CLXVII 使者チャールズ・ブランドン
俺は服を脱ぎ捨てると、そのまま勢いよく水に飛び込んだ。初夏で水が冷たいけど、やっぱり気持ちいい。
「コンプトン、リアルテニスの特訓の後にしては元気がいいな。フィリップ大公の訪問時もこの調子で期待している。」
先に泉に入っていた王子様が水を掻き分けるようにして俺の方に近づいていらした。
「身に余る光栄です、王子様!」
裸だと様にならないけど、一応礼を取る。王子様は髪が濡れるといつもの勢いのいい雰囲気からうって変わって、伝説の聖獣みたいに近づきづらい雰囲気になる。
「おや、前よりも腹筋がついたのではないか、コンプトン?」
さらにお近づきになって、俺のお腹をペタペタと軽くお触りになる王子様。滅多にないことに恐縮してしまう。
「お・・・恐れ入ります。王子様と比べてはまだまだです。」
ブランドンみたいなあからさまに割れた腹筋と逆三角形の体に比べて、王子様は一目で鍛え上げられているのがわかるものの、もっとすっきりした嫌味のないフォームのお腹と胸筋をしていらっしゃる。この彫刻以上に均整の取れたご体型は俺の理想だ。
「はは、コンプトンは素質がある。今後も鍛錬に励むようにな。」
「ありがたき幸せ。」
一度トレーニングの必要性についての難しいお話をありがたく拝聴させていたがいたけど、王子様は体の作りに大変お詳しくておられる。そんなお方に素質があると仰っていただけるととても嬉しい。
「ハル王子、全裸の男に触れるとまた悪い噂が立ちかねない。控え目にした方が良いのでは。」
少し離れたところで浸かっていたブランドンが苦々しそうに告げてくる。奴は俺と王子様の仲をあまりよく思ってない節がある。
「ここには我々しかいないのだから、気にする必要はないだろう。チャールズの言うように、人目のあるところでは気をつけている。」
その通り。王子様は本来気安く人に触れるお方ではない。気を許した人間にだけ、気の許せる場所でだけだ。今回も泉の周りとタイラーさんの馬車はニーヴェットが警備して人払いをしている。あいつも泉に来ればよかったのになぜか嫌がっていた。
「しかしハル王子、東の国では水浴びに愛人を連れてくるものらしい。そうすれば変な噂も立たないかもしれない。」
ブランドンの投げやりな発言に、心なしか王子様の顔が曇った気がした。もともとスタンリー卿が女連れだった一件で王子様のご機嫌が崩れたのをみて、せっかく水浴びにお誘いしたのだ。これじゃあ台無しだ。
それにしても、ブランドンが自他ともに認める女好きなのは王子様もよく知っていて、隠すつもりもないようだったけど、その話題を王子様の前で自分から出すことはなかった。ここ数日、例のダビデ像の話といい、王子様が避けたがる話をあえて出しにいっている節がある。何かあったのか。
「そういえば、ブランドンは東の国への使節団に入っていたよね。」
とりあえず話題を変えてみる。
「そうなのかチャールズ?」
不思議そうに訊ねる王子様。話が伝わっていないのは意外だった。
「公式に決定してからハル王子に伝えようと思っていたのだけどね。ドーセット侯爵はメアリー王女様をよく存じ上げないから、私が直感的に判断する意味もあるのではないかと。」
なんだかよくわからない理由だ。従者に欠員が出るなら予め知っておいた方がいいし、ブランドンの直観で政略結婚の交渉をひっくり返されたら困るだろうけど。
「言葉は大丈夫か?」
王子様は、ご自身に報告が上がっていないことよりも、従者のことを先に心配する素敵なお方でいらっしゃる。
「雰囲気や身振り手振りでなんとかするつもりでいる。難しい交渉や通訳は文官のドーセット侯爵に任せればいいだろう。」
「ドーセットはただの古典語を話す文官ではない。ウォーズィーと同じく名門のモードリン・カレッジを出ているが、馬上槍試合でも腕を鳴らす文武両道だ。母親との相続争いで宮廷を留守にしがちなのは残念なことだが。」
