4章6話
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思い出した。
思い出した思い出した思い出した思い出した思い出した。
そして。
思い、出してしまった。
一つのスイッチ。それは押してはいけないものだった。『B』の、……やめろ、彼女をその名で呼ぶな、……春香の言った通りだった。
忘れるべき記憶。だが忘れてはいけなかった記憶。忘れた方が幸せだっただろう。だが俺は忘れた自分を許せなくて、奥歯を強く噛みしめた。今まで堕としてきた女を忘れた俺自身を許すことができないのだ。
一つ前の時間軸での記憶を思い出す。
鮮烈な記憶。美しい一人の女の子を壊した記憶。そして俺の本当の意味で生まれ落ちた記憶。
『違うのぉ!』
美姫を堕とした。何故、そのことを忘れていたんだ。いや、何故今まで思い出すことができなかたった。目の前にいる彼女を初めて見た時、何故すぐにでも去ろうとしなかったのだ。彼女のためにも消えるべきだっただろうが。自分は同じ過ちを何度も繰り返す。後悔で、怒りで泣きたくなる。だが、抑える。一つの言葉を思い出したから。
『何? また泣いてるの和人? もう、しょうがないわね。可愛いんだから』
姉の言葉、様々なことを俺に授けてきた人の言葉、だが『唾棄』すべき言葉。あの人は、……あの人は!!!
……そうだ、全部思い出したのだ、全部。昔の世界と、そして今の世界。そし全時間。そして最も新しい記憶としてはあの美姫との時間軸での全て。今までばらばらになっていた記憶のかけらが、あの事件をきっかけに全て揃ったのだ。家族、友人、前の世界全てを。
何故俺は忘れていたんだ? 本当に何故思い出すことができなかった。それにこれまでの脆弱な俺はなんだ? こんな、こんなにも気持ち悪い……。あ、あああぁぁぁ……。
……まて。
まて、今はそんな時じゃない! 自分可愛さに嘆くときではない! 冷静になれ、頭を冷やせ!!!
今は、今は……。
「電話、電話でなくて! か、和人君が、和人君が他の娘と! いや、いやっ…!」
春香がいるのだ。
何度も会いたいと願った女の子。ただ笑顔が見たかった彼女。だが今、俺の願いとは正反対の姿を見せている。泣いているのだ。俺が泣かせているのだ。こんなにも弱っていたのか彼女は。こんなにも悪く『変化』させていたのか俺は。そして、何故彼女の髪は黒に染まっているのだ? そんな疑問は一瞬で頭の中から消えた。消さなければならかった。それは、優先すべきは彼女を泣き止ませることなのだから。
「……聴いてくれ春香。違うんだ、俺が倒れそうになったから、彼女はただ俺を介抱しようとしただけなんだ……」
「離れてよぉ! 離れてよ、和人君から!」
俺の言葉を聞かず、そう言いながら美姫を俺から退かす春香。その力は強かった。
「ちょ、ちょっと何よいきなり! ただ和人が倒れてたから助けようとしただけじゃないのよ! ……え?」
美姫は驚いていた。春香の力強さもあるだろう。そして何よりも焦点が定まってない瞳に驚いていただろう。春香はただ美姫を睨む、前まではBと呼んでいた女の子。前まではこんな瞳をしたことがなかった春香。何が、何が彼女を……。
『思い出さないでよぉ!』
……そうだ。わかるじゃないか。『今』の俺ならわかるじゃないか。変化した、戻った俺ならば。
納得がいった。彼女を苦しめていた理由。彼女があんなにも取り乱していた理由。彼女が泣いていた理由。彼女が俺にあんなにも懇願した理由。そうだ、全て辻褄があうじゃないか。一つの答えがある。だが、それを『贖罪』するのには、目の前の、……美姫。お前の前ではできない。
「……っ」
美姫。彼女は蛇から睨まれた蛙のように動くことができなかった。それは春香が尋常な様子ではないから。俺が前の世界で失敗してしまった目の前の彼女。もうこれ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。俺の過ちに付き合ってもらうわけにはいかない。
「今日は面倒かけてごめんな。また明日謝るから今日は、……今は、春香と二人にしてくれないか?」
「ちょ、ちょっと! ここまでされたら私だってっ……!」
「二人にしてくれっ!」
