CLXV スタンリー卿夫人アン・ヘースティングス
話すときはイントロが大事だと思う。王子みたいに長すぎる前置きがあっても困るけど、特に深刻な話だったら答える側にも心構えが必要だと思う。
だから馬を降りた直後、急に「出奔しよう」なんて言われても脈絡がなさすぎて困る。心の準備はもちろん、文字通り準備できてない。
「スタンリー卿、今私は男爵の一件を消化するので精一杯なの。そんな複雑な話、急に持ち出されたって困るわ。そもそも、宮殿を脱出するならセッジヒルさんの馬車に荷物を積んで悠々と出られたはずよ。なんで借りた男性用の服を着て身ひとつでいるときに脱出を持ちかけるのかしら。」
自分の兵隊さんみたいな格好を見て、この格好で家に帰ったらアメリアが卒倒しそうなことに気づいた。あとせっかくマダム・ポーリーヌに服を仕立ててもらっているのに、一度も着られないのはもったいない。
「ノリッジの裁判所から急に見知らぬ宮殿まで連れてこられたルイーズのことだ、今更そんな身構えることもないだろう。必要なものは手に入る。それに大掛かりに用意すると感づかれるからな。」
真面目な目をしたスタンリー卿は色々楽観的で、ある意味で男爵に似ている。王都に連れてこられたときは、王立裁判所に行くという建前だったから、家の人が私の荷物をまとめてくれたのに。
スザンナやフランシス君は男爵や私の『一味』だったみたいだし、私が荷物をまとめ始めたら確かに妨害が入るかもしれないけど。
「確かに男爵達は強引だったけど、スタンリー卿だって隙を見せると結婚しようとしてくるから油断できないわ。大体、男爵達とは別に、私を狙って有罪判決と野次を飛ばす群集まで用意した人たちがいるんでしょう?ここで逃げたら追手が増えて味方が減るだけよ。それに私の家族をカードにする悪い人たちが出てくるかもしれないわ。」
宮殿は敵も多かったけど、ハーバート男爵やウォーズィー司祭みたいな協力者がいっぱいいたのは安心感があった。ルイス・リディントンは何度か危ない目にあったかもしれないけど、私のせいでレミントン家が襲われたりしたらその方が辛いかもしれない。
「さっきも言ったが、ルイーズが味方だとなぜか勘違いしている連中は、ルイーズを使い捨てることしか考えていないからな。それにレミントン家への危害を防ぎ、ルイーズを守るのは簡単だ。スタンリー家に入ってしまえばいい。」
「ちょっと待ちなさい、既婚者!」
私の意向を聞かないという点では、男爵とスタンリー卿、あまり変わらない気がする。スタンリー卿の実家は勢力のある伯爵家だから、レミントン家よりも多少安全なことは確かだけど。
「アンとの結婚無効化は、すでに内密に教会に話を通してある。ヘースティングス男爵家とも補償についての交渉が始まっている。持参金はすでに返してあるからな。あとはルイーズのサインを待つだけだ。」
鼻が高そうに私を見下ろしているスタンリー卿。また勝手に話を進めているけど、まさかこのために弁護士資格を取ったんじゃないわよね。
「合法だろうと、私は自分がサインした契約を守れない人は嫌い!私との約束が将来どうなるかもわからないじゃない。」
スタンリー卿の複雑な立場だと政略結婚の話を断りづらかったのはわかるけど、一度覚悟を決めたなら取り消さないでほしい。
「私のルイーズへの気持ちが冷めるなどということは絶対にないが・・・」
普段は雄弁なスタンリー卿だけど、私に嫌いと言われると今みたいにおろおろし始める。それに契約不履行については弁明しようがないものね。レミントン家では契約は絶対なんだから。
契約?そういえばしていたかも。
「そうよ、契約よ!私はレミントン家の娘よ、1年間は王子のお世話をするというサインをしたからには、約束は守らないといけないわ。あととりあえず芝生に座りましょう、足が疲れてきたわ。」