王子様は廷臣を本当によく把握なさっておられる。そういう意味では身元のよくわらないリディントンを快く引き受けたのは不思議だった。
「ねえ王子様、話は変わりますけど、リディントンの身元はどうなっているのですか?」
「ヨーマスの公証人の息子と聞いている。ニーヴェットとはノーフォークの社交界で知り合いだったようだ。細かいところはウィンスローが保証しているから心配はしていない。もともと門地など気にしてはいないがな。」
確かに、身分を気にするお方だったら、馬丁上がりのブランドンと同じ水に浸かったりしないかもしれない。
「そうだ、ハル王子、勤務歴の浅いリディントンも東の国の使者にして、経験を積ませたらどうだろう。」
ブランドンは昨日もリディントンを王子から引き離そうとしていた。でもそのために嫌いな奴と一緒に東の国を視察に行くのって、俺だったら嫌だけどな。
「確かに古典語ができて物腰の柔らかいリディントンは適任かもしれないが、私としてはリディントンをもっとよく知りたいと思っていてな。それにリディントンにほぐされるのは至福の・・・」
「ハル王子!その話をコンプトンの前でするな!」
ブランドンが珍しくぶっきらぼうな口調で王子様を遮った。大変無礼な奴だ。リディントンに耳をいじられて蕩けてしまった王子の顔を思い出すのはとても悔しいから、その話がされないのは嬉しいけど。
「どうしたのだ、チャールズ?詳しく話していないが、コンプトンは事後に私室に入ってきたので大まかなことを知っている。」
「・・・中に入れられたこともか・・・?」
ブランドンが青くなっている。中ってなんのことだ?
「そんな詳細な描写はしていないが・・・そこまで話したか、コンプトン?」
「いえ、凄かったとはおっしゃっていましたが、具体的に何があったとはお聞きしていません。熱くされた後に揉まれていらっしゃるところはお見かけしましたが・・・」
湯気を出す謎の布で顔を揉まれる王子様が気持ちよさそうにしていた、あの場面に立ち会うのは屈辱だった。ちょっと声が低くなる。でもその後顔剃りがうまくいったのは悔しいけどリディントンの技のおかげなんだと思う。
それにしてもブランドンがさっきから蒼白だ。このまま彫刻になってしまったりしないか。今にも立ちくらみしそうに見えて心配になる。
どちらにしても困る。この前リディントンに倒された時にブランドンの体を部屋の隅まで運んだが、重すぎてしばらく腰が痛かった。
「ハル王子・・・いいか、このことは誰にも喋ってはいけない。コンプトンにも詳細は話すな。これ以降リディントンと会うときは人払いをして、行為中はなるべく声を抑えるといい。コンプトンも絶対にこのことを口外するな。少なくともこの先一年は。」
ブランドンは何かを覚悟するかのように、重い調子で話した。
「一年?何かの期限なのか?」
「・・・なんとなくだ。」
要求が多い割には歯切れが悪い。
「わかった、リディントンの行為中はなるべく気をつけるとしよう。そろそろ体も冷えてきたので、私は上がることにする。」
王子様はゆっくりと水からお上がりになって、神話に出てきそうなお体があらわになった。
王子様はブランドンへの信頼が厚い。多分ブランドンはリディントンが嫌いなだけなんだろうけど、特に実害がない限り王子様はあいつの癇癪に合わせがちでおられる。
そのブランドンはのしのしと俺の方に近づいてきて、頭を掴むと小声で耳元に囁いた。
「それとコンプトン、いいか、ハル王子はお前の前で熱くされたり揉まれたりしたかもしれないが、王子は自分でするところを従者に手伝わせただけであって、決してリディントンとハル王子の間に特別な感情があるわけではない、わかったか。」
