91分目の投身
紙谷ツルギは人嫌いである。
一年生のわたしは、隣の教室から届くその風聞に興味を惹かれていた。中学という環境がいくら閉鎖的であるからといって、普通は個人の内面が他クラスまで伝わったりはしない。すなわち噂に伝え聞く彼は、人嫌いであるという悪評が教室の垣根を越えるほど、強烈なヒトなのだろう。
それほどの個性に、公然と陰口が伝聞されるほどの悪性に、わたしは関心があった。
そして、幸運は程なく訪れる。進級初日、新しいクラス、教室の隣席。渦中の人に密着する機会を手に入れたわたしは、その日からすぐ彼に粘着し始めた。
「紙谷ツルギくんだよね、よろしく!」と笑いかけると、返されるのはその眼を逸らして「……ああ」という気のない返事。愛想が悪い──けれど面白い。
「わたしは篠宮サツキだよ。これから一年、仲良くしようね!」と、懲りずに言葉を重ねる。視線を逸らしたまま彼は深く嘆息して、「……なぁ」と心底厭そうに口を開く。
「なぁに?」とわたしは、それでも笑顔だ。きゃぴるん、なんて擬音がつくくらい。徹底的な満面の笑みを、意識して繕う。馴れなれしいクラスメイト、という仮面を見透かしたみたいに、彼は言った。
「あんたは誰にだってそういう笑顔を見せているんだろ」
「そうだよ? わたしは誰とだって仲良くする。だから、きみとだって仲良くする」
問題あるかな、人嫌いさん?
にたりと笑みを深めたわたしに、彼は一瞬、虚をつかれたような表情を浮かべて消した。残るのは、相変わらずうんざりとした顔。けれどそのうんざりの対象は、誰でもない他人ではなく、わたしという個人だったと思う。
どこまでも嫌々ながらな雰囲気で、初めてこちらをまっすぐ見据えて。
「一年間、ほどほどによろしくな」
「うん。ほどほどに、仲良くしよう」
──そんなことを言いあった、あの日のことが脳裏をよぎった。
三年前、三年後。
脳内時系列の混乱。
今の自分は高校生だ。
何をしていたところだったか。
考えて、再認する。その間数秒。
夏風にセーラー服がはためいて、
そのまま虚空へ我が身を任せて。
屋上の縁を蹴ったわたしは、
懐かしいあの日々を思い出す。
1
篠宮サツキは人好きである。
──と、思われるように振る舞い続けてきたのだ。
クラスメイトとの交流は欠かさない。話したことのない相手はいない。踏み込みすぎず、遠慮しすぎず、適切な距離を模索し、付かず離れずの交友関係を維持してきた。
勉強もそこそこに、運動もほどほどに、漫画も本もときどき読むし、ドラマや映画をそれなりに観て、流行りの歌を口ずさむ。
その結果として、どんな相手とも雑談の話題を見つけられる。代わりに、どんなことでも深くは語れない。
容姿や服飾にも適度に気を遣うし、目立たない程度にはメイクもする。クラスで一番に可愛いわけではなくても、片手の指には入るくらいのセミロングガール。
それがわたしという人間。
わたしが演じてきた外面。
クラス全員と軽い友人で、死んだら誰もが悲しんでくれて、けれどもすぐに忘れ去られる、そのくらいの立ち位置と自負していた。
そんな篠宮サツキというわたしだったから、紙谷ツルギという人嫌いに話しかけるのも自然なことだと思われているらしい。
「サツキ、最近紙谷くんと仲良いんだって?」
「まぁね」
「彼って去年のクラスだと評判悪くない?」
「らしいね。でも、実際話してみると結構いいとこもあるよ」
「へぇー。まぁ、そう簡単に言えちゃうのもサツキらしいよね」
「そうかなー。じゃ、わたし急ぐから」
「そっか、また明日」
なんて、軽薄な会話を終える。薄っぺらくて空虚な言葉。サツキらしいと彼女に言われる、わたしらしさとはなんなのか。彼女がわたしの何を知っている?