大きな声で美姫に命令する。こんな声を出したのは前の時間でも滅多にない。彼女を大事にしていたから。そして壊したくはなかったから。
「わ、わかったわよ。……それじゃ」
とぼとぼと美姫は歩き出す。俺は……
「……ごめんな、美姫」
「な、馴れ馴れしく名前で……って、何で私の名前を……」
俺はもう美姫に視線を移さなかった。移すことは絶対にあってはならない。そして、……言い方は悪いが、美姫は過去の人だ。目の前には『今』の彼女がいるのだ。
「……春香」
「……」
………
……
…
泣いている春香。近くで見るのは随分と久し振りな気がした。たった数日の別離が、こんなにも時間を長く感じさせるとは思わなかった。それは俺自身がはるかに依存していたという何よりの証拠。彼女が泣いている。だが、嬉しい。それはやっと会うことができるたのだから。
その春香を連れてきて俺は塾の近くの公園に来ていた。夜の公園、泣いている彼女をあまり人目の付くところに連れて行きたくはなかったから。ふと空を見上げた。この先のことを思うと憂鬱だったから。もっと二人で、一緒に並んで歩きたかった。
「……和人君、思い出したんだね」
「……ああ」
本当に素直に言う。春香の様子から嘘はつけない。いや、俺がもう嘘はつきたくはないのだ。俺はいつも彼女に嘘をついてきたのだから。
「じゃあね、私のこと、……憶えている?」
「……ああ。憶えているよ」
「そっか……」
忘れるわけない。忘れることなどあってはならない。彼女、今まで心の中ではBという記号で呼んでいた女の子。ひどいな、俺は。ひどいことをしたな、前の俺は。いや、前など関係ない。全部俺の罪なのだ。だが、気になったことがあった。それを聴くことした。
「春香、聞きたいことがある。いいか?」
「うん、いいよ。私も聞きたいこと、一杯あるから……」
彼女は力なく、そう答えた。彼女の表情は見えない。『昔よりも』だ。
「一つ目、……何で俺があの塾にいることがわかったんだ? 俺、お前に言ってないだろう?」
「……」
俺は彼女に伝えていなかった。それは彼女にそのことを伝えると、変化を恐れ、また関係が遠ざかってしまうことを危惧したからだ。だから、時が来たら伝えるつもりだった。『前以上』の関係になった、その時ならばと。だが、それは叶うことはなかった。
春香を口を開いた。
「……本当はもう、和人君も見当ついているんじゃないの?」
……愚問だったな。そうだ、俺はもうわかっていたのだ。違和感を何度も感じたのだ。
「……そうだな。春香、お前は人を使って俺を見張らせていたんだよな? ……どこでそんなこと覚えていたんだ……」
「……うん、そうだよ。『さすが』和人君だよね」
そうだ、さっきの塾に来た春香で確信したのだ。俺は春香に塾に伝えていない。だが、他の者が知っていたならどうだ? あの塾のクラスに俺の学校の者が何人かいた。そいつらから俺の場所を聴いたのだろう。
そして『人を使った』というのは、正直鎌をかけたつもりだった。だが当たってしまった。それに思い至ったのは、あの女の子達。春香が屋上で昼食を待っているのを告げた彼女、そして俺が海と話しているのを止めた彼女。あの子達は何故俺に話しかけたのかと考えていた。それは、春香の顔の広さで彼女達に頼んでいただろうとい思い至った。……それだけじゃ証拠が薄すぎるが、何故かわかってしまった。
「さすが……、だと?」
「うん、さすがだよ。わからないの? もうシラを切る必要もないのに……」
……そうか。やはり……。
「『これまでの』和人君を真似させてもらったんだよ」
「……」
そう、だよな。……その答えになるよな。
「和人君のやり方を、今まで見てきたんだ。海ちゃんの時も周りの人を上手く使った。あの二人組を壊そうとしたときも、和人君は周りの人を上手く使った。それを隠れてみてて、私も周りを使うことを学んだの。まあ、少し疲れたけど、和人君と同じことができる自分が少し誇らしかった。そして和人君の気持ちがわかって少し嬉しかった」
「なあ、春香……いつ、いつからお前は思い出したんだ?」
俺は聴かずにはいられなかった。彼女が思い出すことなど考えられなかったから。
「うん? そうだねぇ……本当は、何度も思い出していたんだよ?」
「え……?」
ありえない、何故、何故だ?
