CXLV 側近グリフィス・ライス
アーサー様はいつものように外をご覧になっていた。
「懐かしいバグパイプの音がするね、ロバート。」
どこか憂愁に満ちた穏やかな笑いを湛えられたまま、アーサー様は窓から離れて椅子におかけになった。
「はい、北の大使一行が演奏しているようです。」
スパイの一件を報告申し上げようかとも思ったが、ご心労は少なくていらっしゃる方がいいだろう。
「アーサー、なんなら外まで聴きに行くか?少しは日に当たった方がいいだろう。」
ライスは今日もアーサー様の御幸を望んでいるが、ここ数ヶ月は社交辞令に近いものがあるのだろう、言い方からして本人もいい返事が来るとは思っていないようだ。
「いや、遠慮をしておくよ。先ほど騒ぎがあったようだから、この時間帯に私が外にでたら警備が混乱してしまうかもしれないね。ありがとうグリフィス。」
次期国王でいらっしゃるにも関わらずこの慮り方をお見せになるのは、この先吉と出るか凶と出るか。
「北の間者とやらはとっくに逃亡したのだろう。味方がいたとするとややこしいが。ラドクリフ、警備はどうなっている?」
ライスは私に問いかけてきた。彼はいつもアーサー様のお側に控えているが、その分宮殿の他のスタッフとはあまり情報交換をする機会がない。
「国王陛下は王都の議事堂へ登院されており、バウチャー子爵が付き添っています。敷地の南側はサー・クリストファー・ウィロビー、南棟、教会及び公会堂はハーバート男爵、留守の北棟はウィンスロー男爵とサー・アンドリュー・ウィンザー、ここ西棟はサー・エドワード・ネヴィル、東棟はチャールズ・ブランドンが警備を担当します。」
「チャールズ・ブランドンだと?間者の味方に一人でも女がいたら、奴が寝室で一人の相手をする間に他の全員が侵入していてもおかしくない。」
この点は私もライスに同意する。ヘンリー王子の周りの人間は見た目の良さや、王子との心や体の相性で採用されているようだから、適材適所とはほど遠いのだ。
「ブランドンはヘンリー王子とリアルテニスに興じているようです。国王陛下付近衛兵のゴードン・ロアノークが臨時で指揮を取っています。」
「その方が実害も少なくていいだろう。」
確かにロアノークは目立ちこそしないがある程度の実務能力がある。ライスの言うとおり、ブランドンは一生大人しくリアルテニスをしていてくれた方が国のためになる。
「そうですね、船は東棟に隣接する河岸から出ているので、あとで責任問題になるかもしれませんが。」
ヘンリー王子は友達贔屓が激しいから、責任をとるのはブランドンではなくロアノークになるだろうと思う。気の毒で仕方がない。
「少し落ち着いたら、サー・エドワードと話はできるかな?」
今まで静かにしておられたアーサー様が、会話が途切れたところで私にお尋ねになった。
「彼は王太子妃様の警護に当たっております。すぐ隣の建物ですから、私が呼んで参りましょう。」
西棟はアーサー様の居住空間と王太子妃の居住空間が分かれていて、一旦外に出ないと行き来できない構造になっている。
「待てラドクリフ、ただでさえアーサーの御居室まで登殿しているのが俺とお前だけだと言うのに、側を離れるのは良くない。間者騒ぎがあるなら特にだ。大体なぜサー・エドワードは次期国王になるアーサーでなく、南の連中を引き連れた王太子妃を守っているのか。」
私が剣を抜かなくとも、斧を振り回すライスの姿を見掛ければ間者は逃げていくだろう。ただ事後処理に私がいた方がいいに違いない。
「わかりました、しばし待ちましょう。王太子妃様の従者は人数こそ多いものの、私やライスと違って全く腕が立ちません。さらに侍女たちの混乱は不可避でしょうから、サー・エドワードには彼女らを鎮める役割もあります。また、この先の応接間、侍従の部屋、及び衛兵の部屋に先ほどから衛兵を配置しているので、警備の程度は万全です。私とライスを含めれば、間者は4層を突破しなければアーサー様までたどり着けません。」