そんな心にもないことを考えてみるふりをしながら、足早に廊下を進んで下駄箱へ。そこで偶然出くわすつもりだった少年の姿を予定どおりに発見し、驚きの感情を込めて声を発した。
「あれ、紙谷くん今帰るところなの? えっ偶然!」
「………………なんであんたがここにいるんだ」
「廊下で知りあいの子と話し込んじゃってさー」
三拍分の苦々しげな沈黙を伴った疑問に惚けてみせる。今日の彼は掃除当番で帰宅が遅れることを考慮して時間を潰してきたから、なんて動機は語ることなく。
訊いたところで真実が返ってくるはずもないとわかっていたのだろう、彼は苦渋を浮かべたままに「そうか」と一言呟いた。やれやれとかうんざりとか、そんな形容の似合う渋面に、わたしはとびっきりの笑顔を贈呈してあげる。
「これで一ヶ月連続だね!」
「…………そうだな」
二年生になったあの日からずっと、休日を除けば毎日、わたしは彼と下校している。
偶然、たまたま、図らずも、期せずして、思いがけず、なぜか、どうしてだか、運良く、まるで運命みたいに人為的にタイミングがばっちりと合うものだから、まあしかたがないだろう。そう、しかたがないのだ。
わたしも彼も帰宅部で、学校に留まる理由はない。自宅へと向かう方向は一緒で、離れて帰る理由もない。それを繰り返すこと一ヶ月ともなれば、これはどうしようもないことだと彼も諦めている頃だろう。
「どうしてなんだ?」
と、不意に彼が言った。
わたしが身勝手に彼の内心を忖度し本心を断定せんとしていることに気づいた、わけではないらしい。かといって、何を尋ねているかも不明瞭なのだけれど。
「きみがクラスメイトだから?」
「それは聞いた」
当てずっぽうで疑問符つきの答えを返すと、どうやら正解だったらしい。つまりこれは、篠宮サツキが紙谷ツルギと仲良くする理由の話。ならば言うべきことは決まっているのだけれど、彼はそれだけでは不満なようだ。
「あんたが誰とでも仲良くする人間だからオレとも仲良くする、ってことは聞いた。でも、これはそれだけで済む状況じゃないだろ」
「というと?」
「それだけならあんたは、他のクラスメイトの連中と同じようにオレに接すればいいはずだ。なのにどうして、こんなことをする?」
……さて。
彼が言っていることを理解したところで、考える。何を言うべきか。わたしは、篠宮サツキはなにゆえに紙谷ツルギに付き纏っているのか。今の状況に適切な返答はいかなるものか。
考えて、わたしは顔面を操作する。
「……へぇ〜?」
にたにたと、にやにやと、悪戯っぽくて悪気だらけで、一切他意のない表情を顔面に表示しながら、彼を下から覗き込むように。
「なるほどー? つまりこういうこと? わたしが紙谷くんのことを特別扱いするのは、すなわちツルギくんのことがす──」
「そうじゃない。あくまで発言と行動の矛盾を指摘しただけだ」
「ちぇっ、つれないなぁ」
頬を赤らめる様子すらない純粋な否定の前に口先だけの文句を放言して、ひと息ついた。
一瞬の沈黙。
綺麗に緩急がついたところで、わたしは本命の一手を口にする。
「──人嫌いくんはさ、わざとやったよね?」
「…………」
「だから、興味があったの」
紙谷ツルギは人嫌いであると、そう言われ始めたのは去年の今頃だったか。
──いくらなんでも、早すぎる時期だ。
彼がよほど度を越した人間嫌悪者だとしても、普通に過ごすだけで噂になるとは考えづらい。つまり彼は、自分のことを人嫌いと認知させるため、意図的な行動をとった。
人が嫌いだと思われるような言動をした、ということだ。
わたしが、人に好かれるよう能動的に行動したみたいに。
「わたしときみは正反対だから」
人間関係を演技により誘導している点で、方向性は同じ。
その演技が導く感情論の正負という点で、志向は真反対。
興味を抱かないはずがないというものだろう。
「接触する時間として放課後を選んだのは、他の生徒の目がない環境だから。そのほうがきみの本音を引き出しやすいだろうし──わたしだって、本音を曝け出しやすい」
だからありのままのわたしを見て、なんて冗談を口にする。それをごまかすようにひらりと身体を翻して、彼の前に立ち塞がった。
学校から歩いてきた道のり。その先に続いてゆく、二筋の道の手前の地点。三叉路の中心に立って選択を迫るみたいに、わたしは不敵に微笑する。
「とまあ、これがわたしの動機であるわけだけれど。それを聞いたきみはどうするの? きみのほうの事情を話してみる気になった?」
「…………」
今度の沈黙は、少しばかり長かった。
沈思黙考することしばらく。
伏せていた顔を不意に上げた彼は、わたしと顔を正対させて、こちらへと一歩足を進めて、
そのまま進む向きを変え、自宅のほうへと歩いていった。
「じゃ、オレの家こっちだから。わかってるだろうけど、ついてくるなよ」
「……ちぇっ」
去りゆくその背を呪うみたいに、深々と溜息をした。帰宅部の活動を一緒に始めて一ヶ月ともなれば、彼とわたしの帰路がここで分岐することはもちろん知っていた。しかたなくわたしも家に帰ろうと身を翻した、その瞬間に。
──偽物同士、ほどほどに仲良くしようぜ。
そんな捨て台詞が聞こえたのは、果たして幻聴か否か。
思わず口許に勝ち誇った笑みを浮かべながら、わたしはその場を歩き去った。
そして、しばらく帰路を歩いたところで、笑みを消した。
作戦は成功、と見ていいだろう。
彼との関係性が一歩深まった、とまでは言えないけれど、心の距離が少しは縮まったはずである。
とはいえ、反省は欠かせない。
彼にとって、一ヶ月も下校をともにし続けるというのは「特別」に属する行為だったらしい。
わたしとは価値観の相違がみられるようだ。
その特別性の認識は何に由来するのだろう。一緒に歩いていたら恋人、なんて思うほど幼稚な恋愛観ではないだろうけれど。過ごした時間の長さに価値を見いだしているのだとしたら同意はできない。
わたしにとっての人間関係とは質である。
そして、現時点での彼との関係は充分な質に達していない。それゆえにしかたなく、こうして一緒に下校することを選んでいる。
なぜならわたしは、誰とだって仲良くする。
