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  作者: 木下秋
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菅原音々の経験

 遠くでからすの鳴く、夕暮れ時。

 その鳴き声を聞くことのできない少女が一人。縁側にたたずんでいた。



     *



 彼女の名は、菅原音々といった。父親は親子三代に渡る大企業「SGIグループ」を束ねる社長、菅原忠で、彼は日本の経済界、政界にまでおよぶ力を持った人物だった。


 そして母親はというと、こちらもやはりとある企業を経営する社長の娘だった。父、菅原忠と母、菅原美代すがわらみよ――旧姓、田嶋美代――は、お見合いによって出会い、結婚した。それは誰の目から見ても明らかな、政略結婚であった。


 そして一年後、音々は二人の間に生まれた。その名は母である美代が、“生まれてくる子が明るく育ち、いつかその明るさを“音”のように響き渡らせて、他の人をも明るくできるような人になりますように”との願いを込めて、生まれて来る前に付けた名前だった。しかし皮肉にも、生まれてきた音々は、生まれつき耳の聞こえない子だった。


 母である美代は、ぶつけようのない罪悪感に囚われた。ただでさえ仕事で忙しく、家に居ることの少ない忠は、美代や音々の前には姿を見せなくなった。忠は、元々美代を愛してなどいなかったのだ。


 美代はそれに気づいていた。それでいて、どうすることもできなかった。ただ、音々を一人で、せめて密かに、幸せに育てたいと思った。忠の持つ財力により、住む家も、食事にも困らない。静かに、ただ穏やかに二人は毎日を生きた。その生活は、音々が九才になるまで続いた。



     *



 遠くに見える山間やまあいに、夕陽が沈んでゆく。空ではあかむらさきこんがお互いに染み込みあい、三層のコントラストを見せていた。


 音々の胸に、不安が募ってゆく。彼女は暗がりが、“闇”が怖かった。耳の聞こえない彼女にとって、“闇に包まれた世界”とは、何も無い、“死の世界”に等しかったのだ。


 さらに彼女は、闇そのものが生きていると思い込んでいた。闇とは太古の昔、人類が誕生するよりも前から生き続け、今も常に、そこに居る。そして私たち人間を、ずっと見ているのだと。


 縁側の下に放った足が暗闇に呑まれるような気がして、ひんやりしたものが全身を走った。音々は急いで立ち上がると、母の元へと走った。


 用を足しに行った母が、いつまで経っても帰ってこない。家の中に広がりつつある黒い闇に怯えながらも、音々は走った。家は広く、途中誰にも会わなかった。


 母の趣味である、洋風の寝室に入った時、それは見えた。いつも一緒に寝ている、大きなクイーンサイズのベッドの向こう側に、横たわる母の足元が見えたのだ。


 音々は自分の心臓の高鳴りを、また荒くなってゆく呼吸を、聞くことは無かった。ただ、振動として身体で感じていた。その足元に近づくたびに、それらは大きくなっていった。一歩、一歩。恐る恐る近づいてゆく。


(……どうしてお母さんはすぐ、帰ってこなかったの? ……どうしてベッドでなくて、床に寝ているの?)


 音々の頭を、様々な疑問がよぎる。


(……どうして、動かないの……?)


 母の全身が目に映った時、音々は小さく息を吸い、そのまま数秒呼吸が止まった。息を吐くことすらできない程の、強い衝撃があった。


 それは血にまみれ、大きく見開いた眼で天井を睨んだまま動かない、母の姿だった。腹部に黒い縦長の穴が空いており、そこから血液が泉のように溢れて出して、褐色かっしょくのカーペットにどすぐろみを作っていた。


 母は死んでいた。何ものかに殺されたのだ。誰に……? 自然と震える両手を口元に持ってきていた音々は、背後に近寄りつつある気配に気づき、勢い良く振り返った。


 長い廊下の向こう側から、闇が近づいていた。それはゆっくりと、音もなく獲物を捉える蛇のように。


 闇だ。闇が母を殺したのだ。音々は確信していた。闇はいつも私たちを見ていた。狙っていたのだ。殺すために。


 ――だが実際は違った。二十分ほど前、母、美代は寝室から聞こえてくる物音に気づき、室内に入った。そこには、ドレッサーの引き出しを物色している使用人がいた。使用人は若い女で、住み込みで働いている者だった。彼女が美代のドレッサーの中から金品を盗んでいるところを、目撃してしまったのだ。近づく美代に、取り乱した使用人は包丁を突きつけた。もしもの時のためにっておいた、また売れば高値になる和包丁。部屋の構図的に追い詰められた使用人は、美代を刺し、逃げた。それが事の真相だった。


 しかし、音々はそれを知らない。母を殺したのが若い使用人であることも、その使用人がすでにこの屋敷から逃げ去ったことも、母を殺したのが、闇ではないということも。


 徐々に日は暮れ、闇は濃くなっていった。音々は開け放った扉の近くに佇む闇に恐怖し、部屋の入り口にある電気を点けることができないでいた。しかし、このままでは自分も殺されてしまう。部屋を満たしつつある、闇に‼︎ 彼女は部屋に沈殿ちんでんする闇から逃れるようにドレッサーの上に登り、その鏡の周りに配置された電飾に気が付いた。これなら……! 音々は鏡の方を向き、カチリとスイッチを押した。


 部屋に、眩い光が射した。振り返り、照らされた部屋を見た。


 だが、まだ闇はあった! それは倒れた椅子の後ろに、扉の向こうに、ベッドの下に、母の亡骸の足元に、影となって。それはさながら、闇の分身体だった。それらがこちらを覗き込んでいる。強烈な光によって、濃い影が生まれてしまった。私は、逃げることができない――!


 また、音々はある現象に怯えていた。視界の明滅。それは、“まばたき”だった。


 それは一分間のうちに二十回ほど訪れる、刹那的せつなてきな、完全なる闇。この追い詰められた状況下で、それは容赦無く彼女を襲った。時が経てば経つほど、どうしようもないと思えば思うほど、胸の辺りの振動は早く、大きくなり、また“まばたき”の回数が増えた。


 音々の、か弱い少女の心を、じわじわと闇が追い詰め、侵食した。正気を、感覚を失いつつあった。耳が聞こえないだけでなく、部屋に充満した血の匂いも、口内に広がった鉄のような味も、両手に感じる鏡の冷たさでさえも。そして、眩いほどの電飾による光も、くすんでいくような気がした。


 それは、“死の世界”に落ちていくようであった。


 いくら目を見開こうと努力しても、焦れば焦るほど“まばたき”の回数は増してゆく。もはや今となっては、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、と、毎秒四回。“まばたき”をしていた。


 ふと、開け放たれて散らかされたドレッサーの引き出しに、キラリと光るものが見えた。それは、母が眉を整えるのに使っていた、先の小さなはさみだった。


 音々はそれを手に取ると、鏡の方に向いた。


 鏡に映った自分の背後に、忍び寄る闇が見える。


 音々は震える右手に鋏を持つと、顔を鏡に近づけて、まぶたにそれをてがった――。

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