6章23話(文化祭)
「あのー、私お邪魔だったかな? あはは……」
「春香……」
春香は音楽室のドアを開き、この誰も入りたがらないだろう空間に入ってきた。この中で今の春香の表情は異質だ。春香以外の皆は、仲良く談笑しようという感情はもっていないだろう。しかし、この雰囲気を超えることができるのが春香たる所以だ。
「ごめんね、私も和人君に近況を聞こうと思っていたんだけど……」
「近況……?」
つぶやいた俺の方を向き、微笑む春香。この教室に差し込む木漏れ日とあいまって、彼女は天から救いにきてくれたと一瞬錯覚してしまった。
「うん。和人君に色々頼んじゃったからね。申し訳ないから、私もできる限り手伝いたいと思って。それでまずは近況を聞きたいなって」
「……順調だよ」
この場を作り上げる前ならば順調と言えなくもなかったと胸の中で愚痴る。
「うん、よかったよ。海ちゃんとも仲良くしてくれているみたいだしね。やっぱり和人君は優しくて良い人だったっていう私の考えに間違いはなかったよ」
「……」
「海ちゃん、今楽しい? うまくやれてる?」
微笑みかける春香に、海はぎこちない笑顔で答える。
「……ええ、ありがとう春香。すごく楽しいわ」
「よかった。それをきいて安心したよ」
「ちょっと待って先輩。和人に頼んだってどういうこと?」
横から強い剣幕で割り込んでくる美姫。一切の嘘を許さないという表情で凄んでくる。しかし、春香はそれでも笑みを崩さない。いや、これしきでは動じないのか。
「うん、私が頼んだの。海ちゃんが男の子苦手なのを克服する手伝いをって。和人君、優しいから引き受けてくれたの。ね? 和人君」
「……ああ」
「和人、あんた何でそんなお願いをっ……! あんた、近寄るつもりはないって、はじめ言っていたわよね!? 私が近づこうとしたら逃げてたわよね!? じゃあ何でそんなっ……」
「だから言ってるでしょ、和人君は優しいからって。同じこと聞くなら時間が少し足りないから、また後でいいかな? 今は時間が惜しいんだ。美姫ちゃんの思いはまた後で聞くから、今は少し私の話を聞いてね。ね、それでいいかな?」
「……はい」
「ありがとう、美姫ちゃん。素直な美姫ちゃんは好きだよ。そしてバンドの件も和人君が了承してくれてね。本当に和人君には頭が上がらないよー。ありがとう、和人君!」
「……いや、いい」
俺の腕に抱き着いてくる春香。春香に現在頼りきりの俺は、ただそれを許可するしかなかった。そして美姫と海が睨みつけてくるのを無視するしかなかった。
「あ、了承してくれたと言えば、アリア会長もありがとうございました! 和人君に頼むのを生徒会としても了承してくださって、本当に助かりました! あとあのことも……」
「あのこと……?」
アリアよりも素早く反応したのは美姫だった。そんな美姫に笑顔を崩すことなく、春香は続けようとした。しかし、春香は美姫にこたえる前にこちらをみた。正確に言うと俺とアリアを見た。どこか探るような瞳だった。そして美姫の方を見る。自信満々に。
「えっとね、まずは背景から話すね。和人君に、えっとね……ちょっと悪い噂が流れていたの」
「悪い噂……?」
「うん、特に先生たちの間でね。誰かが学校の外で喧嘩していたっていう通報があってね。それで先生たちが和人君たちと決めつけようとしていたの。そしてそんな先生たちは和人君を停学にしようという話をしていてね」
「……何で春香先輩がそういう話を知っているんですか?」
「色々な人から噂を聞いていてね。まあ、一部の先生たちと、生徒会の先輩たち……アリア先輩とか聖先輩から聞いて確信もてたんだけどね。それで一緒に作戦会議をしていたの、アリア先輩たちと」
「……何で私を入れてくれないんですか?」
「春香、私も入れてほしかった……」
美姫と海が非難するような目で春香を見る。苦笑いをしながら春香は「ごめん」と手を合わせて謝った。