誰とだって、同じように仲良くする人間だ。
今のわたしは、彼から本音のひとつも引き出せずにいる。
今の彼とは、他の連中と同様に仲が良いとは言いがたい。
果たしてわたしはいつまで彼といるべきなのか。
無表情でそんなことに考えを巡らせながら、わたしは帰路を歩いていた。
そうして、ふたりの出会った四月が過ぎた。
2
長袖から半袖へと衣を替えて五月が過ぎた。
涼しげな純白は不思議と仏頂面の彼に合っていた。
うっとうしいほどに雨の続く梅雨が過ぎた。
傘を忘れて相合傘を要請したら容赦なく断られた。
日ざしが暑く汗のほとばしる七月が過ぎた。
炎天暮れた夕空の下で一緒に猛暑の愚痴を吐いた。
酷暑に負けて家に引きこもる夏休みが過ぎた。
外出する気力のないわたしは彼とは会わなかった。
長い空白期間を経て登校する始業式が過ぎた。
久々の再会が嬉しいか問い掛けて無言を返された。
祭典へ向けて校内の騒々しい九月が過ぎた。
文化祭だからと言って強引に彼を連れ回してみた。
再び衣を替えて心機一転する十月が過ぎた。
夏服とは正反対の純黒を纏う姿が目に焼きついた。
迫る冬の気配に防寒を強める十一月が過ぎた。
一緒のマフラーに入らないか誘って当然断られた。
降り続く雪に道が白く染まる十二月が過ぎた。
踏み荒らされた下校時には雪合戦もできず笑った。
極寒に負けて家に引きこもる冬休みが過ぎた。
逢瀬をする理由のないわたしは彼と会わなかった。
新しい年の始まりに心の躍る一月が過ぎた。
周回遅れの初詣と彼を連れ出して御神籤を引いた。
年で最も厳しい寒さに震える二月が過ぎた。
もちろん義理だと笑いかけながら市販品を渡した。
そして、来たる別れの日を予感させる三月が終わろうとしている。
修了式を終えた教室に、彼とふたりで残っていた。
「一年間ほどほどに仲良くしてくれてありがとう、人嫌いくん」
「こちらこそほどほどに仲良くできてよかったよ、人好きさん」
「来年もきっと同じクラスになれたらいいね」
「来年は絶対に同じクラスになりたくないな」
「もしそうなったら休み時間のたびに遊びにいくよ」
「やめろ」
そんな、心にもない薄っぺらな会話をして彼と別れた。
この日は別々に、一年ぶりにひとりぼっちで家に帰った。
さて、この先わたしはどうすべきだろうか。
誰とでも仲良くする人間であるわたしは、彼とはそれほど仲良くなれなかった。
かといって、来年度も彼に粘着し続けるべきだろうか。
実際の関係性はさておき、クラスが違うのに毎日話している男女という構図は、側から見れば紛れもなく特別扱いではないか、とはわたしも思う。それゆえに、彼との関係はここまでにすべきであるかもしれない。
二年連続で同じクラスになる未来には期待していない。確率論的には、同じ相手と同じクラスに属する可能性は確かに存在している。かといって、特定の相手との間でそんな事象が生じるとは決して期待できない。
では、わたしはどうするべきか──。
そんなことを考えながら歩いていく独りきりの帰り道は、やけに静かだった。
□
一年分の走馬灯が瞬く間に過ぎ去っていく。
屋上の縁を蹴ってからの数瞬に、あの一年が濃縮されて脳裏を駆け巡る。
風が強く吹きつけている。
伸ばした髪がぱたぱたと揺れる。
見開いた瞳に空気が叩きついて痛む。
それでも目を開いて。
自分が堕ちてゆく先を、まっすぐに見据える。
屋上から投げだした身体が、重力に従って角度を変えていく。
重い頭部へと血が下って、目が眩むみたいにずきずきと疼く。
その疼きが刺激となったかのように、回想の続きが頭をもたげた。
一年前のあの日。
中学三年生のふたりが、再び同じクラスになった日。
あの日さえなければ、わたしがこうして身を投げることもなかったかもしれない。
3
春の陽気に桜が薫る、四月のその日。
言葉を交わすこともなく、わたしと彼は歩いていた。
沈黙が深く、空気は重い。
いたたまれない雰囲気がふたりの間を遮っている。
まるで、今生の別れみたいな挨拶をしたのだ。
もう二度と会うことはないだろう、と思って。
その未来を避けるために行動すべきか悩んで。
違うクラスになることを決定事項かのように。
そうして思い悩んだ挙句がこの現状だ。
あまりにも自分が恥ずかしい。
彼との関係を保つために何かすべきか、と考えてしまったこと自体が、彼のことを特別扱いしていることを示しているようで。
どうすべきかなんて新しいクラスが発表されてから考え始めれば済むことだったのに。
「…………」
そんな内心を悟られないよう、ひたすら無言を保ったままに並んで歩く。
桜の花びらを散りばめる街路樹に沿って歩道を進む。
赤い信号を前に立ち止まり、青を確認して歩きだす。
白と黒の縞の模様を跨ぐみたいに交差点を横断する。
黄黒の棒を潜り抜けるように甲高く叫ぶ踏切を渡る。
そうして、いつもの三叉路に辿り着く。
彼とわたしの行く手を分かつ二本の道。
その手前に立ち止まった彼は、いつかの誰かみたいにこちらを振り返って、
「……よかったら、ウチに寄るか?」
あの日のわたしが投げ掛けた問いに、十と一の月を経て答えた。
「あんた、オレのこと知りたいんだろ?」
「……きみ、そういうことを言うキャラだっけ?」
「……そうだな、今のはオレが悪かった」
突然の爆弾に戸惑いながらの応酬で、彼もわたしも歯切れが悪い。唐突に口説き文句もどきを発するそちらが悪いのだ、と目で訴えてやると、照れたのか顔を逸らしながらの説明が続く。
「……つまり、だ。あんたは、なぜオレが人嫌いを演じたのか知りたくてオレに付き纏っていた。それを話すつもりのないオレは、一年間だけならと思ってあんたに合わせていた。ところが今年もオレはあんたと同じクラスになってしまった。この先、さらに一年も本心を隠しながら演技としてあんたとつきあうなんて、もちろん御免被る。そこでオレは、逆に現状を利用してやることに──」
「要約すると?」
「──事情を明かす代わりに協力しろ」
「……なるほど」
主張の意図は理解した。こちらとしても文句はない。
秘密の共有、というのは、仲良くなるための重要な一歩ではないだろうか?