珍しく早い段階で間者の身元が割れているが、おそらくは暗殺ではなく情報収集が目的だったのだろう。味方の混乱が心配になる。身元をばらしたのは失態の可能性もあるが、我々を疑心暗鬼にすることが目的なのかもしれない。
「どうもありがとう、ロバート。サー・エドワードの件は後で構わないよ。」
またアーサー様に優しい笑顔でご遠慮させてしまった。致し方ないとはいえ口惜しいものがある。
「しかしモーリスが異動になり、アンソニーは静養中、ジェラルドはダドリー議長を迎えに行ったまま帰ってこない。明らかに人手不足なのに、サー・エドワードを王太子妃様に回すとは。」
グリフィスは指を折りながらもっともな嘆きを口にした。
「私もアンソニーは復帰させてもいいのではと思います。もちろん、フィッツジェラルドとの関係や突飛な新大陸行きのアイデアから見ても、彼の人生やアイデンティティに迷いが見られますから、静養したいのはわかります。しかし今や空前絶後の人手不足です。」
「無理強いをするものではないよ。私の側にいても彼らの将来にいいことがないかもしれないからね。モーリスもアンソニーも、新天地を見つけるのは悪いことではないのではないかな。」
アーサー様は悲壮感のないまま表情を変えずにおっしゃったので、最初は意味をわかりかねた。
「アーサー!縁起でもないことを言うんじゃない!」
「そうですアーサー様!アーサー様の御即位をお助けできるのは、これ以上ない名誉です。」
医師の診断は一致しないが、アーサー様は命が危ない状況ではいらっしゃらない。それでもこうしてどこか達観したお言葉を口にされると、不安がよぎって頭から離れない。
「それに新天地とはおっしゃいますが、昨日モーリスが宴会から黒服の男に抱えられて出ていくのを見ました。モーリスが倒れるまで飲むとは考えられませんから、何かあったのでしょう。新しい環境になじめていないのかもしれません。」
ヘンリー王子に迫られたか、彼と従者との逢瀬を見てしまったか、のどちらかではないだろうか。モーリスの信仰心を考えれば、いずれの場合も失神してもおかしくない。
「弟にはしばらく会えていないけど、何かを無理強いする性格はしていないよ。ただモーリスが無理していないかは確かに心配だね。今度やんわりと尋ねてみよう。」
アーサー様は誰のことも悪く言わない。
なぜだろうか、この方の心の気高さ、高貴さに触れる度に、この方が国王にならない予感がしてしまうのは。
「ロバート、君には海軍卿のド・ウィアー卿の副官になる話がきているよね。彼はとても面倒見のいい人物で、鋭い洞察から学ぶことも多いと思う。私に気兼ねすることはないから、行っておいで。」
一瞬耳を疑った。確かに内密に打診があったが、アーサー様は誰からうかがったのだろう。
「とんでもない。アーサー様がお元気になる前に転勤するなど、私のプライドと良心が許せません。ご覧のように人手も不足しています。どうぞ見捨てないでください。」
モーリスの転勤もアンソニーの新大陸騒動も、アーサー様の周辺は一切関わっていない。アーサー様は本人の意思を尊重すると言うが、強引に拐われてしまっているのだ。
全く、こういうときに島男は何をしているのだ。
「どうか頭を下げないでほしい、ロバート。いつまでも病人の世話をしていても大変だろう?よく考えて判断してほしいと、切に願っているよ。」
一度でいいからこの方に我が儘を言わせたい。『転勤をすすめるなど、私はアーサー様にとってその程度の存在だったのですか』と言いかけたが、アーサー様の困ったような優しい微笑みが想像できたので、そのまま言い淀んだ。
「アーサー、俺はどうせ人質だ。ラドクリフ達と違って王都で栄達する野心もない。俺は二人のうちどちらかが死ぬまでお前の側にいるからな。」
ライスはアーサー様の少し細い両肩に両手を置いて、アーサー様を見つめた。半島の人間はこうして手で触れ合うことが多い。
「グリフィス、君と言う人は・・・」
ポジティブともネガティブとも判断しづらい、弱いような優しいような微笑みを湛えて、アーサー様は解釈の難しいことをおっしゃった。




