CI 経験者ヘンリー王子
耳の違和感がなくなってご機嫌そうだった王子だけど、少し経つとまた耳をいじり始めた。
「しかしまだ少しむず痒いな。ノリス、イアースプーンを持ってきてくれないか。」
ノリス君は戸棚に走っていって、何か重厚なケースを持ってきた。開かれたケースには、装飾のついた銀の細いスプーンみたいな棒があった。
どうやら耳かきみたい。
現世で見たことなかったから耳かきは存在しないんだと思っていたけど、こっちにもあったんだ、耳かき。
「お待ちください殿下、まさかこれは銀製ですか。」
「さすが見る目があるなリディントン。これは純銀製のイアースプーンだ。」
誇らしげに宣言する王子。王子はこの耳かきが自慢みたいだけど、誰も突っ込まないのかしら。
「銀なんて高価で硬い材質を使うのはなぜですか。」
「当然、水で簡単に汚れを洗い流せるからだ。」
確かに銀食器とかはそういう理由だし、衛生面で銀が好まれるのはわかるけど、耳かきに限って言えばこれは良くない。
「殿下、硬い銀は耳の柔らかい皮膚を傷つけるので、耳かきの材質としてよくありません。」
「私はそこまで柔な体をしていない。それに耳の衛生状態の方が重要だ。」
王子様は前世でもあった勘違いをしているみたい。
「殿下、そもそも人間の耳は掃除が必要ありません。むしろ耳かきは体に良くない場合が多いのです。」
「そんなはずはない。放っておくと汚れが溜まってしまうのを私は知っている。」
王子は少し声を大きくした。どうやったら分かってもらえるかしら。
「ノリス君、耳を掃除したことはある?」
とっさに話を振られたノリス君はおろおろしていたけど、少し悲しそうに首を振った。
「実は・・・一度もないんだ。」
心底驚いたような表情の王子。
「そうなのかノリス。」
「はい、殿下。実は人間は耳かきを必要としない生き物なのです。耳の古い皮質は自然と排出されるもので、衛生面の不安はありません。ところで殿下、どれくらいの頻度で耳を掃除されていますか。」
「週に二度ほどだ。」
やりすぎ。
「殿下、ノリス君が耳の痒みを覚えず、殿下が耳かきをしたくなるのは、皮肉にも殿下が耳かきをしてしまったからです。」
前世の怪しいマッサージ屋さんで耳かきをサービスするところがあったけれど、健康目的に限ればあれは邪道も邪道。耳つぼマッサージさえ逆効果なことが多くて、かなり慎重にしないといけないんだから。
「説明をしてもらえるか。」
王子は真剣に耳を傾けている。
「殿下、耳は神経の集中する重要な部位です。同時に耳の皮膚は柔らかく、傷つきやすいのです。刺激を与えすぎると、耳を傷つけてしまうだけでなく、体が新しい皮膚を作り出そうとすることで、結果的に耳が汚れ、かつ痒みを感じるようになるのです。つまり耳かきを頻繁にすればするほど痒くなる上に、耳の健康にも衛生状態にもよくないのです。」
王子は深刻そうな顔をした。こういう表情は男爵の方が似合っているけど。
「なるほど、リディントン、認めたくないが、お前のいうことは理にかなっているかもしれない。」
人の話を聞かない王子様だけど、こういうところは素直な面もあるみたい。
「分かっていただければ。」
「しかし聞いて欲しいリディントン。」
王子は結局まだ納得していないみたいだった。嫌な予感しかしない。
「200年ほど前に東の国の王は、訓練に時間のかかる長弓よりも、誰でも扱いやすい石弓を多用する戦略をとった。その時賢者は、速射や飛距離に利のある長弓を捨てることの愚かさを説いたが、国王は聞き入れなかった。いざ我が国と東の国が戦になったとき、我が国の長弓隊に対して東の国の石弓隊は劣勢となった。危機に陥った国王は過ちを認めて賢者に聞いた。戦に勝つにはどうしたら良いのかと。賢者は答えた。石弓に移らないべきだった、長弓をやめないべきだったと。もしリディントンが東の国の国王の参謀であったら、同じ答えをするだろうか。」
「いえ、敵が目前に迫っていたら、とりあえず手持ちの石弓隊を有効に使う方法を考えると思いますけど。」
「その通りだ!」
王子は満足そうな笑顔を浮かべた。
「なるほど、石弓を使うべきではなかったのかもしれない。しかし石弓を使ってしまった以上、差し迫った危機に対してどう石弓を活用するかが問題なのだ。分かってくれるな?」
いいえ?