さっきから馬の隣で立ったまま話していたから、ちょっと落ち着きたくなった。
どさっと座りながら、スタンリー卿は困惑したように目をうろうろさせている。
「ルイーズ、さっきからどうしたのだ?全く一貫性がない。そもそも重要な情報が隠蔽されていた以上、契約は無効にできる上に、架空のルイスとやらの約束など守る必要もないだろう?」
「ルイスになると同意したのはルイーズ・レミントンよ。ノリッジに帰れないと勘違いして、修道院との二択だと思わされたのは男爵のせいかもしれないけど、公式に魔女にならずに済んだのは男爵のおかげでもあるみたいだし、このまま逃げるのもなんだか気が進まないわ。」
散々迷惑をかけられた上に、騙されていたのもわかったけど、なんだか男爵のことを嫌いになれないのよね。別に顔がいいからってわけじゃないけど。
「いいかルイーズ、私が完璧であると偽るつもりはない。だが仮にルイーズの『味方』とやらが敵の襲撃を撃退したとしても、女たらしのブランドンと同僚である時点でルイーズの貞操が危ないし、女嫌いの王子に使えているとなるとルイーズの命さえ危ない。」
「それはそうなんだけど、ブランドンも王子もうまく騙されているし、貞操の面では童貞のスタンリー卿だって同じくらい危ないわ。それに王子は本物の女嫌いじゃないと思うの。」
貞操リスクを感じたことは、アンソニーが脱ぎ始めたときとブランドンが検査しようとしたときの二度だから、結構危ないことは確かなのだけど。王子になぜか耳かきをする羽目になったことも含めて、言うとスタンリー卿が半狂乱になりそうだから黙っておく。
「彼らが騙されているとしたら、ルイーズ自身が自分を騙しているからだ。偽りの自分に安心を感じていても、長続きなどしない。いいかルイーズ、人間はピンチになると、動かない理由ばかり考えたがる。おそらくは本能的に平静を保とうとするのだ。だがピンチで動ける人間だけがピンチからすり抜けられる。」
「そうかもしれないけど・・・」
確かに冷静に考えれば身柄が狙われている私はピンチで、スタンリー卿にときめかなくても結婚してしまうのが安全策であるのは確かなんだけど。
「ルイーズ、自分を偽って生きて、何が楽しいというんだ?」
スタンリー卿が畳み掛ける。そうね、大変だったわね。ルイスになって、ルイザになって、あとルーテシアになって・・・
「・・・意外と楽しかったかも。」
そうだわ、色々と迷惑をかけられたけど、やっぱり楽しかった。
「ねえ、スタンリー卿、後付けの理由は色々と思いつくけど、結局私は残りたいみたいなの。普通に考えたら今スタンリー卿と結婚する方がローリスクハイリターンなんだろうけど、直感的にもう少し宮仕えしてみたいの。人生一度きり、かどうかはわからないけど、やりたいことをやってみたいわ。」
私、人生二度目なのよね、誰にも言っていないけど。でも前世では部活とマッサージ師としてのトレーニングに青春を捧げちゃったし、16歳で奥方になりたいとはあんまり思わない。ダービー伯爵家とは家族の仲もいいし、お金の心配もないし、いいお話ではあるんだけど。
「ルイーズ・・・やはり顔か・・・」
ガックリ項垂れるスタンリー卿。
「違うわ、スタンリー卿!少なくとも顔だけじゃないの!」
私の男爵への評価が甘いのは見た目の影響もあるかもしれないけど。
「顔といえば、スタンリー卿、男爵って何者なの?」
男爵のプロフィールをあまり知らないことに気づいた。
「ウィンスローか、根っからの悪人ではないが、過激派ではあるな。どこから話すべきか・・・」
スタンリー卿は思索にふけるように赤茶の顎髭をいじると、いつもよりゆっくりした調子で話し始めた。




