6章28話(文化祭)
26、27話に引き続きですが、あるヒロインを強く否定する描写があります。当ヒロインのファンの方、そして不快に思われた方、本当に申し訳ありません。
その言葉を我慢することはできなかった。
人間には誰しもが触れられたくはない部分がある。心の杯。それは触れただけで杯の中の水は溢れ、そしてその杯は崩壊する。人とはこうも脆いものだ。俺はこれまでそれを利用し、彼女たちを陥れた。
そして、今。今、彼女は俺を崩壊させた。
触れられたくなかった。誰にも見せてはいなかった。美姫の時でさえ、途中ではボロを出したが、持ち直した。それを今、俺の奥底をさらけ出したのは、これまで取るに足らないと判断していた、泣いている女。目の前の怯えている女にこうも簡単に壊されたのだ。
「和人、……君?」
俺は今一人の女を押し倒している。強く肩を地面に食いつけ、逃がさないようにしている。
「……もう一度。もう一度言ってみろ」
「……え?」
小さい声で呟いた声はどうやら、こんなに近くにいた女にさえ届かなかったらしい。それほどまでに俺は弱っているのか? 脆弱と化しているのか、俺は?
「俺は、……なんだ?」
「な、なにを言っているの?」
「俺は自分しか見ていないのか? 俺は過去しか見ていないのか? 俺は、……何をしているんだ?」
「か、和人君……?」
自分で支離滅裂なことを言っていることは理解している。だが、それでも、声は脳から直接出てしまう。アリアの目から、口からを視線を外すことができない。それほどまでに俺は、自分を失い、そしてアリアから注意をそらすことができなかった。
そんな俺の異常な状態を見抜こうとしたのかどうかはわからないが、アリアは息をのんで俺の様子をじっとうかがっていた。彼女は俺の瞳をずっと見つめた。そして彼女は顔をこわばらせ(この時彼女は決心を固めたように思えた)、口を開いた。
「……うん。和人君は、誰も見ていないよ。和人君は、今を見ていないよ」
「っつ!」
「和人君も自覚しているんでしょ? 自分のこと、誰よりも理解しているんでしょ? 和人君は、いつもそう。誰かと話しているときも、その娘と話しているようで、何か上の空だった。雰囲気が良い時も、みんなが楽しんでいるときも、いつも何かを気にして
、焦っているようで、そして何かに悔いているようだった。目の前の出来事よりも、違う何かをいつも考えているようだった。私もそれは錯覚だと、私の思い違いだと思っていた。でも、……当たっていたかも。今の和人君の言葉で……わかったわ」
「……お前がっ!!!」
「い、痛いっ!」
より強い力でアリアの肩を握る。こんなに薄い肩で、細い腕で、俺を壊そうとしたのか? だがそんなことは今はどうでもいい。どうでもいいくらい、俺は目の前のこいつの言葉を許すことはできなかった。
「お前がそれを言うか! 俺に騙されたお前がっ!!! 自分のことで精一杯で、誰かにいつも助けて欲しそうにしていて! 誰かに寄りかからないと立ち上がることがあの時できなかった、そして近くて大切な何かを見ようと、そして気にもしなかったお前が言うのか! そしてお前に似ている俺に、こんなクソみたいな俺に頼ってしまった、お前がそれを言うのか!? 俺と同じ失敗をしたお前が言うのか!!?」
許すことはできなかった。誰よりも俺に似ているアリア。自分のことで精いっぱいで、そして誰かに依存して、挙句の果てには俺のように誰かに手を貸すことができず、そして最後には誰かに見捨てられてしまう。そんな昔の俺に誰よりも似ているこいつに、俺を否定することは何よりも許すことができなかった。
そんな憎たらしい女は俺の怒声に負けないくらい、大声で言葉を続けた。
「今、あなたは何を言っているのかわかっているの!? 私の言葉を肯定しているのよ? 自分で過去しかみていないと言っているのよ!」
「うるせぇ! そんなお前が俺に何を言うんだ!!!」
血が頭に上る。アリア以外に何も考えられない。視界が赤に染まる。こいつの声に脳が集中してしまう。夜、後になって思うがこんな静かな夜に、俺は誰も、何も、過去も、未来も何を気にならない。ただ『自分』を、壊したい。
「今の私を嫌ってよ!!!」
……は?
何を、……何を言っているんだこいつは?
「あなたに似ているなんて知らない。あなたの過去なんて今はどうでもいい。……いえ、違うわ。過去の私なんて知らない。過去の私が、あなたに何をしたのか知らない。知ることもできない。でも、今の私を見ないで、今の私がしたことを見ようとしないで、過去で私を縛る、そして勝手に離れようとする。今、私があなたに、取返しもつかない失態をしたら納得できた。でも、あなたの様子を見ていると、それも違うように思える。……昔で、私を判断しようとする。……そんなことは我慢ならないのよ!」
「ふざけるな!!!!!」
唇を噛みすぎて血が出る。鉄の味が口内を占める。そんなことは今は気にならない。いや、ただの取るに足らない不快感でしかない。大本の不快感は目の前のこいつ。目の前のこいつを、…………消し去りたい。
「ふざけてないわよ!」
「黙れ! 何が今のお前だ……何が目の前のお前を嫌うだ……俺はお前が嫌いだ。昔から、そしてこれから先もずっと! お前なんて嫌いだ!」
「だから言ってるじゃない! 過去の私で判断しないでって! この、……この! 女々しいのよ! 和人君のバカ!」
「……女々しい? 俺が?」
「そうよ! 過去のことばっかり気にして。私、和人君のこと、誰よりも今、好きなのに! それを無視して、過去のことでいっつも悩んでて! 気持ち悪いのよ、この鈍感バカ!」
「……」
…………全部、全部的を得ていた。
アリアの言っていたことは確実に俺の本性を暴いていた。明かされたくないことを俺から引き出し、俺を罵倒していた。こんなことは久しぶりだった。この世界ではない経験だった。誰も俺を心から否定しようとしなかった。それは俺にとって優しい世界だった。だが、それは勘違いだった。俺がただ、優しい世界しか見ようとしなかっただけだ。それを自覚させたのは、誰よりも見たくなかった、俺の本性である、アリアだった。
「誰も支えられないって、いつまでも逃げてるのよ! 誰の好意も受け取れないって、いつまでも目をそらさないでよ! 今の私を認識して、そして嫌ってよ! いつまで、……いつまでも、甘い過去に逃げる自分を、守ろうとしないでよ!」
「うわあ、あああああ!!!」
「立ち向かってよ、バカ!」
『逃げないで、お姉ちゃんのために自分で立って、こっちを見なさい、私の可愛い和人。』
その言葉を聞いて、俺は…………。
パシッ。
ついに、俺はアリアを、ぶってしまった。
アリアはそれで放心状態になってしまった。殴った俺も同じだった。自分がしたことが信じられなかった。そして受け入れ難いことだった。
「……パパにも、ママにも、誰にもぶたれたことがなかったのに」
アリアの涙は止まることを知らなかった。嗚咽、そして涙を拭こうと必死なアリア。俺はただ、力で女を泣かせただけの、ただゴミだった。
俺は、ただアリアから退き、訳も分からないことを言いながら、叫びながら、ただこの場を逃げたのだった。
夜に、暗い闇に、俺はとけたかった。