4章4話
退屈な授業。
数学の教師の声は子守唄にしか聞こえなかった。その黒板にかく数字が、公式が、全部が興味のないものだった。問題が理解できないというわけではない。ただ、何故これを教えるのかが、何故俺がこれを教わっているのかがわからない。
「~であるからにしてー。……ん、和木谷、これ答えてみろ。ほら、前に来い」
その教師がシメたという顔をしていた。ただ興味がなかった。いつもの俺、……いや、『少し前』までの俺なら慌てていただろう。だが、何故だろう? 不思議と平常心だ。
「わー、和人君困ってるー。後で弄ろ~」
「や、やめなよ~」
あの二人の声が聞こえる。そうか、……彼女達にはみっともない姿ばかり見せるもんな。
教室の前に着く。そしてチョークを持つ。目の前には見たこともない公式。だが『理解していた』公式。そして難しい問題。
「……おぉ。うん、……正解だ。下がっていいぞ」
教室に生徒たちの驚く声が聞こえる。だが俺が気になるのは違う。こんな授業なんかじゃない。こんな、恒例行事などではない。
俺が気になるのは、それは……
「お、もう昼休みだな。よし、授業は終わり。ここ、テストに出るからな」
「「「えーっ!」」」
ただ、屋上に行かなければという焦燥感が心に滾っていた。
教室を出る。後ろのあの二人の声など今はどうでもいい。優先すべきことではない。何故俺はこんなにも焦っているのだろう。何故俺はこんなにも、……失敗したという気持ちがあるのだろう。何か俺はとんでもないことをしたという気持ちがある。そして何故か助けなければという義務感が溢れてくる。
目的の場所に着く。
屋上。
俺はスペアのカギを持っていた。本来ならばアイツしか持っていない。だが、アイツと待ち合わせできるようにと、作らせていたのだ。だが、誰もそこにはいなかった。辺りを汲まなく見渡す。本当に誰もいなかった。気配さえしなかった。少し安心した。……何故安心した?
その時、突然俺の背中、屋上のドアから大きな音、いや、声が聴こえた。「……行って!」
誰だ、誰かいるのか? もしかして……。
「あ、和人君!」
「……え? 何で……?」
何故、『春香』がいるのだ?
春香が屋上に至る階段で俺をにこやかに見ていた。いつもの彼女の笑み。ただ穏やかに俺を励まし、元気づける彼女の笑み。そこに疑問を抱く。
「春香、何でお前が……」
「えっとね、海ちゃんの代わり。海ちゃんね、急に来れなくなったんだって。何か用事ができたみたい。それで私が伝言に来たの、ごめんなさいって」
目から下だけ。目は、目は笑っていない。そして春香の声で気付いた。何故いつもの暖かさがないのだ?
「……そうか」
「残念そうだね、和人君。そんなに海ちゃんと会いたかったの?」
「……どうでもいいだろ?」
ふてくされたように俺は言い捨てる。いや、心の中ではそうだった。俺は確かに残念という気持ちがあった。そして安心した。海と会わなくて。……何故彼女と会わなくて安心している? 悲しくは感じれど、何故そんな気持ちを抱く。深堀をしようとした。深堀しなければならない気がした。だがそれはできなかった。
「どうでもよくないよ!!!!!」
屋上にそれは響く。世界が凍った気がした。他の雑音が何も聞こえなかった。ただ背中を、肌を滴る汗が気持ちを悪さを。
顔を上げた。そこには今まで見たことがないような春香がいた。
春香は優しい。それは彼女の横にいたことで強く思った。喧嘩はすれど、不貞腐れはすれど、最後には俺を絶対に笑わせてくれた。ただ春の香りのような笑顔を見せてくれた。だが今の彼女は何だ? 冬のようではないか。
「何で、何で海ちゃんを優先するの? 用事って海ちゃんでしょ? そんなに海ちゃんが大事なの?」
早口で捲し立てながら俺に近づく。彼女を抱きしめたい。抱きしめていつもの赤らめた顔に浮かべた笑みをみたい。だがそれは今は不可能だ。この空気が、絶対に許してはいけない。
「ちがう、確かに海は大事だ。確かに海との約束があった。あったからここに来た。だけど、海が珍しくあんなに必死に俺に頼みごとをしたんだ。だから……」
「だから私より海ちゃんを優先したの!!?」