断る理由があるはずもない。
なのでわたしは、当然のように微笑んで言った。
「まあ、話を聞いてから考えるよ」
「……そこは快諾する場面だろうが」
「冗談だってば」
こうして、あまりにも呆気なく、彼とわたしの距離は縮まることになる。
これまでの一年間、苦労してきたことが嘘のように。
まるで運命みたいに。
4
「別に、聞いて面白いような話じゃないぞ」
という前置きで始まる昔語りは、本当に聞いていて面白くなかった。胸糞ばかりが悪くなる、厭な話だった。
要約しよう。
彼の父は二年前に死んだ。
家には彼と弟と妹という三人の子。
彼らを養うべき母親は他の男と住んでいる。
よって彼は中学生ながら年下の二人の面倒を見ている。
要約終わり。
どうしようもない話だった。
どうして彼の父親が亡くなったのか、といった細部の事情は聞いても仕方がないので無視したけれど。
いずれにしても、どうしようもない話だった。
幸いなことに、中学までの学費は父親の遺した資産で賄える。高校は奨学金を利用すればなんとかなるらしい。
問題は生活費である。生活保護のおかげで最低限の暮らしはできるらしいが、本当に最低限なので充分とは言いがたい。なので足りないぶんは、法的には怪しい範囲で彼が働いて稼いでいるという。
将来の奨学金へ向けた勉学と、日々の生活費を賄うための労働。それらを考慮すると、学校の人間関係に割く余裕はない。中途半端に仲良くなって誘いを断るのも心苦しいから、最初から嫌われておくことにした。
というのが、人嫌いの噂の真相であるようだ。
重い事情だった。
重すぎる事情だった。
「……それ、わたしにどうこうできる話じゃなくない?」
「あんたには、オレが働いているとき弟と妹の面倒を見てもらいたい」
案外わたしの家から近い集合住宅の七階で、案内されて部屋に入って、座卓を挟んで向きあった彼が言う。
「あいつらも小学生だからある程度自分の面倒は見られるし、食事もオレが出掛ける前に用意しておけばいいけど、勉強や人との触れ合いはどうしようもないからな」
「家庭教師をしろってこと?」
「時間の都合が合う範囲で構わない。オレもなるべく早く帰るようにするし。夕飯時を過ぎるとなると、流石に親御さんに心配されるかもしれないが……」
「まあ、別にいいよ。わたしは一人暮らしだから放課後はたいてい暇だし」
「そう、なのか……? あんたが大丈夫ならそれでいいんだが……まあ、助かる。よろしくな」
「ええ、よろしく」
「早速だが、あいつらと顔を合わせてやってくれ」
と、促されるままに彼の弟妹に紹介され、しばらく話をしてその日は帰ることになった。
送ってくれるという彼を断り、普段と違う帰り道を歩く。
その途中で、例の三叉路に行き当たった。
いつもとは角度の違う光景。
通ったことのなかった分岐から見る景色。
彼とわたしの断絶と親睦を象徴するその場所に、どことなく頭が疼くのを感じていた。
本当にこれでいいのだろうかと、心のどこかでわたしは考えていた。
5
そうして新しい一年間が始まり、過ぎ去っていく。
家庭教師もどきの仕事は順風満帆だった。ヒトに勉強を教えることには不慣れだったけれど、幸い教え子たちは物分かりがよかった。拙い説明でもきちんと大要は理解したうえで、わからないところがあればすぐに質問してくれる。
きみにはもったいないくらいに良いきょうだいだな、と言ったら彼には怒られたけれど。
学校でのわたしはいつもと変わらない。誰とだって仲良くする、人好きな篠宮サツキとして振る舞っている。
けれど、紙谷ツルギはもはや人嫌いではなかった。
わたしが馴れ馴れしくした去年の間に、彼の風聞はすっかり塗り替えられてしまっている。彼自身も意図的に肩肘を張る理由がなくなった今年ともなればなおさらだった。
相変わらず、放課後の時間を家族以外のために割くことは決してないようだ。けれど、学校の休み時間などでは普通に学友と会話するようになっている。人嫌いとして疎まれていた頃の面影はなく、クラスにも溶け込んでいた。
学校が終わると、例のごとく彼とわたしは一緒に下校している。彼とも他の生徒と同じように仲良くする、というわたしの目的が達せられた今では特にそうする理由もないのだけれど、習慣になってしまったものはなかなか変えられない。家庭教師もどきをするうえでは結局彼の家に行かなければならないわけだし、別々に帰る理由もないのだ。
だから一緒に帰っているだけなのであって。
別に、一緒に帰りたいというわけではない。
あくまでわたしは誰とでも同じように仲良くする人間であり、それゆえに、彼の弟妹とも仲良くするために通っているだけだ。
彼のアルバイトがない日には、通学路の途中にあるスーパーで買い物をして帰ることもあった。制服姿の中学生男女が所帯染みたショッピングをする様子は、どうやら地域の皆さんにも好意的に受け入れられているようだった。
ただし一度だけ、眼鏡を掛けた年上の男性がやけにじろじろとこちらを見つめていたことがある。不審としか形容のしようがないので通報しようか迷っているうちに、同じく不審者に気づいた彼に手を引かれ、その場を慌ただしく去ることになったけれど。