「それは言われなくてもよくわかっている。はっきりとではないけど、ご自分でされている様なのを拝見したことがある。」
王子様は耳掃除をご自分でされていたように思う。ノリスの担当だったから立ち会ったことはほとんどないけど。
「・・・そうか・・・それはそれで衝撃だが・・・まあ年齢相応だろう・・・身近に控えていればそういう気まずいこともある・・・少なくともリディントン問題について少しは安心できそうだ・・・とにかく、今後リディントンが部屋にいるときは同席しないほうがいい、わかったな。」
相変わらず蒼白なブランドンが息を整えていた。
「チャールズ、ここ数日様子がおかしくないか。コンプトンを苛めるような真似はよせ。」
体を拭いている王子様がブランドンに声をかける。
「苛めてなどいない、ハル王子。大事な忠告をしてやっている。特にリディントンがどれほど危険かについて・・・」
ブランドンはまだ喋っていたけど、王子様は何かに気を取られたように顔を背けた。
「おや、噂をすれば、あれはリディントンではないか?リディントン!どこへ行く!」
リディントンを見かけなさったらしい。暇になったニーヴェットが応援に呼んだのかもしれない。あの二人はもともと仲がいいらしいからな。
せっかく泉に来ているのに、あんまり嬉しくないニュースだ。
「リディントン!」
「まず服を着るんだ、ハル王子!」
ブランドンが慌てて泉から上がって王子様に服を渡す。
「どうしたチャールズ、男同士ではないか。」
「だからこそ服を着るんだ、ハル王子!」
会話が噛み合っていない。ブランドンは一体どうしたのだろう。
「この際コンプトンにも忠告しておく。リディントンに無防備な腰を見せたら、食べられてしまうのだ!ちなみにハル王子はまだ無事だ、断じて無事だ・・・」
「食べられる?どう言う意味だ?」
ブランドンはさっきから話がつながらない。『断じて』無事って聞いたことがないけど。
「チャールズ、何を大袈裟な話をしている?リディントンにされたことと言っても、何も大したことではない。少しかき回されて、快くされただけで・・・」
耳を指差してグリグリとジェスチャーをする王子様を見もせずに、俯いたままのブランドンは両方のお肩をぐっと掴んだ。組み合って、なんだか古代のレスリングの絵みたいだ。
「それを俗に食われるというんだ!コンプトンの前で過激なことを言うべきではない!目を覚ませハル王子!」
食われるってそういう意味だったのか!宮廷育ちだとそういう口語を知る機会が少ないから、女に片っ端から声をかけるブランドンから学ぶことは多い。
よくわからないけど俺も少し食われてみたいかも。耳が痛くなったりしないか心配だけど。
「ハル王子、よく思い出すんだ。リディントンにされたことで、特に不自然なことはなかったか。」
王子様の両肩を抱いたまま、噛み締めるように話すブランドン。
「不自然か・・・後半は意識が朦朧としていたからか記憶が曖昧だが、気のせいか目隠しをされて胸のあたりを弄られているような感覚があった。不自然といえば不自然だ。」
「いや、それは、よくある。あまり珍しくない。男同士では知らないが。」
ブランドンはやっぱり女に耳掃除をさせているみたいだ。まあ想像するのは難しくないけど。でも目隠しするものなのか。王子様のイアースプーンは串みたいで痛そうだったから、見えない方が安心するのかもしれない。
「そうなのか。少し気にかかっていたのだが、おかげで気分が晴れた。しかし話しているうちにリディントンを見失ってしまったな。そろそろ体も冷えてきたし、チャールズの忠告にしたがって服を着るとしよう。」
王子さまは朗らかだった。言われてみれば体が冷えてきたような気もする。
俺も泉から上がってさっと体を拭くと、脱ぎ捨ててあったシャツに袖を通した。




