闇
外では急な通り雨が、力強く地面を叩いていた。
それは少し遅れた夕立で――それはさながら“闇からの使者”のように――日が沈みきってからやってきた。
「……報告を……終わります…………っと」
誠は自室で、報告日誌を書き上げたところだった。
今年二十六歳になる誠はここでの仕事を退屈だと思っていたが、立派な屋敷に住むことができ、食事付き、給料も悪くなく、自分の時間もたくさん取れるので満足していた。初めて音々を――瞼の無い眼を見たときは、流石に全身が鳥肌に包まれたが、それにも半年もすればある程度慣れた。自分より前にいた医師による処置が良かったために、その眼と、部屋を出ることができないこと以外は健康そのものだったのだ。
誠はパソコンに打ち込んだ報告日誌を音々の父、忠に送信すると、その電源を消した。二つあるディスプレイの内一つが黒くなり、自分の顔が映る。誠は何の気なしに、右手で瞼に触れた。
もう片方のディスプレイに目をやると、音々の部屋の様子が見えた。画面右上に表示されたデジタル表示の時計によれば、午後九時二十三分。音々は眼を見開いたまま、組んだ手を胸にやって眠っていた。
(起きてる間、ずっとこの画面が部屋で光っているってのは、ちょっとな……)
誠は音々の境遇に同情しながらも、ずっとここにいるつもりはなかった。働いていた中規模の病院が倒産し、職をさまよった誠だったが、いつかはまたちゃんとした病院に戻るつもりでいたのだ。彼は転職のために、幾つかの病院のパンフレットを取り寄せていた。座卓に積まれたそれらを幾つか取ると、それらを眺めはじめた。
畳の上に胡座をかき、油断しきっていた誠の身体に、衝撃が走った。
それは一瞬の閃光と、間を空けず轟音、振動となって現れた。落雷である。
光と音は、ほぼ同時に炸裂した。つまり、すぐ近くで落ちたのだ。誠の心臓が、急に冷水の中に浸されたかのように縮み上がる。肩を震わせ、障子に目をやると、間を開けずに二発目が落ちた。
幾つもの正方形の光が誠の目に焼き付き、部屋が暗くなった後も残像として残った。とっさに音々がいる部屋が映るディスプレイに目をやると、それは暗くなっている。
停電――。誠は放心しながらも、事態を察した。
先ほどの二発目の雷を合図にしたかのように、雨が収まってゆくのが音でわかった。暗闇に包まれた部屋の中で、誠は動けずにいる。突然知らない空間に放り出されたかのような感覚を、味わっていた。
しばらくすると雨は止み、目が暗さに慣れた。周りにあるものの輪郭が、ぼんやりとしながらもわかる。障子は、薄い光を射していた。
それを開けると、空に月が出ていた。大きくて金色をした、天に開いた穴のような満月。
縁側に歩み出て、降雨後の濡れた緑の匂いを嗅いだ。その時、遠くから微かな音が聞こえてきた。
静まり返った庭は、何の音も発さない。山の中の、孤立した屋敷には人工的な光や音は、全く届かない。ましてや今は停電中である。遠くから聞こえてくる、この音は何なのだろう。山の生き物が発する声なのだろうか……この、叫び声のような――。
誠は自分の心臓が高鳴ってゆくのを感じていた。なぜ忘れていたのか――いや、考えないようにしようとしていたのだろうか。この暗闇の中、お嬢様は……音々はどうしているのだ――?
遠くから聞こえてくるもの、それは絶叫だった。おそらく、音々が発している。彼女は、外から開けなければあの部屋から出られないのだ――!