「はじめはね、悪い夢だと思った。だってありえないでしょ? 記憶にないことだったんだから。だから忘れようと頑張った。……結局好きになっちゃったけど。そしてね、2回目に思い出した時、あぁ、和人君が……えっと、美姫ちゃんだっけ、あの娘と仲良くしていたとき、あの時ね。あの時は少し確信していたの。でもね、完全に思い出したわけじゃなかった。だからあの娘と和人君が仲良さそうにしてた時も、平静でいられたの。でも、……でも、今回ばかりは冷静でいられなかった。どうしても、あなたへの愛情に耐えることができなかったの」
……そうか。そうなのだ。俺は、そんな春香を何度も、何度もキープとして、ひどい扱いをしてしまった。海を攻略するために。あの二人組を同時攻略するために。彼女を使い捨てのように使ってしまったのだ。
一つの考察。……もしかしてだが、この世界は記憶が綺麗にリセットされずに引き継がれてしまうのだろう。だからあんな孤独が似合っていた美姫も前の時間で初めて会ったときよりフレンドリーだったのだ。おかしな様子を見せていた人たちを思い出す。考えられるのは海、美姫、そして春香。どれも攻略した者ばかり。ということは、攻略して好感度が高かったものが思い出しやすくなっているのだろうか。
それならば、俺は何回も春香を攻略していたから、いくつもの世界で記憶を保持していておかしくない。その、想いの量があふれて、この世界まで流出したのか。
だが、記憶の復活のきっかけがわからない。こいつは復活して美姫や海、あの二人が完全に復活していないのは何故だ?
……今は、そんな考察などいい。記憶の片隅に置いておくべきだ。泣きながら話している春香に集中すべきだ。
「今回はね、早くから思い出すことができたの。だから、和人君が誰にも取られないように、一杯一杯和人君に尽くして、好きになってもらうようにしたの。和人君が思い出してなくてよかった。何度も思い出していないか心配したんだよ? 思い出したら、絶対にまた私のことを捨てちゃうから……」
彼女の言葉を否定する口は、俺には持てなかった。彼女をいつも使い捨てにしたのは自分だ。どの口が使い捨てにしないと今泣いている彼女にほざけるのか?
「和人君、私からも聴いていいかな?」
「……ああ」
俺は頷く。泣いているのはわかるが、表情はわからない彼女。だが、次の言葉は予想がついていた。
「……何で、何で私を、いつも、……捨てたの?」
「……っ」
「お腹がね、胸がね、腸がね、煮え繰り返しそうだったんだよ? 私の愛してる人が、本当の意味で一度も私を振り向かず、ずっと他の女の子と付き合って、抱き合って、キスして!!! 見せつけられて!!!! おかしくならないでいられない方がおかしいよ!!!! いつも、いつもいつもいつも、キープ扱い! すごく傷つくんだよ!! 何でそんなことしたの!!!? 私なんてどうでもいいから? どうでもいいの? こんなに好きなのに??」
春香は泣いていた。泣きながら、今度はすぐに理解できるくらいに顔を赤らめて、俺の胸を掴んできた。彼女がこれほどの怒りを抱くのも当然だ。春香を保険として今まで攻略してきたのだ。しかし、本攻略対象達が本段階まで上り詰めたら、毎回振っていた。理由は確か……『本命がいるんだ』って。何故あんなにもひどい捨て方をしたのだ。今までの俺はあまりにもお粗末すぎた。ただ自分の都合が悪くなったら捨てていた。それがこうやって、……天罰っていうのか、降りかかってきたのだ。
「なんで私に振り向いてくれなかったの? 何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で???? 何回も愛してるって言ったよね???? 何回も可愛いって言ってくれたよね??? 何回も抱きしめてくれたよね?????? 何回も永遠の愛を誓ったよね??????????? お弁当も、朝起こしたりも、プレゼントのマフラーも、あなたのために! キスも、あなたが望むこと何だってやったよ! それなのに、いつもいつも、何回も、何回も、何回何回何回何回何回も!!!! ……気に入らないところがあったら治すよ? 応えてよ!!! 言ってよ! 答えて、答えろ!」
