみえる。
「桶がいっぱいです。出発しましょう。」
それでもなんとか風呂桶はいっぱいになったようで、しばらくしてサー・クリストファーが号令をかけ、先に走り出した。追いかけるように馬車を走らせる。
行きにつくった轍のせいで帰りは馬車がゆれたが、固定した蓋のおかげでこぼれた水はそれほどでもないようだった。
しばらく馬車を走らせると宮殿がみえている。
「サー・クリストファー、門を開けさせてください!」
「もう開いています!馬車ごと通れる広さです。」
準備がいいことだ。
「ゆけ!」
門にある段差を超えさせる。ガタンという衝撃が二回あって、馬車は中庭に突入した。
「馬車が来たぞ!」
私の到着を待っていたかのように声がかかった。
かなり暗かったが、何人かがわらわらと近寄ってくる。
馬車から見えた光景は、恐るべきものだった。
戦場・・・
月明かりの下、至るところから煙が上がり、樽が転がって木片が散らばっている。破裂した水道管が、荒く掘られた地面はまるでジズザグの塹壕のようだ。力尽きたような男たちがところどころでぐったりしている。
だが一つだけ大事なことがあった。
もうほとんど鎮火している・・・
「水桶の人!もう川に行かないで!馬車から降ろされたお風呂の桶から水を汲んでください!熱い地面に気をつけてね!」
高い声の男が北側の消火を指揮していたようだった。さっき私の指示通りに動かなかった衛兵たちが、みな従順に従っている。
一体何者なのだろう。
気がつくと、いつの間にかダービー伯爵家の馬車が後ろについていた。スタートした時間はだいぶ違ったはずだが。
「みんなありがとう!まだくすぶっているところは水桶部隊に頑張ってもらいましょう!燃えた土でやけどをしないように気をつけて!腰が痛くなった人は私かお医者さんに診てもらってください!私はけが人を見てきます!」
サー・アンドリューでもウィンスロー男爵でもない、小柄な男がスピーチをした。顔は見えないが、影から判断するとアンソニーよりも背が低いだろうか。
「ルイス・リディントン、万歳!」
「ルイス・リディントン万歳!」
各所から自然に声が上がった。
リディントン・・・聞かない名前だが。
「万歳!!」
「緑の騎士、万歳!」
「水道管の英雄、万歳!」
水道管?
一体何がおきたのかわからないが、ただ一つ確かなのは・・・
私は一足遅かったということだ。
「ええっと、ありがとう?ありがとう!せめて水の英雄でお願いします、マーケティング的に。でもありがとう!」
マーケティングとはなんのことかわからないが、リディントンはなりやまない拍手に向かって手を振った。
「スタンリー卿は最初から最後までありがとう!ブランドンも見直したわ・・・見直したよ。火に近い先頭を担当してくれてありがとう。やっぱり筋肉は伊達じゃないんだね。王子との仲も応援してあげる。今日はやけに静かだね?」
ブランドン?消火にあたっていたのだろうか。ということはさっきの変態は別人か?
「えっと、それじゃあ、私は向こう側のけが人を確認してきます。みんな地面に気をつけてね!」
妙に動きの忙しない小柄な男は、子供のように手をふると奥へ走っていった。
元はと言えば私の短剣が起こした火事だ。失地回復をしたかったが、致し方ない。私自身の栄誉よりも大事なことがある。火事が無事におさまったということだ。
遅れて拍手に混ざる私の顔に、冷たい夜風があたっていた。




