CXXXIV 女官ドナ・エルヴィラ・マヌエル・デ・ヴィレナ・スアレス・デ・フィゲロア
私は目を瞑ったまま。
ほほほと侍女の声が部屋に響いている。
妙に落ち着いた笑い声で、まるで私が目を瞑って震えているのも想定どおりみたい。
なんで・・・
なんでよく分からない外国人の魔法使いに殺されないといけないの?
なんで今私は王太子妃様の部屋で、子猫を掲げたまま命乞いをしているのかしら。
腕ももう疲れてきた。
うっすらと目を開ける。
白い猫の背中。猫を撫でる太い指。
「ルーテシア・・・」
私の仮の名前を呼ぶ博士。子猫を撫でながら頬が緩んでいる。
「あの・・・博士様・・・魔法は?」
思わず聞いてしまった。
「魔法?なにぞなにぞ?」
とぼけたように聞き返す博士。少し笑っているような気がする。
「プエブラ博士、さばかりにおきてたまへ。」
王太子妃様の綺麗だけど少し落ち着いた声が響いた。
「ルーテシアや、全ては博士のざれごとなれば、怯へ惑ふに足らず。愛しや、畏れ申さん。」
振り返ってみると、なんだか申し訳なさそうにしているけど、ちょっと口角が笑いを抑えていそうに見える王太子妃様がいた。
全部はわからなかったけど、戯言って言った?
「ちょっと!怖かったじゃない!!!いくら王太子妃様だって、やっていいことと悪いことがあるんですからね!!!謝るって言ったって、大体王女様も『博士に打ち任す』とか言ってノリノリだったじゃない!!!」
「のりのり?」
耳を抑えた王太子妃様と侍女の方がぽかんとしている。
「そもそもね!!まずいことを聞いてしまったところに、『消つべし!』とか言われたら、本気で殺されると思うでしょう!!!なんでそんな状況で冗談を言おうと思うのよ!!!T P Oがなってないのよ!」
「T P・・・?」
博士が頭を抱えて狼狽えている。
「何事かは?」
奥の部屋から、少し派手に着飾った30代くらいの凛とした夫人が出てきた。クリーム色と黄色の混ざったドレスがダークブロンドによく似合っている。
「ドナ・エルヴィラ、プエブラ博士の戯れごとをすれば、この子を怒らかすなり。」
侍女の方が返答する。毎度のことみたいで、ドナ・エルヴィラと呼ばれたその人は軽くため息をついた。
「プエブラ博士、そなたはあながちなり。北の国の大使、奥の応接間まで渡りて、我が方に文句を言ひ散らしけり。居入りてなほ帰らず。」
あながちってどういう意味だったかしら。でもどうやら北の国は間者事件の真相に気付いていたみたい。さっき逃げていたのに、展開が早いのね。それにしても、私が死の恐怖に襲われていたのに、なんだか「いつものことね」っていう雰囲気を出されるとちょっとイライラする。
「存ぜり。案ずること勿かれ。北の国が南の国を咎めたとて、南の国は此の国の友好国なれば、北の申し状は誰も信じまじ。我が端もの、南の国にすでに舟立ちす。証残らざりけり。」
博士はとりたてて難しい言葉を使うけど、本人が南の国に逃げて真相が分からないし、北の国は信用がないから心配ない、という理屈かしら。北の国が南の国のせいだと分かっていて、それでも誰も信じないなら、しがない小間使いの私がこれを知ったところで問題はないのね。
とりあえず立ち聞きした内容はそこまで機密でもなかったようだけど、このやるせない鬱憤をどうしたらいいのかしら。
自信満々の博士に対して、なんだかドナ・エルヴィラは不満そうにしている。王太子妃様もどこからか扇子を取り出して広げて、扇子越しに博士を見つめた。
「この間者の件、ドン・ペドロであれば、かやうな荒々しこと避るものを。あないみじや。」
「枢機卿は構えへて重しことにも過ぐ。事の様、果断を要ず。」
ドン・ペドロさんとやらが前任者だったのかな。博士と王太子妃様は路線対立があるみたいだけど、私を驚かした博士はさっさと失脚して欲しいから、この調子でどんどん喧嘩して欲しい。
枢機卿ってどこかで聞いたような気がするけど・・・
ドナ・エルヴィラもいつの間にか扇子を取り出していた。南の国は扇子文化なのかしら。
「さうは言ひても、物騒なれば・・・やや、ルーテシア!」
「はい!?」
考えこんでいるようだったドナ・エルヴィラが私の仮の名前を呼んで近づいてくる。
私のコードネームが決まっているのかしら?
近くで見るとつり目がきつい感じがするけど、やっぱりパリッとした美人だった。少し疲れた感じもある。
「ルーテシア・・・」
子猫を撫でるドナ・エルヴィラ。
なるほど。
「ちょっと侍女の方、ルーテシアって猫の名前じゃない!!!とっさにもうちょっとちゃんとした名前思いつかなかったの!?」
知らん振りを決め込む侍女の方を睨みつける。
「あなかまたまへ!」
耳を抑えたドナ・エルヴィラが何か言っているけど、今のは一音節も意味が分からなかった。
とりあえず無難に自己紹介して、プエブラ博士のいじめを糾弾しておこうと思う。
「わが名、教会の腰元、ルイザ・リヴィングストンなり。プエブラ博士の我が身をおなぶりやる、断じて許すまじ。」
「なんと、いにしゑのことばを解すか!?」
私をじっと見つめるドナ・エルヴィラ。
興味深そうにしているけど、私の博士への抗議はスルーされるのかしら。
「そなた、王太子殿下とキャサリン様の逢瀬、宜しくたちあひたまへ。」
目を輝かすドナ・エルヴィラ。
いやですよ?
なんでいきなりそうなるの?
「辞ぶ。」
端的に断る。
だいたい意味が分からない。なんでお二人の逢瀬に教会づきの小間使いが立ち会うのかしら。しかも逢瀬ってそういう意味よね?
「世を憚ることなし。空なれば。」
後ろから王太子妃様の声がした。
そら?
私に猫の名前をつけた侍女の方がうんうんと頷いている。
「北の国の大使、応接間に居入る。時を得。」
なるほど、大使のいる隣の部屋で、王太子殿下が御渡りになったふりをすれば、ジェームズ王子の即位を狙う北の国は当てが外れる、というわけね。私は南の国出身でない証人になるのね。
博士といいこのドナ・エルヴィラといい、すごく適当な工作が好きな人たちなのね。さすがに王太子殿下のスケジュールは把握しているんだろうけど、私はタイミング悪く偶然部屋に入ってしまう演技でもするのかしら。そもそも私の身分を確認した方がいいと思うのだけど。
ドナ・エルヴィラってそもそも何者なのかしら。さっきからお互い自己紹介がなさすぎてもう訳が分からないわ。それと、なんでみんな私に猫を持たせたまま撫でるの?
なんだか色々いっぱいいっぱいになりながら、私の同意を待たずに奥の部屋に進む一同の後を、とぼとぼとついていった。