CCVIII 職業人ルイーズ・レミントン
ノリッジを離れてから私がマッサージしてきた箇所を思い返す。
アンソニーのふくらはぎ、膝と足の裏、男爵の手の平、モーリスくんの肩、ヘンリー王子の耳、姫様の腕の付け根と脇の下、スタンリー卿の太腿・・・
そう、私はまだ背中のマッサージをしていない。別に背中にこだわりがあるわけじゃないけど、いまだに王道のマッサージをしていないのは少し違和感があった。背中は兄さんのお気にいりだったし。
目の前に広がるくまさんの広い背中は、脊柱の位置の見当がつきやすくてマッサージ向き。さらに肩井を押されて痛かったということは体のどこかに不調をきたしているはずで、きっと潜在的なマッサージ需要もある。そうなるとなんとなく『そこに山があるから』っていう名言を思い出す。
本当ならシャツを脱いでもらえるといいけど、『上半身裸になる』という文化がない現世だとほとんど起きない展開だし、初夏の夜に毛皮のマントを羽織っていたせいかインナーは薄いリネンと木綿の二枚だけ。
起き上がろうとしたくまさんの首元を抑えて制止する。
「フギャッ!」
「ちょっとだけじっとしていてくださいね。」
膝立ちになって背骨の位置を確認すると、肩甲骨から腰にかけて、背中の筋肉を強くさすっていく。
「はひっ!なにするの!?くすぐったい!」
背中のマッサージがくすぐったいってことは、血流が悪くなっていることの悪いサイン。これはしっかりほぐしてあげないと。
背骨から外れたキワの部分にゆっくり指をいれていく。骨を避けて、力を入れすぎないように。
「はふっ!なにこれっ!・・・んはっ!」
くまさんが混乱したように目をキョロキョロさせた。
体に近づくとちょっと香水がきついけど。この香りは桃だと思う。
「危ないのでじっとしていてくださいね。」
「待ってっ、んはあっ!・・・なんか変だよっ、しびれるっ!・・・ゾワゾワするからやめてっ!・・・はふっ・・・」
膝が痛いからマントの毛皮の部分に乗せさせてもらう。
くまさんは胸板が厚めだからか、私の腕の三角形が丁度いい位置におさまった。本当はマッサージ台の横で立って施術するほうがいいけど、これだってそんなに無理せず力が入る。
指で強く押しすぎると揉み返しが起こるから、手のひらの根本に切り替えて、背骨のキワをに圧力を加えていく。背柱起立筋のマッサージ。
「うわっ!なにこれなにこれっ、あうっ・・・おかしいよう!体が変!・・・熱くなって・・・あっ、なんかきちゃう!」
体を震わせるこの人はアンソニー系統と見えた。スタンリー卿や男爵と違って寝たりしなさそうだからよかった。
「これはマッサージと言うんです。とっても体にいいんですよ。やりすぎや力の入れすぎは良くないですけど。」
「マッサ・・・ふあ・・・ちょっと痛いけど・・・んあ・・・気持ちいいっ!?・・・なんでっ!?・・・あうっ・・・辛いのにっ・・・溶けちゃいそう・・・はふうっ・・・」
『くすぐったい』から『痛気持ちいい』に移行したのは体がほぐれてきた良い証拠。冷たい廊下にうつ伏せに転がされて大変だと思うけど、幸せそうな声からはつらそうな感じはしない。
でもこの人はどんな気持ちで寝そべっているのかしら。くまさんにとって私は『国王陛下の密勅を受けたと名乗り、性別を偽って王子に近づく不審者』のはずだけど?