本心を明かしてくれたからか、彼とは表面的な演技ではない話をすることも増えていた。なんてことのない雑談をしたり、勉強や進学の話題を挙げてみたり、彼の母親の現状について話したり、日本の未来の行く末について生活保護や福利厚生といった観点から憂いてみたり。
「どうして紙谷くんは、そんなに家族のために頑張れるの?」
と、そんなことを尋ねてみたこともある。
純粋に、疑問だったのだ。
誰とでも仲良くする代わりに誰にも深入りしないわたしとは正反対な、最初からずっと誰かのために行動している彼のことが。
「なんで、と訊かれても難しいけどな……」
いつもどおりの帰り道で、彼は秋空を見上げながら考え込んでいる様子だった。路上に散った落ち葉を踏み締める、くしゃりという音だけが響いていた。
「──篠宮にとって、幸せってなんだ?」
「突然話題が抽象的になったね!?」
「幸せ、というと難しいなら、生きる意味と言ってもいい」
「そのふたつはだいぶ離れていると思うけれど……」
「そうか?」
口先だけの疑問と目許だけの微笑を示しながら、わたしはその問いから逃れた。今までに培ってきた演技の経験を駆使して、答えられない問いから逃げる。
もっとも、彼のほうはわたしの回答を求めたわけではないらしかった。
「オレは、さ。今の母親の態度は許せないけれど、亡くなった父さんのことは好きだったし、弟と妹のことも大切にしたいと思ってる。二度と会えない父さんのぶんも、面倒を見てくれない母親のぶんも、あいつらを守ってやりたい」
「……つまり?」
「つまりオレにとっての幸せってのは、一緒にいたい相手と一緒にいられることなんだ。そして、そのためにあいつらを守っていくことが、今のオレが生きる意味だと思う。──だから、オレは頑張れるんだ」
こんな感じの答えで満足か、とこちらに尋ねてくる彼に。
わたしはただ、すごいね、と微笑んで返した。
できる限り適当で薄っぺらで中身のない、いつもどおりのなおざりな篠宮サツキの笑顔に見えるように。
自分とまったく違う紙谷ツルギの生き方に、その人生を全肯定できる強さに、仄かに憧れてしまったことを隠して。
わたしが思う幸せの定義は、彼に話せるはずもなかった。
そんなこんなで、中学最後の一年間は大きな出来事もなく幕を閉じた。
わたしはずっと、誰とでも仲良くする少女を演じていた少女、を彼の前で演じていた。
誰にも本音を語ることなく、誰にも自分を見せることなく、空虚な演技を続けていた。
まるで運命がありのままに流転していくかのように、彼とわたしは同じ高校へ進学し、再びクラスメイトになることになる。
その高校の制服は、セーラー服の白色が眩しかった。
□
もしかしたら、わたしは楽しかったのかもしれない。
地に堕ちてゆくわたしの瞳を離れた雫が空に吸い込まれていく。
それは哀切の涙ではなく目が乾いたことによる身体現象のはず。
後悔なく躊躇なく飛び降りたわたしに悲しむことなどないから。
たとえあの日々が楽しかったとしても。
彼と一緒に過ごす毎日が楽しいものだったとしても。
空虚なわたしでも、日常を楽しむことができたとしても。
だからこそわたしは、自分が選択して堕ちてゆく結末を見開いた目で見つめている。
どうしてわたしがこうすることを選んだのかを、一切の悔いなく反芻し続ける。
6
高校にあがるのに伴って、わたしは家庭教師もどきの職を失うことになった。
彼の母親が家庭に戻ってきたからであるらしい。
どうして彼女が一度棄てた彼らのもとに帰ってきたのかは知らないし、わたしが知るべきことでもないと思う。けれど、高校の奨学金を優等生枠として勝ち取った彼の努力が報われたかのようで、喜ばしくはあった。
というわけで、紙谷ツルギは名実ともに人嫌いではなくなっていた。もはや級友との交流を拒む理由はなかったし、進学したことでかつての悪評の影響も薄れている。
今の彼は、どこにでもいるような普通の男子高校生だ。
丸くなった、という形容がよく似合う。
それはきっとよい変化であるはずなのに、なぜだろう。
わたしがよく思いだすのは人嫌いと呼ばれていたころの紙谷ツルギばかりで。
相も変わらず篠宮サツキは八方美人の人好きだった。
任を解かれたことで紙谷家の弟妹と会う機会は減ったけれど、彼らも元気にやっているらしい。
何もかもがうまくいっているかのように錯覚していた、そんな七月のある日のことだった。
その夜のわたしは、高校入学以来の習慣となった夜の散歩を行なっていた。
ひと気のない夜に外を出歩く、その興趣を知ったのは家庭教師もどきの業務ゆえである。失職した今でもその愉楽を忘れられず、こうして徘徊しているわけだった。
ウォーキングのルートは決まっていた。彼が住んでいる集合住宅と、わたしの自宅を往復する道順。三十分程度の散歩をするには程よいその選択に他意はない。
若い女のひとり歩きということでそこそこの武装をしつつ、夏の夜ということでそこそこに薄着姿のわたしは、その夜、彼と出くわした。
偶然たまたまばったりと。
