CLXXIII ラドクリフ夫人エリザベス・スタッフォード
私はスタンリーを起こすことを諦め、彼の持ち物に不審な点がないか調べ始めた。本来は他人の持ち物を物色することは好まないが、今は魔女の謎を解くことを優先する必要がある。
それにしても荷物が異様に少ない。馬には二人がけの大きな鞍が設置されているが、空になった革の水筒以外に何も見当たらない。
「坊ちゃま!ご無事でしたか!」
ホーデンが駆け寄ってきた。
「見ての通り特殊な事態に遭遇してな。とりあえず身の回りに危険はないが、この近くで女を見かけなかったか、ホーデン?」
「いえ、特には・・・や、そこにおられるのは、あのダービー伯爵の孫でございましょうか!」
ホーデンは目を丸くした。
「無事だ。定義によっては無事でないとも言えるが、命に関しては心配ない。その、詳しくは話せないが、どうやら女といたようだ。」
私は手帳をひらひらとさせた。ここに魔女の一件が書かれているわけでもなく、限られた手がかりで憶測を披露するのもよくないだろう。
「なんと!ただでさえ、せっかくあのスタンリー家に嫁を出すことを承知したヘースティングス男爵家に対して、真の愛を貫きたいなどとして離縁をちらつかせる悪漢にございます。その件がありながらこんな場所でことに及ぶとは・・・一度裏切ってひどい目に会わなかった家は、味をしめてしまうのでしょう。」
「そのくらいにしておけ、ホーデン。」
二代前の悪行をこうして言われ続けるというのは、反逆罪で父が処刑された私としては気の毒に思う部分がある。スタンリー家は内戦後に断絶した旧白軍派の領土を併合していったので、先祖の悪行のおかげで今の特権があるということもできようが。
「誇り高きラドクリフ家の執事として、厨房のメイドのような噂話はしてくれるな。それにスタンリー家も十分な不幸に見舞われている。」
ダービー伯爵の長男、つまりこのスタンリーの父親は、不可解な状況の中、夜会の後に食中毒で亡くなっている。おそらくは恨みを持つ人間が関わっていたのだろうが、高位貴族や王族が参列したその夜会の調査は、政治的な事情で公表されなかった。調査団は真相に迫ったといわれているが。
「しかし、優秀な軍人という評判は捏造でしょうか。体格こそ良くとも、この状況で寝ていられるようでは・・・」
「特殊な事情があったようだ。それよりホーデン、私達が帰ってきた街道は、リッチモンドの宮殿に行く一本道だったな。王都へ枝分かれする道はあるか。」
スタンリーがどのルートを通ってこの場所についたのか、ふと気になった。ダービー伯爵家は王都に大きなタウンハウスを構えているが、この場所から王都まではアクセスが悪い。
「ありません。この道はサリー伯爵領とリッチモンドの宮殿をつなぐ道で、途中が王領地であることもある、狩りに出る王族や宮廷貴族くらいしか通ることはございません。川に出れば舟があるやもしれませんが。」
ホーデンは昼間に起きた間者の一件を思い出しているようだった。
「舟はこのサイズの馬を滅多に乗せられない、ここは王都から上流になるからなおさらだ。リッチモンドから王都まではそれなりの距離になる上、往来が多いので人の目に付きやすい。そうなるとスタンリーと女はリッチモンドの宮殿か、サリー伯爵の屋敷から出発したと考えるのが自然だな。伯爵邸の滞在が短かった私達と行き帰りに遭遇しなかったことを鑑みると、おそらく前者だろう。」
つまり魔女ルイーズ・レミントンは既に宮殿に滞在していると考えるのが自然だ。
「ホーデン、スタンリーは南棟の王太后様のスペースに出入りができるのだったな。」
「ええ、王太后様は彼の義理のおばあさまに当たりますゆえ。」
スタンリーを手懐けるというのは、財力・武力に加えて宮廷へのアクセスもあるパトロンを手にしたことになる。
そんなしたたかな魔女をなぜ陛下は無罪にしたのか。
「坊ちゃま、何かご存知なのですか。」
ホーデンが不思議そうに問いかける。
「憶測にすぎないが、この件はおそらく魔女の仕業だ。魔女裁判で無罪にはなったが、男を誘惑し虜にする魔女がいるという。スタンリーは以前にひっかかっている。今回もそうなのだろうが、現場が宮殿にほど近いという点で厄介だな。誰が魔女の背後にいるのか、何が真の目的かもわからない。」
晴れ晴れとした初夏の夕暮れ。だが事件の見通しは霧に満ちている。魔女がいつこの場に現れるかもわからない。
思わず胸から魔除けをとりだした。
「魔女ですか・・・坊ちゃま、そのポプリのようなものは一体?」
「ベスの髪を一房もらってきた。魔除けだ。」
ベスははじめ半分面白がっていたが、私が丁重に包みにくるむのを見て驚いていた。
「まさか、エリザベス様を愛する坊ちゃまが、魔女に落とされることなどないでしょう。」
「いや、相手は魔女だ。美人のようだが、美醜関係なく警戒が必要だ。男なら誰でも・・・」
そう言い始めて、ふと思い出した顔があった。
魔女の力が通じないであろう人間が、宮殿に一人。
「まさか・・・」
魔女は女だ。ヘンリー王子は魔女を避ける上に、男にしか興味がない以上、魔女の魔法が効かない可能性が高い。
ヘンリー王子即位を願う一派が、反対派を一人ずつ言いなりにしていくために、ヘンリー王子本人にとっては無害な魔女、ルイーズ・レミントンを雇っているのだとしたらどうだろうか。魔女の働き次第ではアーサー王子を虜にして禅譲させることだってできるだろう。
魔女を無罪にした国王陛下も、それをお望みなのだろうか。
だが不確定要素が多すぎる。起きたスタンリーを問いただしたとして、魔女の勢力下でどれほど正直に答えるだろうか。身分を考えると尋問も難しい。
だが、スタンリーが息をしている以上、犯人は現場を見に帰ってくると考えるのが自然だ。手帳に書かれたメッセージをもう一度読む。
『置いて行ってごめんね、すぐに戻ってきます ルイーズ』
魔女は帰ってくるだろう。これを読んで素直に待ったスタンリーが後で騒ぎ始めたら、魔女にとっても面倒なはずだ。
「ホーデン、私がおかしな行動をとり始めたら止めてくれ。魔女はどの方角から現れるかもわからない。くれぐれも警戒してほしい。」
「はい、しかし坊ちゃまにかぎってそんなことは・・・」
ホーデンはまだ疑心暗鬼だが、普段の凛々しいスタンリーをみたことのある私からすれば、その変貌には嫌でも危機感を覚えさせられた。
はたして魔女が使うのはどのような魔法なのか。全く見当もつかない。
だが得体のしれない魔女を想像してもできることは限られる。今は自分の自制心を信じるしかない。
「ベス、私は裏切らない。神に誓う。」
私は息を飲むと、ベスの髪を握りしめた。