「……ごめん、本当にごめん。」
泣いていた。春香も、俺も。俺は謝ることしかできない。言い訳などできない。記憶があいまいだったからと、女々しく訳がわからない理由など言うことなどあってはならない。
「和人君のせいだよ? 私をいつもその気にさせといて、他の女の子の方にばっかり! 和人君が私を壊したんだよ!! 何か言ってよ!」
「ごめん、本当に、本当に、……ごめん」
そうだ、今回は俺が大切な女の子を壊したのだ。俺から、俺から変化させた。俺が悪影響を与えてしまった。春香という女の子、優しく、明るく、ただの平凡な彼女を。
「和人君が好きになってくれるように、本当に好きになってもらえるように、私頑張ったよ? 和人君は赤が好きだって知った。だからいつもお弁当、赤かったでしょ? 本当は私の血が少し混ざってたんだよ? 赤くなるようにって、そして和人君が私を忘れないようにって! そしてね、見てよ? 私の髪、黒いでしょ? 和人君、海ちゃんが大好きだもんね? 海ちゃんの姿ばかりみてるもんね? 海ちゃんの長い黒髪、好きなんでしょ? 前和人君が褒めていたからわかるよ? だからね、私もね、和人君が好きになってもらえるようにね、この前髪を黒く染めたんだよ? 見てよ和人君……見てよ! 他の娘ばかり見ないでよ!!!」
「……ごめん」
……あぁ。俺は、何てことをしてしまったんだ。あの春香の綺麗な髪。栗色の髪。前、俺が褒めた、海の髪。それを羨んで、春香は染めてしまったのだ。春香の髪は、海に劣らないくらいに綺麗だったのに。それを俺はなくしてしまったのだ。壊してしまったのだ。彼女のアイデンティティを崩してしまったのだ。俺は、俺は……。
「だから、……だからね! これ見てよ!」
「……は?」
春香が自分の懐からあるものを出してきた。予想もしていないものだった。頭が一瞬、真っ白になった。
それは、髪束だった。
「和人君の大好きな海ちゃんの髪だよ? 切ってきたんだ。ほら、私の髪、これに近いでしょ? 和人君も好きになってくれるでしょ? だからね、見てよ、好きになってよぉ!!!」
「春香、……まて、待ってくれ」
「いや、いやだ……」
泣き叫ぶ彼女。だが、こればかりは聴かなければならない。
「春香、これだけは答えてくれ……海は、海は、……海をどうしたんだ?」
一瞬にして顔を憤怒に染める春香。だが、聞かなければならない。
「答えてくれ春香! これだけ、これだけだ。海を、どうしたんだよ……。お願いだ、答えてくれ……」
俺の強い願いに耳を傾けてくれたのか、春香は話はじめてくれた。
「……海ちゃんのね、髪を私が切ったの」
「……っ!」
「羨ましかった、海ちゃんが。和人君にあんなに好かれた海ちゃんが。海ちゃんの顔が、スタイルが、そして髪が羨ましかった。だから、少しでも近づきたくて、海ちゃんの髪を切ったの。そしてね、……海ちゃんが妬ましかったから、海ちゃんの髪を切ったの。今の海ちゃんはね、和人君が好きだった、昔の長い髪の海ちゃんじゃないの」
「どうして、どうしてそんなことしたんだ!? あんなに仲が良かったじゃないか!」
「何度も言ってるでしょ! 和人君に見てほしかったからだよ!!!」
「……」
「私も、可愛そうなことしたって、少しは思ってるよ。海ちゃんもね、和人君に見せられないって、泣いていた。和人君も見たくないだろうって言ってた」
「……」
「……あっ、でもね、それも解決したよ?」
「は……?」
「だってね、もう海ちゃんと会うことはないと思うから!」
「な、何を言っているんだ……?」
