6章32話(文化祭) 逃走、迷い、そして依存
2021年5月14日 一部修正いたしました。
和人君は私が好きですか?
……やめてくれ。
和人は私が好き?
……やめろ。
和人君は、私を好きになってくれる?
やめろ。
和人君! 和人君は、ずっと、ずーっと! 私のこと好きでいてくれる?
「やめろ!」
周りに人がいないことを確認する。誰もいなくてよかったと安心した。それは物音がドアの向こうからしないからだ。ここはトイレの個室。俺は、あの空間が耐えきれなくて、この場所に逃げてきた。
『和人が好き』
美姫のあの告白。それはほぼ全校生徒がいる前で行われた。美姫ほどの美貌をもった生徒を一目見ようと、あの会場には生徒や先生も含め、多くの人々が集まっていた。
あの告白は、その全員の心を激しく揺さぶった。
一種の魔力をもった言霊だった。誰もが物語に一幕に迷い込んだと錯覚するほど、幻想的だった。それほど美姫の美貌、声、表情、全ては悪魔的だった。
あの告白後、会場は大きく揺さぶられた。全校生徒や先生の声によって。その揺れは、そいつらの心を表すかのようだった。
ある女子生徒は喜声を上げていた。「なんて勇気があって、そして綺麗なのだ」と。
ある男子生徒は悲しみの声を上げていた。「俺が狙っていたのに」と。
ある先生は感嘆の声を上げていた。「青春だな」と。
そして皆が気づく。美姫の視線の先を。
それは俺だ。特等席にいた俺。皆が俺を注目していた。様々な感情を持って。そして俺に声をかける者がでてきた。
「やったな」。
「すごい」。
「かっこいい」。
「うらやましい」。
「お似合い」。
「OKしろよ」。
どれも、どれもが無責任だった。それもそうだ。誰もが俺の、……いや、俺たちの状況を誰も知らないからだ。
そして、俺は美姫の顔を見る。その顔は、色々な感情を帯びていた。
それは少しの怒りだった。私にここまでさせるなんてと。
それは少しの安堵だった。やっと想いを伝えることができたのだと。
それは少しの自信だった。私の想いに絶対に応えてくれるのだと。
それは少しの不安だった。目の前の人が、離れるかもしれないのだと。
それは、少しの幸せであった。今、私は和人が好きだと。
それが、俺には波のように伝わってくる。
美姫とは、とても長い時間を過ごしてきたのだ。彼女が一人だった時も、いじめられていた時も、俺と恋人だった時も、俺と離れようとしていた時も。それくらいの感情は俺にはわかった。
その、大きな波を、今の俺には耐えることができなかった。
俺は立ち上がる。そして早歩きで会場を立ち去る。美姫の顔を見ずに。会場にはがっかりしたというような声が上がる。それを無視する。
そして、俺は会場の近くのトイレに走りこんだ。こみあげてきた吐き気をここで解放した。そして、少しの間気を失っていた。
思い出す。行かなければいけない場所があったのだ。
生徒会室に向かう。あの人の顔が見たいと会いに行く。しかし、誰もいなかった。
生徒会室のドアの前には「巡回中」との張り紙があるだけだった。
目の前が真っ暗になった気がした。
ふらふらになりながら、近くの部屋に入る。一人になりたかった。
「和人君……?」
「あっ、和人君! ほら、もう今日の自由時間終わりだよ! 早く練習に……って、どうしたのその顔!? すごく体調悪そう……」
そうだ、この部屋は音楽室。海や春香といったバンドのメンバーがほぼすべてそろっていた。
俺たちのバンドは、今日の夕方まで自由時間であった。思いのほか出来が良かったのもあったが、やはり皆が自由時間を楽しみたいといったのもあって、各々がこの文化祭を楽しんでいた。そして最後の仕上げに少し練習しようと予定していた。
……どうやら、俺にもまだ義務感といったものがあったらしい。体が勝手にこの場所に動いたのか。
その海と春香が俺に近づいてくる。そして心配そうに俺を見上げてきた。
「和人君、すごく辛そうです……」
「すごく顔色が悪いよ……大丈夫? どうしたのかな?」
……? こいつらは、美姫のことを知らないのか?