「えっとね、美姫ちゃんは演劇で忙しそうだったし、海ちゃんは歌の練習で忙しそうだったから言いにくいかったんだ。ごめんね。……話を続けるよ? えっとね、作戦会議の結果から話すと、和人君をどうにか先生たちのターゲットにされないようにするために、和人君をサポートしようって」
「……サポート?」
春香、言うなよ。絶対に言うな。お前ならわかるだろうが。言ってしまったら終わると。春香の様子をうかがっているが、ただニコニコとしているだけだ。手に汗が流れるのを止められない。ただこの状況に胃を痛めている自分に歯がゆさを抱いている。
「うんっ。私から提案しちゃったんだけど、和人君が良い子に見えるようにする手伝い!」
「……良い子ってなんだよ?」
「あはは、まあ言葉の綾だよ和人君。えっとね、和人君が健康的に過ごせるように、お昼ご飯用意したり、帰りに寄り道して帰宅するのが遅くならないように怒ったりするの! ねっ、会長?」
「え、ええそうね……」
突然話をふられたアリアは戸惑っているが、こいつの身になったら俺でも身を固くするだろう。
「その作戦を話したとき、アリア先輩が担当してくれるって立候補してくれて! アリア先輩には悪いけれど、お願いしちゃったの。ありがとうございます、アリア先輩!」
「ううん、いいのよ。私は生徒会長だもの」
春香は今、嘘は言っていない。サポートしてくれているのは事実だ。ただすべてを話したわけではない。そしてすべてを話すことは失敗だということを、俺、アリア、そして春香の3人は理解していた。
美姫はじっと見つめている。春香は動じない。そんなやり取りに美姫は疲れたのか、美姫はため息を吐き、俺をにらみつけてきた。
「……和人、私もあんたをサポートするわ」
「いらねえよ。ただでさえ面倒なのに、余計な手間を増やすな。」
「うるさい。ごはんも作ってくるから。あんたの家にも迎えに行くわ。」
「だからいらないって言っているだろう。お前は自分の劇のことだけ考えていろ。俺なんかにリソースを割くな」
「いや、絶対に言うこときかない。だって、先輩たちばかりずるいわ。私だって……和人のお世話したいの」
後半はごにょごにょ言っていたようだったが、しっかりと意思は伝わった。だが、美姫の意思を尊重するわけにはいかない。もしここで許可し、美姫が俺の家へ来たらそれこそ考えたくもないような惨事が発生する。俺のその考えが無意識に伝わったのか、春香は大きなため息を吐いて美姫のそばに近寄り、かがんで目線を美姫に合わせた。
「美姫ちゃん? あなたの気遣いはすごく尊敬するけど、本人が大丈夫って言っているからこれ以上無理強いしたら、ちょっと厳しいかなって思うよ?」
「でも、先輩っ……」
「それ以上言うと、和人君が美姫ちゃんのこと嫌いになっちゃうよ?」
「……和人が、私を?」
今、美姫と春香の表情は見えない。春香も俺から背を向け、そしてちょうど春香の背中で美姫の表情は隠れている。表情は見えない、だけど春香のその声は今までと確かに声色が違っていた。
「そうだよ、だからそれ以上は美姫ちゃんのためにならない。だからね、ここは……ちょっと我慢しよ? 私に任せて。」
数分というには長い時が流れる。そして、やっと美姫の声が聞こえた。
「……わかりました」
「うん、ありがとう美姫ちゃん!」
「……はい。私、もうクラスに戻ります。」
「あ、私送っていこうか?」
「いいです。一人で帰れます」
美姫は立ち上がり、音楽室から出ようとする。しかし、その前に俺の方を振り向いた。
「和人、文化祭当日、ちゃんと約束守りなさいよ?」
「……ああ。」
その言葉を最後に美姫は音楽室を出た。その姿を見届けると、いつの間にかそばで海以外の気配を感じた。そこを見ると春香がいた。春香はニコニコとしていた。いつもの表情。だが、薄ら寒さを感じずにはいられなかった。
「……和人君、貸し一つだね?」
「……」
………
……
…