「海ちゃんを隠したの。和人君、これ以上海ちゃんと会ったら絶対に好きになっちゃうから。そんなのは絶対に嫌だから! だから、だから閉じ込めたの。ほら、それだったら安心でしょ? 海ちゃんは和人君に髪を見せることはないし、和人君も見ることがないよ?」
「春香!!!」
春香の壊れた言動にこれ以上付き合うことはできなかった。だから大声で、初めて彼女を怒鳴った。
「やっと怒ってくれたね。やっと私を、ちょっとでも、見てくれたね」
「……っ!」
春香のにこやかな表情に少し押される。そんな俺に構わず彼女は続ける。
「でもね、これからもずっと見てもらうためにね、まずは海ちゃんの顔を壊そうかな? 和人君が行ってしまわないように。和人君に……悪い、虫が、つかないように」
「春香……やめてくれ。本当にやめてくれ。そんなひどいこと、あの優しかった春香が……」
俺は泣きながら願うことしかできなかった。ただ、海の無事を願うことしか、こんな無力な俺にはできなかった。そんな俺に、春香はこう一言、言葉を言い放った。
「なら、好きになってよ」
「……え?」
「私だけをこれから好きでいて? これからも私と恋人でいて? 私だけを愛して? 私だけを見て? ね、お願い、簡単でしょ?」
「……」
「そうしてくれるだけで、海ちゃんも自由にするよ? これ以上海ちゃんに手を出さないよ? ね、前みたいに戻るだけだよ? また二人の日常を繰り返そう? きっと楽しいよ? 私、頑張るから。絶対に他の子に負けないくらいに和人君に愛されてみるから! だから、だから……」
春香は、また泣き出しながら、笑顔を浮かべながら、今度は俺に願ってきた。俺は、彼女を抱きしめたくなった。こんなにも寂しそうな笑顔を浮かべた彼女は初めてだから。今までの日常に戻りたかったから。そして何よりも、……この世界で、最も愛した人なのだから。
……だが。
「……ごめん、春香」
「……えっ?」
春香は俺の言葉が信じられないのか、笑顔から表情が変わった。だが俺は続けた。
「……お前とは、付き合えない。こんなことをした、海にひどいことをしたお前と一緒になるなんて考えられない。……すまない。本当にすまない。今までお前を傷つけるような真似ばかりして。謝っても許されないと思う。だけどどうか怒りを、少しでも沈めてくれ」
恋愛に保険なんて用意しておくべきじゃない。それは相手の尊厳を踏みにじる行為なのだ。こんな当たり前のこと、何故今まで俺は守ることができなかった? 何故迂闊な真似をしたんだ。こんなにまで壊れてしまった春香と、今の俺は付き合うことなどできない。そもそもが俺は付き合う資格などない。だから今までを後悔しつつも、俺は彼女に対して頭を下げ続けた。
数十秒経っただろう。その静寂の後、春香はこうポツリと言った。
「……だめ」
「え……?」
春香は笑顔だった。その後、その顔を更に歪ませながらこう答えた。
「だーめ。絶対に許さない。和人君を地の果てまで追いかける。どこまで逃げても捕まえる。諦めない、絶対に諦めない!! 他の娘と一緒にいても絶対に私のものにする。その娘をたとえ排除してでも、……海ちゃんでさえ今度は! 絶対に、絶対に!!!」
「やめてくれ! 頼む……頼むから」
「だめだよ。和人君。……うん、そうだ。和人君が前にこう言ってたね。そう、これは『教育』だよ。悪い女の子たちとずっといて、和人君にちょっと悪影響があったんだよね? うーん、そうだね……どうかな、自分のせいで他人が理不尽に傷つくってのは? まずは海ちゃんの爪から剥がそうかな? 一つ一つ、丁寧に、ゆっくりと。泣くだろうね、痛いだろうね? ねえ、和人君。嫌でしょう、悲しいでしょう、苦しいでしょう? これで反省する気になれるでしょ?」
あの優しかった春香。他人を傷つけるなどの思考は一切なかった彼女。それがどうして、こうなったのか?