「お前たち、今日どのように過ごしていた? 海、お前はどうだ?」
「え……? わ、私はお昼ご飯食べた後、ずっとここに居ました」
「海、お前は美姫の劇を観に行かなかったのか?」
「行きたかったのですが、人が多くて……。人が多いの、苦手なんです」
「そうか……。春香はどうなんだ?」
「私も海ちゃんと一緒だよ? 海ちゃんとずっと一緒に行動してたんだから。ね、海ちゃん?」
「はい。春香と一緒に練習してました。春香がそばでギター弾いてくれましたから、練習もできました。」
……どうやら、外の様子を二人は知らないようだ。ほかのメンバーにも聞いたが、どうも美姫の劇は観ていないそうだった。早めにこの音楽室に来ていて、練習していたそうだ。
「……和人君、どうしたんですか? もしかして風邪とか……。あの、お薬とってきますよ……? 保健室の先生、まだいらっしゃると思いますから……」
「……いや、いい。」
「で、でも和人君! 和人君、すごく辛そうですしっ……!」
「海っ! ……いいから。俺は、大丈夫だ。」
「は、はい……。」
普段海には優しく声をかけようとしていたが、大きな声を出していた。もう、誰も気遣う余裕がなかった。
それを見兼ねたのか、春香が俺の手を引いてきた。
「和人君、ちょっといいかな? 辛そうだと思うけど、少しだけ時間頂戴?」
「……」
本当は嫌だったが、少し考える。
……そうだ。春香は、前に俺を助けてくれたことがあった。海、アリア、美姫の質問に耐えきれなかったとき。彼女は何とかしてくれた。
しかし……。本当に俺は春香を頼っていいのか? 少し疑念がわいたが、すぐに晴れる。ここで春香が思い出していたのならば、すぐに海に手を出すはず。そして美姫やその他大勢にも危害を加える可能性がある。それほどの女だ。
だが。
「……わかった。少し自販機でお茶買ってくるか」
「うん! ありがとう。」
今、海はすごく心身共に健康な状態である。美姫も、不安定ならばあんなことはしない。
それは、春香が何もしていないということに他ならない。
だから素直に春香を頼る。
「わ、私もついていきますっ……!」
海がついて来ようとする。その目は俺に何かを訴えていた。
「いや、海はここにいてくれ。……すぐに帰ってくる。」
「……はい。わかりました。」
納得してそうにない海を置いて、俺は春香と近くの自販機前に行く。ここは普段誰も使わないような自販機。生徒会メンバーくらいしか使わない。だから、『彼女』がここに来るのを少し期待していたが、どうやら人気がない。少し残念だった。
「和人君、何か悩んでいるよね。……話してくれるかな? 私、何か力になれるかもしれない。なれなくても……誰かに話すだけでも、気持ちが楽になれると思うから。」
春香に相談する。さっきまでのことを素直に伝える。もう、プライドも何も俺には残っていなかった。
春香は聞いてくれた。黙って、支離滅裂だっただろう俺の言葉をずっと。
一通り俺の話を聞いた後、春香は、優しくこう言った。
「……そうだったんだ。……和人君」
「……え?」
春香が俺を抱きしめる。何が起こったかわからなかった。だが、久しぶりの春香の体温が俺を暖める。
「私、和人君のこれまでの状況について、詳しくはわからない。でも、今の和人君の顔を見ると、すごく辛かったんだろうなってのは、わかるよ? ……きつかったんだね。……少しだけ、休憩しようよ」
「……」
春香の言葉に、俺は素直に従うしかなかった。もう、抗う心の余裕すらなかった。ただ、春香の体温を感じていた。暖かった。少しだけ、心の重荷が取れた気がした。
数分した後、春香は口を開いた。
「その和人君に少しつらいこと言うよ? ……和人君はどうしたいの?」
かんがえる。……だが、何も根本的な解決策を編み出すことができない。だから……。
「……とりあえず、美姫のことは、海に知らせないようにしてくれないか。」
「……和人君、もうわかってるんだ、海ちゃんのこと。……そうだね、海ちゃん……このこと知ったらきっと、明日のバンドに出れるかわからないもんね。……それからは、どうしよっか?」
