XVI 猟犬セレニティ (雌;ポインター;2才)
私はパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。ルイーズ・レミントンという。
目の前で繰り広げられる光景を見ながら、私は後悔の念に襲われていた。
「・・・ふおっ・・・あひっ・・・そこお・・・」
うつ伏せになったまま人外の鳴き声を発するのは、あの誉れ高いウィロビー家の騎士だ。さっきまで泣いていたのもあってか顔が崩れていて、緩んだ頰と虚ろな目が世にも奇妙な印象を与える。
例えていうなら発情した雌犬みたいな感じだろうか。いや、実家のポインターは交尾の時期でももう少し気品があった。今のウィロビーを見ていると同じ哺乳類として恥ずかしくなる。
「・・・はあっ・・・うはっ・・・もっろっ・・・」
育ち盛りの青年を文明の限界まで追いやっておきながら、魔女ルイーズ・レミントンは手を緩めない。彼女はやたら真剣な表情で、溶けてしまっているウィロビーとのコントラストが凄まじい。
一度その手の本を読んだ時に「快楽にむせび泣く」女とやらが出てきたが、そのときは全く想像できなかった。しかし今目の前にいる青年を描写するには持ってこいの表現だろう。
ウィロビーの名誉のためにも止めに入らないといけない。
「ルイーズ、ちょっと魔法が強すぎるように見えるが。」
これ以上魔法をかけても意味がないだろう。ウィロビーは堕ちたというより墜ちたという表現が正しい状態になっている。
しかしこれは想定外だった。ヘンリー王子がスタンリーのように魔女に夢中になることは想定していたものの、目の前のウィロビーのような、人外の何かになって欲しい訳ではなかった。
ルイーズは聞き分けよくウィロビーの足から手を離して、少し困ったような顔をしてこちらを向き直った。
「あっ・・・」
さっきまで泣きながら悶えていたウィロビーが何やら名残惜しそうな声を出す。一体何がおきているのか。
ルイーズは衣服を整えると、ゆっくり話し始めた。
「男爵、ロアノーク様、もう一人の護衛の方、これからいうことは少し説得力がないかもしれないんですけど、よく聞いてくださいね。」
言葉を失っていた近衛兵のロアノークとモードリンも、我に返ったようにルイーズに耳を傾けている。
「アンソニーを説得するために、さっきは魔法と言いましたけど、私が今かけたのは魔法じゃありません。何度も言っていますけど、そもそも私は魔法を使えません。」
ルイーズはなぜか誇らしげに言い放った。
一体何を言っているのだろう。
横を見なくとも二人の近衛兵がぽかんとしているのがわかる。ルイーズは弁論が得意な少女だが、これ以上説得力のない弁明は聞いたことがない。山を見せつけて、これは山ではない、と言っているようなものだ。
私たちが駆けつけた時には、彼女は自身よりもはるかに力強い騎士を一人捕縛して、もう一人を追い払っている。
さらに我々の目の前で、ウィロビーの肩をしびれされ、足の内側に虫を這い回させ、足の感覚を一時的に断絶して絶望に陥らせた後、どんな感覚を与えたのかはわからないが人間でない何かにしてしまった。究極の喜怒哀楽を味合わせて廃人を製造したのだ。
これが魔法でないとしたら、多分魔法という言葉では表しきれないような、魔法以上の闇魔術か何かに違いない。
「ちょっと!何か返事してよ!」
ルイーズはご機嫌を損ねたようだった。
この少女は「ちょっと」というのが口癖みたいだが、何がちょっとなのか、今の私には分からない。
魔法を実演した上で魔法を使えないと言い張る魔女に何を言ったらいいのか、それも私は分からない。
ロアノークに代わりに答えてもらおうと思って横を見ると、彼の目が点になっている。無理もないか。
私が場を取り持つほかないようだ。
「聞いておきたいんだけど、魔法にかかった人間は馬鹿になるのかな。」
これは確認しておかないといけない。スタンリーが「ルイーズのために」なんて詩を発表した時は気が触れたと思ったが、無骨な奴にしては高度な詩だったし、その後ルイーズの魔女裁判を王都に移そうと尽力していたときなど、別人かのような事務処理能力を見せていた。魔法による頭の心配はないと思っていたが、いざ目前にすると不安に襲われる。
「だから魔法じゃないってば。それに、もし馬鹿に見えるとしたら、多分アンソニーがもともとそうだったのよ。」
それは否めない。馬鹿が益々馬鹿になったか見破るのは難しい。王子に引き合わせる前に、もう少し知能のある男で実験しないといけないだろう。
「おい魔女・・・」
ウィロビーはどうやら言語能力を取り戻していた。どうやら人外の何かになるのは魔法をかけられている最中だけのようだ。ただしさっきよりも勢いがない声をしている。
「俺の体は、もう、お前のものだが、俺の心は、心までは、まだ、堕ちてないぞ。もっと魔法をかけないと・・・」
赤くなった顔と潤った目のまま、ウィロビーは言葉を絞り出しながら、魔女に対して強がっていた。
いや、どこをどう見ても堕ちている。明らかに堕ちるところまで堕ちている。
「契約は守ってくれるのよね。」
事務的な返答があった。ルイーズはどこまでも契約至上主義だ。悪魔との契約書もきっと大事に保管してあるのだろう。
「それは、ブロークのウィロビー家の名誉にかけて、守る。だから、その、魔法を・・・」
今さっきウィロビー家の名誉を地に落とした実感はまだないと見える。
「じゃあいいわ。私たちに都合の悪いことをしないでいてくれれば、あなたの心は自由よ。」
「えっ、そんな・・・」
ルイーズの寛大さにも驚いたが、ウィロビーのがっかりしたような返答にはもはや驚き疲れて言葉が出ない。つくづく理解に苦しむ。
「俺の心、いらないのか?もうちょっと、魔法をかけるだけでいいんだぞ。」
口を尖らせて煽るように言っているが、なぜ自ら心を売り払おうとしているのか、この青年は。
「もらっても使い道がないじゃない。じゃあ、私たちに便宜をはかってくれたら、お望み通り魔法をかけてあげるわ。」
確かに、魔女に捕まった時点で彼の将来は閉ざされている。心を奪ったところで仕方がないのかもしれない。かわいい顔をしているが、齢16にしてルイーズはビジネスライクな魔女だ。
「そんな、見捨てるのか。魔法かけないのか。魔女のプライドはないのか。」
ウィロビーはすがるような目つきをしている。いじけた子犬のようだ。でも実家のポインターは遊んで欲しい時でもこれより威厳がある。
「それが人に物を頼む態度かしら。」
「ま、魔女様・・・」
「ルイーズ!」
「ルイーズ様っ、もっと魔法をかけてくださいっ。」
ヘンリー王子をルイーズの奴隷にするわけにはいかない。この分だと子供を作るには有効だろうが、その代償が大きすぎるかもしれない。一国の王子を、目の前の人間かどうか怪しい生物にするわけにはいかないのだ。
どうしたらいいのか。
私は頭を抱えるばかりだった。