一切意図的でない奇遇の邂逅。
街灯が遠く若干暗い夜道でも、目の前に立つその少年が誰であるか程度は判別することができた。
「あれ、紙谷くん? 偶然だね、こんな時間にこんなところで会うなんて」
「…………どうして篠宮がここにいるんだ」
予定外の遭遇への驚きと喜びを、演技と本音の半々で表現したわたしに、彼はぶっきらぼうな疑問を返した。
いつかどこかでこんな会話を交わした気がした。
あの日の篠宮サツキと紙谷ツルギに戻った気がした。
「わたしは散歩。高校に入ってからハマっちゃってさ」
「そうか。暗いから気をつけろよ」
「うん、気をつける。紙谷くんは?」
「悪い、オレ急いでるんだ」
そう言って、逃げるように去っていくその背を不思議に思う。
自宅とは逆の方向へと早足で歩いていくのはなぜだろうか。
その顔が何かに怯えて見えたのはわたしの勘違いだろうか。
気になって、散歩を続ける。
いつもの三叉路を曲がって進む。
わたしのとは違う通学路を遡るように。
意外とわたしの家から近い、その集合住宅の。
手前。
そこにヒトがぐしゃりと潰れていた。
頭から落ちたらしい。
柘榴のようなという比喩のとおりに。
鮮やかに紅く色づいた果実が潰れて蜜が吹き出るみたいに死んでいた。
集合住宅という直方体の、ベランダに面した一面の下端だった。
残骸の傍らに立って建物を見上げると、その先に何があったかわたしは知っている。
夜闇に隠れて不透明な八階建ての集合住宅の、最上に近い七階ともなれば、墜死するには充分な高さだろう。
改めて死骸を見やる。頭部がぐちゃぐちゃで正体は知れない。少なくとも、男性ではあるようだ。誰なのかはわからない、けれど、なんとなく見覚えがあるような。
彼と一緒にスーパーで買い物しているときにじっと見つめてきた不審者、だろうか。
確信は持てない。推論とも言えない。単なる直感に過ぎない。
あの不審者がつけていたはずの眼鏡は、この場には破片すらも見当たらない。
けれど、符合するものを感じる。
彼があの不審者から逃げだしたこと。
彼の母親がこの家に戻ってきたこと。
以前彼女は他の男と住んでいたこと。
無根拠な照応が、それらの事実を結びつけた気がした。
家に戻ってきた母親を情夫が追いかけてきたのを彼が突き落とした、とか?
まさか、と笑い飛ばすこともできる。
杞憂だったらいいのに、と思う。
でも、もし、それが真実なら。
もう一度、その屍体を見据えて考える。
頭と顔は原形をとどめていないけれど。
その衣服に指紋くらいは残るだろうか。
わたしに、できることはあるだろうか。
7
篠宮サツキは空っぽだった。
保育園の記憶は茫洋で、小学校の経験は曖昧で。
ただ漠然とした希死念慮以外に何もない人間だった。
生きていたいと思えなかった。
死んでしまいたいと思っていた。
けれど、自殺の報道を聞くたび罪悪感に胸が痛んだ。
この国にはあまりの辛苦に耐えられず死を選んだヒトだっているのに、わたしは訳もなく無為に死を望んでいる。
その傲慢が耐えがたくて死にたかった。
死を望む理由がないから死にたかった。
故なく死にたがる自分に死にたかった。
けれど本当に死ぬ覚悟もなく、流されるまま生きていた。
それはよくないのではないか、と中学にあがる頃思った。
どうやら世間の人々には趣味があるらしい。
どうやら一般の学生とは青春を求めるらしい。
どうやら大衆の空気とは異質を排斥するらしい。
どうやら普通の人間には生きる意味があるらしい。
どうやら篠宮サツキは、普通とは違っているらしい。
それを恐れたわけではない。ただ、世間的にそれはよくないとされているらしい。よくないとされることをするのはよくないのだろうな、と思っただけだ。
だから、
勉強をしてみた。暗記は為せる。何も学べなかった。
運動をしてみた。規則は知れる。楽しくはなかった。
漫画本を読んだ。展開は分かる。何も感じなかった。
小説本を読んだ。文脈は読める。感動はしなかった。
実写映画を観た。状況は追える。意味は不明だった。
流行歌を聴いた。音韻は踏める。心は乗らなかった。
お洒落してみた。化粧は塗れる。出来は不明だった。
仲良くしてみた。知人は増える。友達はいなかった。
何をしてみても、何ひとつとて、楽しくは思えない。
それを悟られることだけは避けようとした。
なにごとにも興味を持てない代わりに多趣味を装った。
誰にも興味を抱けないのを隠すため八方美人を演じた。
薄っぺらな張りぼての中学デビューだった。
誰とでも仲良くする篠宮サツキという虚像が生まれた。
異質だと思われて厭われて弾かれることは避けたくて。
仲良くない人間がいなければ排斥はされないと思った。
心は空っぽなままだった。
生きる意味なんて解らなかった。
自分は、きっと。
意味もなく生きて、意味もなく死ぬのだと思っていた。
紙谷ツルギと出会うまでは。
8
翌朝の彼は、まるで昔に戻ったようだった。
友達だったはずの誰かとは目も合わせない。
級友だったはずの誰かには言葉を返さない。
学業のための最低限以上には行動をしない。