「それから……?」
「うん、辛いことかもしれないけど、考えなきゃ……。美姫ちゃんと、……付き合うの?」
「……わからない」
「わからない、の……?」
「ああ……」
答えは必ず出さないといけない。美姫とのことは、もう皆に知られるのは時間の問題なのだ。
美姫の告白を断るとする。……だめだ、悪い未来しか見えない。
美姫と付き合うとする。……また、美姫は俺に依存してしまうかもしれない。もう、彼女を汚すことはしてはダメなんだ。
何が最善の未来なのか、わからない。
どうするばいいのか、わからない。
だから、とりあえず目の前のことしか考えられない……。
「……和人君、以外だね。ちょっと前の和人君だったら、もっと……。いや、関係ないよね。今、こんな辛いんだもんね……。」
春香は俺を抱きしめながら、頭を撫で続ける。まるで、泣いている赤ん坊にしているみたいに。だが、先ほどの違和感はなんなのだ? 何か、一瞬こわばったと思ったら、そしたら力が抜けて…。
春香は、俺の頭を撫でながら、俺に優しく声をかけた。
「……私に任せて」
「……いいのか?」
「うん。だって、和人君辛そうなんだもん。力になるのは当然だよ」
「……」
「とりあえず、まずは今日海ちゃんの耳に、美姫ちゃんのことシャットアウトしようか。ほかのバンドメンバーの女の子達にも協力してもらって。」
「ああ、ありがとう……」
「あとは、……そうだねぇ、明日のバンドまで海ちゃんとずっと行動するようにするよ。できるだけ、他の人からの情報は入れないように。でも今夜が心配だね。……うん、今日の夜、海ちゃんの家に泊まらせてもらおうかな。」
「……なぁ。何で、こんなに良くしてくれるんだ?」
「え……? うん、そうだねぇ……。和人君のことが、好きだからかなぁ」
「っ……」
「あはは、冗談だよ。そんなに縮こまらないで。……そっかぁ、和人君、凄く他人の感情に敏感になってるんだね。……でも、大丈夫だよ。私が何とかしてあげるから……」
「……」
「今日はとりあえず和人君は帰ろうか? 体調不良ってのも嘘じゃないしね。今日は帰ってゆっくり休んだ方がいいよ」
「でも、練習は……」
「和人君は、これまでの練習、もう完璧だったでしょ? 和人君、練習しすぎだよ。プロでも目指すつもりなの? みんな驚いてたよ、上手すぎるって。だから今日くらい、休もう? 明日練習すればいいから」
「……わかった」
「和人君、明日はどうするつもりなの?」
「明日は聖と一緒に学園祭を……」
「この体調じゃ、ちょっと厳しくないかな? それと、この状況、……美姫ちゃんのこと、学校のみんなに知れ渡ってると思うよ? その状況で、他の女の子と歩き回るのはちょっとまずいよ。聖先輩にも、迷惑がかかっちゃうと思うよ?」
「でも、俺は聖と約束を……」
「うん、和人君の約束を守ろうとしている姿勢は正しいと思うよ。でも、それで聖先輩に迷惑かかっちゃうかもしれないんだったら、まずいよね?」
「……ああ」
「先輩には、謝っておこう? ほら、私が横でついていてあげるから、メッセージ送ろうか。一人になったら、送るの辛いでしょう?」
「……うん」
俺はポケットから携帯を取り出し、聖にメッセージを送る。送り終わると、すぐに携帯ポケットにしまいなおした。既読がつくのを確認するのが怖かったから。
「うん、よく頑張ったね。えらいよ。だから、バンドまで明日はゆっくり休もう? バンドが終わったら、またその時こうして先輩がどうしたら許してもらえるかの作戦会議しよう?」
「……わかった」
最後に春香は、優しく、そして力を込めて、俺を壊さないように抱きしめた。
何かを思い出そうとしていた。この抱きしめ方、この力加減。だが、それを思い出す気力は俺にはもうなかった。
「……和人君。和人君は、凄く魅力的だよ。和人君は、優しくて、楽しくて、強くて、頭が良くて、かっこよくて、みんなに人気で……。だから、私にその姿、また見せてくれたら嬉しいな。私に……」
「……」
………
……
…