あかいろ3
数分後、漸く、出すもの出したせいか、志衣は落ち着いてきた。
落ち着いてくると、知らない人の前で泣いてしまったことに恥ずかしくなってきた。しかも周りにはぐちゃぐちゃの、たくさんのトイレットペーパーが落ちていた。
「…大丈夫?」
何度もそう問いかけては、心配そうに志衣を見つめる彼は本当にいい人だ。
―――――謝らなきゃ。せっかくジュースをもらって、その上、絵を褒めてもらったのに、いきなり勝手にキレて泣き出したんだもの。最悪だ、私。
志衣は最後にぐすっ、と鼻を啜ってから、恐る恐る彼に謝った。
「あの…すみませんでした」
「え、なにが?」
「いや、勝手に怒って勝手に泣いて…迷惑かけてすみません」
「い、いやいやいや!そんなの大丈夫だよ!むしろ、俺のほうこそ、何かいけないこと言っちゃったみたいで、ごめん」
彼は全く悪くないのに、律儀に謝ってくれた。
志衣は乱れる声を制しながら、
「いや、あなたは悪くないです。…一応この絵はこれで完成なんです。ただ、ちょっといろいろあって色をつけれないんです。」
やっぱりこれだけじゃ淋しいですよね、あははと無理やり笑いながら目を伏せた。
彼は、「ふーん…」と言ったきり、考え込むように黙ってしまった。
知り合いですらない、さっき会ったばかりの人に泣かれて、きっとめんどくさくなっただろうな。
(私だってそんな人いたら呆れるもの)
せっかく綺麗って言ってくれた人なのに、嫌な思いさせてしまった。色に過剰反応してしまう自分が本当に嫌いだ。もう諦めたはずなのに、みっともなく引きずって。
―――もう、どうしようもない。
どんどん落ち込んでいく気持ちをどうにかせき止め、彼女はこの後どう取り繕おうかと溜め息をついた。
「…それって色をつけたくないってこと?」
今まで黙っていた彼が突然話し出したから、志衣はまたしても驚いて、しどろもどろになってしまった。
「あ、いや、そうじゃないけど…」
「自分じゃできないってこと?」
「…まあ、そうです」
「じゃあ俺やろうか?」
あっけからんとそう言う彼は、笑っていた。
予想だにしていなかった言葉に、志衣は目を大きく見開いた。
本当に思ってもみなかったことを言われたから、瞬きも忘れて彼をじっと見つめた。
「、やる?」間抜けにも問い返してしまった。
「そう、俺が色塗ってあげるよ。がんばってはみ出さないようにするからさ」
彼はこの筆使っていい?と言いながら、机の上に立てかけてあった細筆を手に取り、そこらにあった適当なアクリル絵の具とパレットを持ってきた。
そんな彼の行動をただぼーっと見つめていたら、「ほらほら、どこに何色を塗る?早く言わないと俺が好きな色塗っちゃうよー」と笑いながら言われた。
「え、ちょ、ちょっとま、」
塗るって、これに?これに色をつけてくれるの?