かつて噂に名高かった、紙谷ツルギという人嫌いの再来みたいに。
学友たちはそんな彼に何度か話しかけようと試みては諦めていった。その表情に宿るのは怒りと戸惑いと悲しみ。どんな言葉を投げかけても、対応が変わることはない。
そんなクラスメイトたちの困惑をよそに、わたしは彼の心情をはっきりと理解していた。
紙谷ツルギなら、きっとそうするだろう。
家族のためにその他の人間関係を絶とうとした彼なら。
自分の都合に他者を巻き込むのを嫌っている彼だから。
いずれ殺人者の悪名を背負うことになる自分に、友人を巻き添えにはしないはずだ。
今はまだ、同級生たちは気づいていない。昨晩遅く発見された墜落屍体と、彼の変調を結びつけていない。けれど、真相が明かされる日は遠くないだろう。
そしてその日を予期している彼は、今のうちから周囲を遠ざけようとしている。
自分の周りに壁を築くことで自分以外を守ろうという、不器用な人嫌いらしい紙谷ツルギの意図を知ったうえで。
相変わらず人好きなままの篠宮サツキは、いつものように笑いかけて。
満面に造りものの笑顔を浮かべながら、決定事項を告げるかのように言った。
「今日、紙谷くんの家に遊びにいくからね」
その言葉がクラスのなかに引き起こす波紋も彼の動揺も文句ありげな視線も全部愛想笑いでごまかして、放課後になった。
宣言どおりにわたしは彼に付き纏い帰宅に付き添った。
集合住宅の周囲に歩哨として立つ警官には気づかないかのように中へ上がり込んだ。
少し不安げな彼の弟妹に挨拶し、渋る本人に逆らって彼の部屋へ入り込んだ。
「紙谷くんはお客様にお茶を出すこともできないの?」
と不敵な女王様キャラを押し通して彼を追い払う。
独りきりになった途端にわたしは家捜しを始めた。
目星をつけていた箇所を漁りながら、思わず笑ってしまう。
年頃の女子高校生が男子高校生の部屋に入るとなれば、もっといやらしいモノを探すものだろうに。
今のわたしが探しているのは淫猥な書物などではなく、けれど見方によってはもっと冒瀆的なもの。
誰かを巻き込むことを嫌う彼ならきっと自室に隠すだろう、と踏んでいたそれをクローゼットの奥底から発見し、自分の鞄にしまったところで彼が戻ってきた。
座卓の前に正座し、いかにも深刻そうに振る舞ってみせていたわたしは、対面に彼が座ったのを確認して。
殺人の証拠を発見したばかりなんて素知らぬ顔で言う。
「勉強を教えてほしいんだよね」
「…………は?」
「そろそろ期末でしょう? 高校に入ってから勉強も難しくなったし、実際中間は酷い点数だったし。ここはひとつ、奨学金対象の優等生さまに教えてもらってやろうじゃないかと思って──」
言うほど酷い点数じゃないだろ、と返す彼を舌先三寸で説得しながらもわたしは、いかにしてこの場を切り抜けるか模索し続ける。
9
紙谷ツルギとの出会いは、あらゆる意味で篠宮サツキを変えることになった。
最初に抱いたのは好奇心。人嫌いと大々的に謳われる彼の真意を知りたかった。
続いて覚えたのは義務感。人好きなわたしという虚像を貫くため距離を詰めた。
次いで感じたのは不自然。彼と仲良くなってよかったのか、という疑問の疼き。
そして湧かされた親近感。弟妹との家族ぐるみでの交流による不本意な身近さ。
そして、そして。
篠宮サツキは紙谷ツルギに憧れてしまった。
強い芯に基づいて自分の意志により嫌われ者を演じられる、大切な家族のためならと躊躇なく断言できる、わたしにはない彼の信念への。
決して届くことのない、それは憧れだった。
誰かが言っていた。憧れとは最も理解に遠い感情だ、と。紛れもなくそれは事実であり、そしてだからこそ、わたしは彼に憧れたのだ。
ヒトを大切に思うことのないわたしだから、家族や誰かを大切に思う気持ちに憧れた。
けれどその大切さをわたしはわかれない。
疎まれないよう虚像を演じたわたしだから、嫌われてもいいと言い切る決断に憧れた。
けれどその強靭さをわたしはわかれない。
でも、けれど。
わからないなりに、わたしは。
熱くなれる趣味なんてなく、大切にできるヒトもいないわたしは。
きっと意味もなく生きて意味もなく死んでいくだろうわたしは。
一度でいいから。
誰かのために、生きてみたかったのだ。
10
数日、待った。
彼がわたしの訪問を怪しく思わないように数日。
警察の捜査の進捗がどれほどか待つための数日。
どうやら、仕込みは上手くはたらいているらしい。
紙谷ツルギが即刻逮捕されることはなく、仮に捜査線上に上がっていたとしても、それほど怪しまれてはいない。
彼以上に怪しむべき対象を警察は認知しているようだ。
すなわち、準備は万端であるということ。
必要な小道具の用意もまた万全であった。
週が明けた月曜日。二限の授業の途中。
仮病で教室を抜けたわたしは、校内を歩いていた。
ヒトのいない廊下は静かだった。講義する教員の声と、黒板を叩くチョークの音だけが響きわたるなかで、歩みを進めていく。
階段に到達する。一年生の教室は一階で、目指すべき場所は四階相当だ。少しばかりその事実をしんどく思いながらも、足を踏み出した。