「私が本物の不審者だったらもう暗殺されていますからね。気をつけてくださいね。」
「はふっ・・・はふっ・・・きもちい・・・でも、女の子に乱暴したら・・んくっ・・・姉さんたちが怒るし・・・はうっ・・・なんか・・・すごい・・・気持ちいいしっ・・・」
さっきから聞いてもいないのにお姉さん達がやたらと登場する。シスター・コンプレックスかしら。
ただ、しばらくしてマッサージに慣れてきたのか、アンソニーと違って話しぶりに余裕が見える気がする。もう少し強くすると違うかもしれないけど、背中を強く押すのは筋肉を固くしてしまってよくないとされているのよね。
とりあえずは首の根元から肩口にかけて、掴んで押すようにして強くさすっていく。
「んあ・・・これ好き・・・さすられるの・・・きもちい・・・」
くまさんの声が眠たそうになってきた。でもここで眠られたら困る。
揉み返しが起きない範囲でスパイスが必要ね。腕の付け根の部分をいってみよう。
肩甲骨の外側、肩貞の部分を下から少し強めに指で押していく。
「ひはっ?! 待って、待ってよっ!・・・はっ、はふうっ!・・・体おかしっ・・・きもちっ・・・また変になっちゃ・・・ふはあっ!・・・」
効果はかなりあったみたいだった。
「ちょっとピリッとしますけど、体には悪く有りませんからね。」
「んふあっ!もうわけわかんないよっ!・・・はううっ!」
そろそろ交渉開始かしら。腕の力を緩める。
「あっ・・・いいとこでやめないでっ・・・もっと突いてっ・・・」
さっきまで嫌がっていたのに、くまさんはすっかり嘆願調になっていた。
「もしこれを今後もしてほしかったら、私を男の従者として活動することを手伝ってほしいです。あと、このことは誰にも言わないこと。」
「ん・・・それを守ったら、僕のしてほしいときにしてくれる?」
期待でキラキラした目が私に向けられたけど、アンソニーみたいに部屋に乱入して来られても困る。
「いいえ。私の都合がいいときのみです。突然頼まれても困るから、その都度事前に交渉すること。」
「それはひどいなあ。」
くまさんは頬を膨らませた。天使ノリス君ほどではないけど、大男の割にこういう顔は可愛い。
「でも、僕が女だって秘密がばらしたら、とっても困るよね?」
そこそこ可愛い顔で全然可愛くないことを言ってきた。
「困るけど、あなたが思っているほど絶体絶命ではないわ。」
ルイス・リディントンはそもそも実在しないから、失踪しても困るのは男爵と子作りプロジェクト関係者だけ。私はマージの馬車に乗せてもらってノリッジに遁走する手も残されているし、スタンリー卿かダービー伯爵家が隠れ家くらいは見つけてくれると思う。マージやスタンリー卿を頼れなくても、宮殿から王都の兄さんのところまで逃げ切ればまだ選択肢はあるし、歩けない距離じゃない。ノリッジには帰れないと思っていたけど、あの裁判の群衆がサクラだとしたら、ルイーズ・レミントンとして大手を振って生きていけばいい。
でも、できれば宮殿で任期満了したい。できれば、だけど。だけど交渉事は条件が悪ければ席を立つ覚悟を見せるのが大事だって、私はお父様に教え込まれた。
「逆に、あなたが一度でも情報を漏洩させたら二度とマッサージはしません。あなたの選択肢は二つ。言いつけを守ってたまにマッサージをしてもらえるか、告げ口をして二度とマッサージをしてもらえないか。さあ、ギルドフォードさん、どうする?」
「うーん・・・」
くまさんが考え込んでいるけど、私の右手を恨めしそうに見ているところからみて、少なくともマッサージを諦める気はないみたい。
「ルイーズ!!」
南棟側からスタンリー卿の声と、駆け寄ってくる足音がした。ようやく起きたのね。
「ルイーズ?本当の名前?」
普通ならルイスと呼ばれたと思うだろうけど、くまさんは勘が鋭そうだった。
「違うわ。スタンリー卿はルイスと言ったけど、チェシャー訛りがあるの。」
スタンリー卿が来てややこしくなる前に約束を取り付けたいけど・・・
今回はアンソニーと違って契約書を作っていられなさそうだから、モーリス君方式で行くことを思いついた。
「スタンリー卿、聖書を貸して!早く!」
「逃げろルイーズ、そんな場合じゃない!」
スタンリー卿は叫びながらも駆け寄ってきて、胸元にいれていた携行用の聖書を手渡した。
「すぐ済むわ!」
まだひくひくしている左手の下に聖書を滑り込ませて、右肩甲骨のキワの部分のマッサージを開始する。ストレッチの要領で、右手をすこし上げるようにもする。
「ふはっ、これもきもちいっ!」
「汝ヘンリー・ギルドフォードは、従者ルイス・リディントンを男として扱い、彼の活動を妨害しないこと、第三者に報告しないこと、並びに彼の快適な日常生活のために協力することを、神に誓いますか?」
聖書に左手をあてて、右手を上げるのがこの世界での宣誓のスタイル。
「はひっ!?ちょっとまってっ、はうっ、さっきより条件が増えてフギャッ!!」
「神に誓いますか?」
「んんっ!・・・はふっ!・・・んあっ、まともに考えらんない!・・・誓うよっ、全部誓うからっ・・・神さまあっ・・・」
「スタンリー卿、聞いたわね。」
得意顔でスタンリー卿を振り返ると、般若の形相だった。もともと気難しそうな顔をしているからこうなると怖い。
「そんな場合じゃない、ルイーズ!」
スタンリー卿は下士官に命令するような強い口調で私を叱責すると、私の脇に手を入れて立ち上がらせた。
「中庭で火事だ。直ちにここから脱出する。」