「殿下、今の殿下はじっくり長弓に移行すべきタイミングにおられます。それに殿下の耳が痒いのは決して差し迫った危機では・・・」
「リディントン、政治とは可能性のゲームだ。机上の最善の選択ではなく、様々な制約の中で事態を改善できる方策を選択するのだ。例えば銀のイアースプーンが体に悪いとした場合、イアースプーンそのものを廃止する荒療治よりも、体に負担の少ないイアースプーンを改良する方が移行期間における社会の混乱と体制の動揺を抑えることができる。」
銀のイアースプーン自体全然ポピュラーじゃないから、社会も体制も混乱しないと思うけど。
王子を論破できる気はするけど王子が納得する気がしない。諦めモードになる。
「・・・フランシス君、さっき私が厨房に頼んでタオルを蒸してもらっていたのだけど、それを受け取ってきてもらえるかしら。あと、ローレルの葉と麻の糸をもらってきて。」
きめの細かい麻糸を、丸めたローレルの葉に巻きつけるのは、私がお化粧に使うために開発した綿棒の代わり。この国で産出されない木綿は使い捨てるには高すぎる。
銀の耳かきを麻の棒に変えると勝手が違うかもしれないけど、蒸しタオルで耳をほぐしてからなら効果はあるはず。原理的には。
「やはり納得してくれたか。」
王子は柔らかい笑顔を浮かべていた。改めて間近でみると金色の無精髭がちょっと気になる。思い切って伸ばしてトリムしても似合うかもしれないけど、ブランドンとお揃いみたいになってしまったら嫌。
「納得はしていませんが、次善の策というやつです。そうだ、ノリス君、この機会に王子の髭を剃ってさしあげたらどうかしら。蒸しタオルとは相性がいいと思うわ。」
剃り方なんてわからないけど、お父様や兄さんは蒸しタオルは好評だったし。
「顔そりはコンプトンの担当なんだ。僕にはわからないんだ。」
首を振るノリス君。ちょっと残念。今日は無精髭で我慢しましょう。
「分かっているね、ルイス。」
同じ部屋に男爵がいるのをすっかり忘れていたけど、王子の前なのに意味ありげな目線を送ってきた。マッサージのチャンスということかしら。でもノリス君を前にして変なことはできないけど。
「ウィンスロー、リディントンは新任で緊張もしているだろう。あまりプレッシャーをかけないでやってくれるか。」
男爵のメッセージをプレッシャーと受け取った王子。この気配りを他の場面で発揮してほしい。
「緊張も何も、私が作る綿棒で殿下自身が耳掃除をされるのでしょう?」
王子は当惑したように首を振った。
「いや、ローレルと麻の道具など見たこともないし、銀とは材質があまりにも違いすぎる。形状が同じというならまだしも、使い勝手がわからないからな。よければ、はじめは私の耳で実演してくれないだろうか。」
もしよければってことは断ってもいいんだろうか。前世でも他人の耳かきなんてしたことがないし。
「申し上げましたように私は耳かき自体に反対なので、決して腕が良いわけでは・・・」
「ルイス、いいね。」
男爵が有無をいわさない感じで畳み掛ける。四面楚歌。
「だめなんだ!王子様を触っちゃだめなんだ!」
駄々をこねるノリス君。ここに味方がいた!