……原因は明白だ。
俺が、俺が彼女を壊したから。彼女に悪影響を与えてしまったのだから。
「お願いだ、頼むからやめてくれ、本当に……」
「……何でそこまで必死になるのが、私を怒らせるって、まだわからないのかなぁ。……あ、そうだ。ねえ和人君、キスしようよ」
「は……? と、突然何を言ってるんだ……?」
「キスしてくれたら少しだけ許すって言ったらどうかな?」
「……わかった」
……俺は従うしかなかった。
「じゃあちょっと目を閉じて? ちょっとだけでいいの……」
「ああ……」
目を瞑る。暗闇が広がる。その時間は永遠におもえた。だが、春香が深く、……これはディープキスか? ……っ?! 何か舌と同時に入れられた気がした。それを俺は飲み込んでしまった。俺は思わず目を開いてしまった。すると春香が、まるで、昔の『俺』のような、嘲りを伴った笑みを浮かべていた。
「ふふ、あははは!!! 和人君って、凄く可愛いよね? 自分は騙す側だと思ってた? でもね、違うよ? 私がいるんだよ!?」
「何を、……何をした!?」
「睡眠薬かな? それも結構即効性があるやつ。それを飲ませてね、和人君と二人きりに、ずっと二人になれるところに行こうかなと思っているの!」
そう言いながら春香は俺を抱きしめてきた。暖かい、あのいつもの抱擁。だが、俺は逃げねばならなかった。逃げねば、取り返しのつかないことになりそうな気がした。
「それじゃあね。もうすぐ意識がなくなると思うけど、安心して。起きたその時から、私とずっと一緒だよ! その時は、永遠の愛を誓ってね……」
動け、そして考えろ! このままでは、俺だけでなく、海にも危害が及ぶんだぞ!
動け、起きろ、走れ、考えろっ……!
「やめなさい」
「……えっ!?」
突然現れた女の子に春香と俺は驚愕した。
今までとは姿が違った。だが、すぐにわかった。俺と春香だからこそ、すぐにわかった。
髪を切った、海が目の前に現れていたのだ。
「な、何で……何で海ちゃんが? ちゃんと閉じ込めていたのに……!」
春香はありえないものを見るような目で海を視界に入れた。それに対して海は平然と言い放った。
「ああ、あれですね。私にもわからないですが、何故か鍵の開け方を知ってました。……昔、誰かが教えてくれたんです。『俺がカギを忘れていた時のためにピッキング憶えろ』って。何故か、それを急に思い出して……」
春香が俺を睨んできたが、すぐに海に戻す。
「あなたの様子がおかしいと最近思っていましたが……。私の髪も切るし……和人君が褒めてくれた髪を! ……やっぱり、こういうことだったんですね。早く和人君を離しなさい。」
「……渡すと思う? 和人君は私のものだよ。海ちゃんも 和人君のこと好きなんでしょ? 渡さない、絶対に海ちゃんに渡さない! 和人君は、今度は和人君は私のものなんだから!!」
「……だったら、こうです」
海は冷静だった。ただただ冷静だった。そんな彼女は静かに懐からあるものを取りだした。
「……えい」
「え……?」
スタンガンを出したのだ。それを春香に押し当てたのだ。俺はあまりにも意外な光景過ぎて口をあけたままになった。
それは俺が海を攻略したとき、持っていろと命令したものと同じものだった。こいつは可愛い癖に、警戒心がないアホだったから。どこかの誰かに騙されて変なところに連れて行かれないか心配だったんだ。でも、何故今の彼女がそういうものを持っているのだろう? だが、助かったのは確かだ。
春香は意識を失った。それが俺には、少し悲しかった。また、彼女を貶めるような結果になってしまったから。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、海は俺に近づいてきた。
「ふぅ……さあ、和人君、しっかりしてください。」
「あ、あぁ……ありがとう。助かった」
「いえ、いいのですよ。……ふふっ。敬語、使わないんですね。その方がいいですよ。とりあえず、和人君も体調悪そうですし、救急車呼びますね」
「……すみません、それは大丈夫です」
「え?」
そうだ、そうなのだ。俺は今、動かなければならないのだ。
早く、時間を戻さなければならないのだ。
これ以上この世界にはいれない。こんな春香と、壊れた時間には、これ以上いることができない。春香の薬とやらで意識が朦朧としてきた。眠ってしまう前に、早く巻き戻さないといけない。
それに、海も……。
「じゃなあ、海。……俺、行くわ」
「え、え? え……? …………………………あ、あああああああああぁぁぁああああ!!! そうだ! 『和人君!!』 和人君!!!!」
「……じゃあな、本当にありがとうな」
「え? 待ってください! もう私の前から消えないでください! いやぁぁぁぁあああああああ!!!!!!」
背中にはひどく懐かしい声色。『あの』海の声だ。そうだ、だからこそこの時間を延長させてはならないのだ。
だから俺は、時間を戻すのだ。
巻き戻す。世界が暗転する。最後にこの時間で見たものは。
泣いている海と、泣きながら気を失った春香の顔だった。