話は戻る。もはや言い逃れはできない。事実だ、事実なのだから。
「……そうだ。ごめん、だけど」
「だけどじゃない!!! 何で!!!??? 何で海ちゃんを優先するの!!!??? 何で、何でいつもいつも、他の娘を優先するの!!!!!??????」
強い言葉だった。鼓膜と、そして耳が痛かった。耳が痛いのだ。春香は俺の胸を両手で掴む。俺はただ彼女をみることしかできなかった。
「昨日、嬉しかったんだよ? 和人君が好きって言ってくれた。あの和人君が私だけを見て、私に微笑んで、私だけを、私だけに……。あんなに、あんなに大きく、そしてあんなにも周りに……。前じゃ考えられなかった。だから本当に嬉しかったんだよ? 夜、本当に嬉しくて眠れなかった。あなたととった写真をずっと眺めていた。凄く幸せで、胸が満たされた。そして朝の陽を見た時、とても幸せだった。こんな一日がいつまでも続けばいいと思った。そして今日も続くと思った。あなたの朝の笑顔をみて! でも、でも何で……?」
答えることができない。強く、強く力を込められている。俺は受け止めることしかできない。反論は許されない。俺自身が許してはならない気がした。
「それなのに何で、何でいつも私以外に気が向くの!!!!!」
瞳には涙があふれていた。春香も、そして俺も。
「春香、……ごめん。お前のこと、俺……好きなんだ。」
「わからないよ! 何で私じゃいけないの!!?」
「ち、違う、……お前以外好きじゃない。お前だけを好きなんだ」
「違わない! 信じられない! 昔から、昔から和人君はそう! いつもいつもいつもいつもいつもいつも!!!!!! いつも私を遠ざける。いつも私はこんな気持ちになる!」
「違う、俺が初めて好きになったのは春香だ……」
「嘘をつかないでよぉ!!!!! それこそ違うの!!! あなたは、あなたはぁ!!!」
違うのだ、本当に『この世界に生まれて』好きになったのは彼女だけなんだ。何故彼女に伝わらないのだ? 何故俺はこんなにも彼女を苦しませているのだ? 何故こんなにも彼女を泣かせているのだ?
頭の中には疑問しかなかった。泣かせている理由、俺がこんなにも罪悪感を抱いている理由、そして……後悔。俺は、何故こんなにも軽率なことをしてしまった。何故俺は彼女を泣かせるようなことをしてしまった。過去の自分の行動を振り返る。だが思い出せない。彼女をこんなにも涙で溢れさせてことをした覚えがない。
「いや、やめて!!!」
春香は俺を急に抱きしめた。そのことに驚く前に俺は耳を疑った。
「何も、何も考えないで! 何も思い出そうとしないで! そのままのあなたで、和人君でいて! 何もあなたは悪いことは……して、……いないよ」
「……違う、俺は前に春香を泣かせるようなことを……」
「思い出さないで! 変わろうとしないで! 私だけを見て! それだけでいい。いいの。だから、だからぁぁぁぁ……」
彼女は崩れる。倒れそうになる彼女を抱きかかえる。こんなにも彼女は軽いのかと思った。こんなにも彼女にきつい思いをさせたのかと後悔を抱く。彼女が心配だ。彼女が好きだから。
そんな彼女から一つの声が聞こえた。
「……許せない」
ひどく、底冷えするような声だった。今が冬だというのを思い出すような、そんな声だった。
「……絶対に、許せない。私から奪うもの、和人君を奪うもの、全部。全部」
「春香……」
春香の顔は見えない。塞いだ顔を見ることはできない。ただ俺は彼女の笑顔が見たいだけなのに。何か彼女を元気つけるための言葉を探す。何でもいいのだ、いつもの調子に乗っとでも、セクハラ紛いのことでも、何でも……。でも、何も思いつくことができなかった。こんなにも俺は頭の回転が遅かったのかと腹が立った。こんなにも『経験』がないことを呪ったのは初めてだった。
「ごめん、和人君……。離して」
「あ、ああ……」
彼女の言葉に素直に従う。俺は何も彼女にかける言葉も、彼女を抱きしめることも、できない。ただ『今』の俺は、無力だから。
「ごめん、和人君……しばらく、一人にして」
俺は、情けなく、そしてやるせなく、頷くことしかできなかった。