一歩、また一歩、と踏みしめるように階段をあがる。
いまのわたしに必要な位置エネルギーを積み重ねる。
その苦労をごまかすように、彼のことを考えてみた。
この先、紙谷ツルギの人生はどうなるのだろう。
もし彼があの男を突き落としたことで捕まったなら、あの弟妹はどうなるのだろう。
少年院か刑務所か、どこかで数年あるいは何十年と囚われる彼はどうなるのだろう。
せっかく母親が戻って円満に再始動したはずのあの家庭が、再び壊れてしまうかもしれない。
わたしが、何もしなければ。
ゆっくりと階段をあがり、二階に到達する。
『オレにとっての幸せってのは、一緒にいたい相手と一緒にいられることなんだ』
ふと、彼の言葉を思い出した。
『あいつらを守っていくことが、今のオレが生きる意味だと思う』
そう言い切れる彼の前で、わたしが言葉を返せるはずもなかったことを思い出す。
空っぽなわたしには、生きる意味なんてなかったし。
わたしが思う幸せとは。
生まれてきてよかった、と思っていられるうちに、死ぬことです。
なんて、言えるわけがなかった。
生に意味を見いだそうとする彼と、漠然と死を望むわたしは、どこまでも正反対だった。
三階に辿り着く。目的地まであと少し。
わたしの人生は限りなく消化試合だった。
生きる意味もわからないままに生きてきた。
誰かのために生きることなんてできなかった。
サッカーに喩えるならば前後半を合わせた九十分。
無意味で無価値で無目的なままに終わるはずの人生。
けれど、最後の瞬間に。
前半と後半を終えたあとの余剰時間に、
誰かのために死ぬことができたならば。
誰かのために生きたことになるのかな?
四階に着いた。
息はもう切れている。
絶え絶えの呼吸をしながら外に出て、広々とした屋上に深呼吸する。
常に開放されている我が高校の屋上を、適当な場所を求めさまよう。
まあ、わたしのクラスの教室の真上が妥当だろうか。
靴を脱いで、屋上の端に置いた。
揃えた靴に用意した手紙を入れる。
どれほど愚かな捜査でも見逃されない場所。
あとは、布石がはたらいてくれることを祈るだけ。
準備を終えて、伏線を張り終えて。
えいやっ、と勢いをつけて、転落防止のフェンスを乗り越えて。
屋上の縁へとわたしは降り立った。
あとはもう、必然の結末に向かうしかない。
まるで運命みたいに。
□
そうして、わたしはここにいる。
もはや、後戻りはできなかった。
わたしはもう、宙に賽を投げたのだから。
堕ちてゆく視界は失速を続ける。
走馬灯だけが脳裏をよぎっている。
自分が何をしたのか延々考えている。
彼のことを考えた。
彼と一緒に過ごした帰り道のことを考えた。
彼に秘密を打ち明けられた日のことを考えた。
彼の家に入り浸っていた一年間のことを考えた。
彼と同じ高校に進んでからの日々のことを考えた。
彼が犯した罪のことを考えた。
彼が殺した男のことを考えた。
彼のために犯した罪のことを考えた。
彼のためにわたしがしたことを考えた。
何度も何度も、考えたのだ。
これですべてがうまくいくのか。
墜落屍体の衣服に指紋を残した。
墜落屍体の衣服に長い髪を残した。
墜落屍体の爪で自分を傷つけて皮膚片を残した。
あの集合住宅も屋上が開放されていたのは幸運だった。
屍体を見下ろせる位置の手すりにも指紋と髪を残した。
格闘の痕に見えるよう擦り痕や打撲痕を残そうとした。
屍体が普段使っていた眼鏡は、彼の自室から回収した。
おそらく、本来の格闘の際に落ちたのだろう。
彼の指紋を残さないよう入念に拭っておいた。
代わりに本人の指紋も消えたのは不自然かもしれない。
けれど、それがわたしの家にあることの意味は充分だ。
手紙を書いた。いわゆる遺書を。
屍体とのありもしない因縁を捏造する文章を書いた。
彼と一緒にスーパーで遭遇した日以来、あの男に付き纏われていたことにした。
あくまでストーカーだったから実際に接触したことはなく、独り暮らしのわたしには自由な過去を捏造できる余白が多い。存在しない動機を存在するかのように思わせるには、絶好の材料だった。
日に日に激化する付き纏い行為に耐えられなくなって突き落としたと、そう自白する手記を残した。
置ける限りの布石を置いた。
施せる限りの偽装を施した。
その終止符として身を投げたわたしにできるのは、あとは祈るだけ。
わたしの命を代償に彼を助けることができたなら、
こんなわたしでも、生まれてきてよかったと思えるから。
地面に落下するまでのわずかな残り時間に祈る。
見開いた瞳で見据える終焉が近づくなかで祈る。
どうか警察を欺けますように。
偽装工作が身を結びますように。
わたしに騙されてくれますように。
彼と家族が幸せに暮らせますように。
大地に叩きつけられるまでずっと、彼のことを考えていた。
意識が落ちるその瞬間までずっと、彼のことを考えていた。
わたしの物語が終わるまでずっと、彼のことを考えていた。
わたしという人間の成れの果てなら、彼を幸福な結末に導けると信じていた。
被疑者死亡の結末は、きっと彼を自由にしてくれる。