「殿下、先ほどノリス君と話し合いの席をもちまして、王子の耳と髪はノリス君の担当ということに・・・」
「リディントン、設計した本人が道具を使いこなせるものではないのか。」
粘る王子様。なぜ。
「殿下、一流の鍛冶屋は一流の剣士ではございません。」
「リディントン、火薬のない国に銃をもたらした商人は、銃が得意でなくともまず実演するものだ。現地の一流の剣士に任せるよりもよほど合理的だろう。」
そうかもしれないけど。
「殿下、一流の剣士に当たるノリス君が実演することで既に合意が交わされていますので。商人は契約を守るのが第一です。」
「ノリス、主人に当たる私が特別に許可しているのだから、契約を変更しても問題ないな?」
ノリス君がしゅんとしてしまった。一昨日から私は援軍に恵まれない。
「ルイス、分かっているね。」
男爵が目配せをする。体を触られるのが嫌いなはずの王子が私に気を許している、という意味ではチャンスだけど、耳かきから強引にマッサージに持っていく展開は想定しづらいし、そもそも私に耳かきスキルがない。
逡巡しているうちにフランシス君が蒸しタオルと手作り綿棒の材料を持ってきた。さっと糸を棒状に巻きつけると、蒸しタオルを用意する。
ええい、耳ツボマッサージなら一応できるし、なんとかごまかせると思う。前世の美容業界で人気のあった耳つぼを押すのは耳の皮膚を傷つける場合が多いから、本来はあんまり推奨されないのだけど。
「では、まずタオル越しに耳に触れますが、よろしいですか。」
「構わない。本来他人にあまり触られるのは好きではないのだが、先ほどの功績も踏まえて、特別に許可しよう。」
王子、そこまでこだわりはないみたい。特別に辞退させてくれればもっと嬉しいのだけど、諦めて蒸しタオルを当てるとそっと耳をほぐしていく。
「・・・温かいな・・・ん・・・」
王子も嫌そうにはしていない。耳たぶの裏を押すのは比較的安心。リンパ節を狙ってみる。
「・・・こ・・・これは・・・」
「温度はいかがですか。」
「ああ・・・適度だ・・・心地よい、すごく・・・」
満足そうに目を閉じる王子。なんだかマッサージもこんな感じであっさり受け入れてくれそう。
タオル越しに耳たぶをを内側から外側に引っ張っていく。力を入れすぎると良くないけど、押さずに滑らすようにする。
「痛かったら言ってくださいね。耳ほぐしは痛い時点で逆効果ですから。」
「・・・温まってきた・・・ふう・・・とりあえず痛くはないが・・・むしろ・・・ん・・・」
王子の目が幸せそうに細まってきて、男爵の目が期待に輝き始めてきた。男爵としては眠らせてマッサージという作戦なのかな?不満そうに頬を膨らませるノリス君が見えるけど、王子本人の御指名だし、私だって代わってあげたかったよ?王子の耳よりノリス君のほっぺたを引っ張る方が楽しそうだし。
「殿下、ご満足でしたら耳かきはしなくてもよろしいのでは。」
「・・・せっかくだ、してもらおう・・・とても、快い・・・つう・・・横になっても構わないか・・・リディントン?」
寛ぎモードに入っている王子。ここまで来て顔が崩れないのはさすがです。
「もちろんいいよね、ルイス。」
なぜここで男爵が出てくるの。
「残念ですが殿下、原理的に耳かきは耳を水平にするのが大事なんですよ。そうしないと耳垢がこぼれ落ちて逆効果な場合があります。巷で行われる膝枕での耳かきサービスなんて、本来は邪道なんです。必ずしも耳は綺麗になりませんし、風紀を乱すだけです。」
ノウハウはなくてもこれくらいは知っている。前世の耳鼻科での耳かきも座ったままだし。
「・・・ん・・・市井にはそんな店があるのか・・・」
驚いたような王子。現世にはないと思うけど、まああるってことにしておこうと思う。
「ルイス、もったいないことを。巡り巡ってエドワードが生まれたかもしれないのに。」
男爵の脳内のピタゴラスイッチは故障しているみたい。さっきのブランドンの冷水が余っていたら男爵の顔に思い切り投げ掛けたい。
「・・・エドワードとは?・・・ふう・・・まあいいか・・・ん・・・」
王子はだんだんうとうとしてきたみたいで、自分の子孫の話に興味を示さなかった。
では、大変不本意ながら耳掃除をしましょうか。マッサージと違って私自身アマチュアだから全然やる気が出ないけど。