「はやく」
「塗るって、」
「ほらーはやくー」
「じゃ、じゃあ、ここに…」
急かしてくる彼に、覚悟を決めて恐る恐る指をさしたのは、髪の上の簪の飾り。
「ここのまるのところ?何色にすんの?」
志衣はぎゅっと目を閉じて「あかいろ」と答えた。
「赤色ね、りょうかい!」
彼がごそごそと準備している音が耳に入ってくる。志衣はなぜかあの恐怖が湧き上がって、彼が塗るところを見たら駄目だと思った。目を硬く閉じたまま、じっとした。
どれくらい経っただろう。
背中に嫌な汗をかいているのがわかる。ツーっとシャツの下を汗が流れ、シャツと同化した。その感覚さえ落ち着かなくて、身体がそわそわしだした。
後どれくらいなんだろう。まだ塗ってないのかな、もう塗ってしまったらどうしよう。
静かに作業してるであろう彼から一切の物音が聞こえない。
志衣にはこの時間が永遠に思えた。
「はい、できたよ」
彼の言葉に、身体がビクッと反応した。志衣は一度目をぎゅっと強く閉じて、そしてゆっくりと目を開いた。
そこには眩いばかりの赤い簪をさした女性がいた。
――――まぶしい。
一目見て感じたことがそれだった。
数分前まではいつもどおりの私の画だったのに。
ただ一色入れただけ。それなのに、赤を入れるだけでこんなにも、
「き、「綺麗になったな!また一段と」
れい、と続けようとしたら、彼が楽しそうな顔で私にそう言った。
その顔は心から思っているようで、何の含みもない表情が目に入った瞬間、体中が震えた。
――――きれい。
その後すぐに志衣から湧き出たソレは、ずっと体の中に留まりそうな気がした。
――――――――
―――――
「いやーそれにしても上手いな、絵」
トイレットペーパーを巻き直しながら、彼はそう呟いた。
志衣は使いまくったぐしゃぐしゃのトイレットペーパーをゴミ箱に入れながら、「そんなことないよ。誰にでも描けるよ」と首を振った。
あれから数秒、馬鹿みたいに彼の表情を見ていたら、ちょうど部活動終了のチャイムが鳴り、はっと我に返って急いで片付けをしているところだ。
(それにしても、片付けをやらせてしまった…)
先ほど迷惑をかけてしまったことから、片付けは自分がやるから先に帰ってくれと言ったのだけど、二人でやったほうが早いと押し切られて、結局やらせてしまった。
すごくいい人だ。溜め息が出るほど。
「そういえばさーそこだけでよかったの?」
「…なにが?」
唐突に聞いてきて一体何のことだろうと思ったが、ん、と顎で示された先は志衣の絵。
それでも何を聞きたいのかよくわからなくて、問いかけるように彼を見た。
「だから、色だよ」
「ああ、」合点がいった。
「もっと塗らなくてよかったの?」
「うん、もうこれで充分」
志衣はもう一度絵を見た。相も変わらず、綺麗な簪をつけた女性。
本当にこれで満足だった。今までに感じたことのないくらい、満ち足りた気分だった。黒く描かれた女性の中で赤い簪が際立って、全く違った雰囲気を醸し出している。まるでこの人が現実でいるかのような絵に仕上がっていた。
彼のおかげで新しい世界が少しだけ覗けた。志衣ができなかったことをやってくれた彼には心から感謝してる。
「…本当にありがとう」
「なにが?」
「色を、つけてくれて」
「いやーそんなすごいことはしてないよ」
「とんでもない!すっごいよ!本当にすごい!」
彼は、目を輝かせてすごいと連発する志衣に若干照れた顔をした。それを隠すかのように、「また塗りたいとこがあったら言ってよ」と急いで言った。
「…ううん。もう大丈夫」
志衣はその優しい申し出を断った。
え、もういらないの?と問いかけてくる彼は少し驚いた様子だった。
(やっぱり優しいなあ…)
私はそんな彼に苦笑しながら、キャンパスを片付け始めた。
―――だって甘えたら、駄目になっちゃいそうだし。
まず、たかが色を塗るごときで何度もお願いしていたら、絶対に迷惑だろう。迷惑なんてかけたくない。それに、絶対依存してしまう。もしかしたら、彼なしでは絵が描けなくなってしまうかもしれない。そんなことになったら、とてもまずい。
そう思いながら志衣は、キャンパスを窓わきにたてかけた。そして机の上にあるパレットと筆に目を移した。いつも使っているパレットに、黒以外の色がのってる。黒を使い過ぎてもう色が染み付いている筆が今日は、赤い。
そんな些細なことがすごく嬉しくて、胸がじんわりとした。
唐突に、彼に聞いて欲しくなった。
これが、どれくらい久しぶりで、どのくらいすごいことなのかを。
そして、ものすごく感謝してることを。
――――聞いてほしい。
志衣は逸る気持ちが身体から溢れ出すのを感じながら、口を開いた。
end
本当は一つにまとめて投稿したかったんですけど、長いし雰囲気壊したくないしでやめました。
いろいろと稚拙なところがあったと思うのですが(全部稚拙なはず)、最後まで読んでくださった方がいましたら接吻をあげます。ありがとうございました。