誠は走り出した。月の光のみが照らす、薄ぼんやりとした縁側を。闇の中にどつどつどつという誠の足音が大きく響く。だが遠くから聞こえてくる甲高い叫び声は、かき消されることがなかった。
先ほどまでこの屋敷を出ることを考えていた誠を今走らせているものは、彼女への“情”だった。こんな広い屋敷の中、狭い部屋に閉じこもって彼女はずっと一人ぼっちだった――! それが今は、おそらく彼女がこの世で一番恐れている“闇”に包み込まれている――! 私が駆けつけなければ……。彼女を部屋から助け出してあげなければ! 誠は息を荒げながら、必死に走った。
途中、他に住み込みで働いている使用人に出会った。誠はその使用人に電力会社に連絡をするようにと指示を出し、自分はお嬢様、音々の元へと向かうと言った。再び走り出したとき、月が厚い雲に隠れた。辺りは闇に包まれて、誠は必死で走っているのになかなか前に進めないという錯覚を味わった。それは、黒い夢の中にいるようだった。目を凝らして足元を見れば、濃いグレーの色をした縁側が見えるが、庭の方に目を向ければ、そこにはひたすらに広い闇があった。縁側が、切り立った崖のように思えてくる。そこから落ちれば、無限に落ちて行くような気がする。それはこの世界と別の世界の、境界線のようであった。
崖っぷちを全速力で走っているのような心持ちで、ようやく音々の部屋への通路に差し掛かった。ずっとこの暗さが続いていれば見落としてしまっていたかもしれないが、ちょうど再び月が姿を現した。通路があるその入り口は、暗闇の中では洞穴への入り口に見える。
誠は息を整え、深呼吸をすると通路の方へと向いた。先ほどまで聞こえていた野獣のような狂った叫び声は、今や小さくなっている。すすり泣いているような、怒っているような、それでいて笑っているような小さな呻きが、壁の向こうから聞こえてくる。誠はその通路へと、一歩を踏み出した。
陶器のようにつるつるとした四面の壁は、もちろん光を発しなかった。まるで死んでいるかのように、それともまるで最初から本物の陶器であったかのように、変化を見せない。
頼りない、はるか遠くの月の光を背中に感じながら、誠はゆっくり、一歩一歩、濃い闇へと――扉に近づいてゆく。
「……お嬢様!」
誠は大きな声で音々を呼んだ。その声を、彼女が聞いたことは一度もないというのに。彼は自分の心の中で膝をつき、挫けそうになりつつある“勇気”を、奮い立たせようとしたのだ。呼ばずにはいられなかったのだ。
誠は通路の先に潜む“闇”に、強い恐怖を感じていた。心の何処かにいるもう一人の自分が「逃げたい」と必死に叫んでいる。誠はそれを意識しながらも無視し、前へと進んだ。
(何もない……ただの暗がりだ。……“闇”をこわがるだなんて……子どもじゃあるまいし、馬鹿げている)
正面の扉まであと六歩……五歩……四歩…………三歩、といったところで、部屋の中で何かが動いた。
誠の耳を、辺りの静寂を、狂った咆哮が劈く。それは高く、長く続いた。扉を打ち壊すかの勢いで、中にいるものがそれを叩いた。何度も、何度も。その振動は誠の身体を震わせた。自分の心臓の音を聞いているかのように感じた。
叫びは徐々にか細くなり、ぷつんと切れるように止んだ。扉を叩く音も、全くしなくなった。誠は残りの二歩を思い切ったように駆け、扉に到達した。
手探りで数字のボタンを探し、パスワードを押す。しかし、扉は開かなかった。停電しているのだから、当然だった。
誠はそれに気づくと、その数字ボタンの『5』をむりやり爪で剥がした。そこに緊急時の、手動で扉を開けるための鍵穴があることを、前任者に教わっていたのだ。
腰に手を伸ばし、使うことはないだろうと思っていた鍵を穴に挿れる。九十度回すと、カチン、と小さな金属音が鳴った。
誠は立ち上がり、扉を両の掌で右方向にスライドさせた。開け切ると中から不快な湿気が――むせかえるような生臭い血の匂いを孕んで――辺りに霧散した。
扉を開けきった誠は荒い息を肩でしながら、その入り口で立ち尽くした。
その室内に広がっていたのは、黒より黒い黒。音々が言っていた、“闇”そのものだった。
(『“闇”は、いるの』)
誠はそれに睨まれたかのように、動けなくなった。それはまるでブラックホールのように全てを取り込む引力を持っていて、そこに立ち入れば、二度と戻って来られないように感じた。
(『見ているの』)
誠の動悸が激しくなった。一歩、また一歩、その部屋から後ずさる。お嬢様は――音々はもういない。あれに――“闇”に捉えられ、殺されてしまったのだ――‼︎ 誠は、確信に近いものを感じていた。
全身の感覚が薄れていく。強烈な血の匂いも、喉の奥で絡んだ痰の味も。
何の音もしない。鼓膜なんて無かったかのように。耳鳴りすらしない。
つるつる滑る床の感触も。私は今、ちゃんと立っているのだろうか――?
吸い取られているのだ。全ての感覚を。この“闇”に――‼︎
誠は絶叫した。全ての感覚が失われた時、第六感は覚醒し、心眼がそれを捉えた。
これまでに感じたことのない恐怖が彼の心と身体を支配し、脊髄反射的に、絶え間無く“まばたき”をしていた。
その時、誠の背後。はるか上空では――。
ゆっくり扉を閉めるかのように、月が雲に隠れた。