CXXV 国境監察官デイカー男爵
この章だけは「島」が舞台です。
朝、納屋の戸を開けたら、元気なトビーがわたしにふわっと飛びついてきた。
「きゃっ、トビーったら!なめちゃダメっ、ふふっ。」
わたしの周りで楽しそうにぴょんぴょん跳ねながら、キャンキャン吠え回るトビー。当分このコロコロした可愛い子を見られないのは、やっぱり悲しくなっちゃう。
「ねえ聞いてトビー、もうあなたともお別れなの。わたし、とっても寂しい。」
トビーを抱きかかえてほおをすりすりする。クウンとかわいい泣き声を上げて、トビーはまたわたしをなめ回し始めた。
「もうトビー、そんなにペロペロしたら男爵様が怒っちゃうよ。わたしを本土へ連れていくんだって。」
トビーの目を見つめる。辛いときもトビーをもふもふしていれば立ち直れたのに、離れ離れになっちゃうね。
「ドロテア!どこにいるんだい?男爵様がお見えだよ。」
母屋からエミーおばさんの声がした。
「はあい!今いきまあす!」
おばさんに向かって大きな声を上げると、わたしはトビーがギュンと苦しそうな声を上げるまで思いっきり抱きしめた。
「トビー、元気でね、わたしを忘れないでね!」
もう一回顔をグリグリしてから、トビーから手を話して、駆け足で母屋に戻った。
母屋の前には、立派な馬車が何台も並んでいて、何だか馬車のおまけにエミーおばさんの家があるように見える。
若くて姿勢のいい男の人がわたしに近づいてきた。とてもきらびやかな上着を着ているけど、シャツのえりは古びた感じに汚れちゃっているみたいで、少し変な感じがする。
「君がドロテアだね。わたしがデイカー男爵だ。どうぞよろしく。」
その人は慣れない感じの笑顔をわたしに向けてきた。笑顔を返してあたりを見回すと、何だかやけにきれいなシャツと、質素な感じの兵隊さんの上着を着たおじさんが目につく。
「わかった、あなたがこの人の着ている豪華な服の持ち主なのね!」
おおっと周りから声が上がった。
「さすがは評判の聖女だ。私が本物のデイカー男爵だと一瞬で見破られてしまうとは。」
驚いたのが半分、喜んでいるのが半分、といった感じの顔をおじさんが見せた。
うん?男爵様だとまでは知らなかったけど?
「改めて、君が高潮から村を救ったという聖女、ドロテアだね?」
「わたしドロテア。聖女が何なのかわからないけど、みんなわたしのことそうやって呼ぶの。高潮の時は漁師のマッカランさんが昔言っていたことをみんなに教えただけで、わたしは特別なことはしていないのに。」
男爵様がははっと笑い声を上げて私をなでてきた。少しぶよぶよして、傷のある硬いてのひらをしている。
「謙虚ないい子だね。聖女というと話が通じないのではないかと心配したが、これなら王都でも心配なさそうだ。お嬢さん、いつ頃から不思議な力が宿るようになったんだい?」
男爵様はもっといばってると思っていたけど、腰を落としてわたしの目線で話してくれる。
「不思議でも何でもないけど、昔から当てっこをするのが好きなの。みんなのいう神様のお告げとか、難しいことはわからないの。」
「ははは、むしろそれくらいでちょうどいい。神託なんて言われるとこちらも萎縮してしまうからね。」
男爵様は何だか難しい言葉を使った。
「男爵、この子には島のなまりがありませんね。」
さっき男爵様のふりをしていた男の人が、不思議そうに私を見つめてきた。
「はい、エミーおばさんとハーラルおじさんは、本土から移住したの。だから私は島なまりをあんまり喋らないの。聞けばわかるんだけどね。」
さっきからにこやかな男爵様が大きく頷いた。
「なるほど。うん、本土の言葉を教えなくても済むのはとてもありがたい。三つ編みはちょっといただけないが、儚げな見た目だけならすでに令嬢と言っても通じるし、煤っぽいのを綺麗にすればなかなかの美少女だね。それにしても、聖女はやっぱり不思議な色の目をしているんだね。」
男爵様は正直な人みたい。色々と聞いてみても良さそう。
「聖女って、私みたいな捨て子なの?」
男爵様は膝をついたまま顔を振った。
「そうとも限らないさ。そうは言っても私も聖女と対面するのは初めてだし、よくはわからないがね。おっと、君が聖女かどうか一応はテストをしないといけなくてね。それでは・・・わたしの三男は元気かな。」
「うーん・・・」
わたしを試そうとしているみたいだから、きっと意外な答えを用意しているんだと思う。すでに亡くなっているとか、病気でいらっしゃるとか。でもその場合はこんな笑顔でそんな質問はきっとしてこないし、その場合答えがあっていたとしても悲しい雰囲気になるよね。
それなら・・・
「男爵様、三人も男の子いないよね。」
男爵様の目が丸く見開いた。
「おおっ!これが真実の目の力か!」
男爵様と連れの人たちから歓声が上がった。「本物だ!」ってみんな騒いでいる。
「ううん、違うんだけど・・・」
私の声はみんなの騒ぎにかき消されてしまった。ハーラルおじさんが得意そうに頷いている。
困っちゃった。聖女じゃないって言いそびれちゃったけど、もっと聞きたいこともあるのに。
「男爵様、私を誰かのところに連れて行くんでしょう?」
頑張って声を上げる。
「いや、私が君を王都まで案内するんだよ?一緒に悪い魔女をやっつけるんだ。」
キョトンとする男爵。
でも、男爵が決めたことだったら、私が聖女だと信じているのに思い出したようにテストなんてする必要なないよね。
男爵にテストしろって言える人って言うと、男爵より偉い人だよね?
「子爵様、ううん、伯爵様?」
「ほう!」
男爵様はまた目を丸くして、私の頭をなでてきた。
「どうやら聖女にごまかしは聞かないみたいだね。そうだよ、君は伯爵様の保護の元におかれるんだ。危ない国境に陣取っている私の城より、よっぽど安全で快適だから安心するといい。やれやれ、次から次へと全部見透かされてしまうと、何だか裸にされた気分だよ。」
男爵様は気分が良さそうにひげを手でなでてから立ち上がると、エミーおばさんに挨拶をして、私を持ち上げて馬車に乗せてくれた。
「軽いね!本土に行ったらよく食べないといけないよ?荷物はこれだけかな?」
男爵様が指した指先にあるのは、麻袋に入った私の服と、首のところをつぎはぎしたお人形と、ハートの9がないトランプ、それに細々としたもの。
「うん、ねえ男爵様、あとトビーを連れて行ってもいい?」




