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「アイツは……完璧すぎる。私に優しいし、外科医としても優れてる。でも私は違う。怒りっぽいし、他人と関わるの苦手だし、まだインターン」
自分で言ってて悲しくなるのか彼女の声は段々と覇気がなくなっていく。僕はそんな彼女の話を黙って聞いていた。
「一つくらいは、私の居場所も残しときたかったのよ」
前を向いたまま、彼女が呟いた。
黙って聞いてるけど、僕の心の中はずっしりと重い胆石が出来たみたいだ。ずっと片想いしてる相手に不安をぶちまけられて。その話を聞いてたら、彼女もデイヴィスが好きだから不安になってるのが分かる。
それで、僕は今彼女を慰めようとしている。
ずっと彼女を見てきた。デイヴィスが彼女と親しくなってからもだ。だから、デイヴィスがどれだけ彼女を想ってるのかも分かってしまっている。
まぁ、あれが分からないのは彼女くらいだろうけど。
ついでに言うと、僕の方が絶対彼女のことを好きだ。でも、彼女が好きなのはデイヴィス。
自分のお人好しぶりに拍手を送りたいよ。
「デイヴィスは、君の不安や性格や君自身を全部引っくるめて、自分がクレオの居場所になりたいんだと思うよ」
彼女を見下ろして言うと、彼女がゆっくりとこちらを向いた。またあの目を向けられてドキマギするけど、冷静を装って続ける。
「僕からしたら、デイヴィスが女性に一緒に住もうって言うだけで驚きだ。前に言ってたよね。『離れてばかりじゃ、近付くこともできなくなる』って。アレ、本気だったと思うんだ。クレオと離れたくないから、一緒に住みたいんでしょ。勇気出して、非常線解いてみたら? それとも、クレオはデイヴィスと離れたい?」
ここまで言っといて彼女が首を縦に振ることを期待する僕って……。
期待に反して、彼女は首を横に振った。つまり、デイヴィスと離れたくないってこと。
「それ、口に出してデイヴィスに言ってあげなよ。たぶんすっごい喜ぶから」
「嫌よ。アイツが調子に乗るじゃない」
さっきまで泣きそうだった彼女が、もうすっかり笑ってる。
それを見て僕は安心する。弱々しい彼女は見慣れていないから。
ああ、そうか。デイヴィスは弱々しい彼女も怒りっぽい彼女も、全部の彼女が好きなんだ。
デイヴィスは僕みたく朝の眠そうに、だけど期待に溢れて仕事に行く彼女だけを見てるわけじゃない。仕事で落ち込んでる彼女や、患者と接するのに四苦八苦してる彼女も見てるんだ。
彼女を好きな気持ちは負けないつもりだけど、好きになった彼女の表情は負けてるかもしれない。
僕は彼女が弱気になってしまうと、どうすればいいか分からなくなってしまう。
今さら、そんなことに気付いた。
「ジョーイ?」
「……え?」
彼女の声でハッとした。
どうやら彼女を見下ろしたままボーッと考え事をしてたみたいだ。医者らしく、いきなりボーッとなった僕を心配そうに彼女は見上げていた。
「大丈夫?」
「ああ、うん。平気」
「そう?」
彼女の言葉に頷いて、今度は僕から視線を外した。目の前の道路には車がどんどんと通り過ぎていく。
「医学生よね?」
「へ?」
いきなり質問されて、反射的にもう一度彼女を見下ろした。彼女は僕の方を見たままでいる。
「医学生よね?」
もう一度同じ質問をされて、コクコクと頷く。
「どこの大学?」
「えーと、コロンビア大学のメディカル・スクール」
「ワオ、コロンビア大? 凄いわね。何回生?」
「二回生。今学期が終わったら来期からはいよいよ実習」
実習が楽しみなのが顔に出たのか、彼女は僕を見て可笑しそうに笑い出す。僕はなんだか気恥ずかしくなって頬を指で掻いた。
「楽しみなのね。実習先は?」
「もちろんMGH。初めはERから。外科は後の方かも」
「ERも大変よ。休む暇もない」
知っているような口振りに首を傾げる。
「こっちに来る前はシカゴのERに三年間いたのよ」
僕の疑問を読み取った彼女が少し笑って言った。
「だから事故の時に治療できたんだ」
「まあね」
「何で専攻を変えたの?」
この質問には彼女は曖昧に首を傾げるだけだった。
「寒いわね」
そして、一言呟いた。ふいと、視線も外し道路へと目をやる。
僕はそれに頷き、彼女に倣って道路の方に身体を向ける。
冷たい空気が肌に染みて、手が冷たい。ちょっと耐えられなくなって、両手をズボンのポケットに入れた。
「どうするの? アパート」
他に話す話題もなくてアパートのことを持ち出す。
僕が聞くと彼女は黙ったまま、小さく溜め息をついた。
「わかんない。とりあえず、デイヴィスのところに行けそうになかったら今日はあっちに帰る。その後のことはその時に決める」
「そう……」
『行けそうになかったら』ってのは、今日デイヴィスがここに来なかったらってことだろう。ジョニーさんの店は二人の待ち合わせ場所だし。
「来るよ、きっと」
僕の言葉を慰めととったのか、彼女は「どうかな」とだけ言った。
「アイツ、怒ると無口になるし。私と話したくもないだろうし……」
「クレオ、」
ほら、やっぱり来た。
声のした方、僕と彼女の右手に目をやると、ショルダーカバンを肩から下げたデイヴィスがそこには立っていた。カバンを下げている方の左手はコートのポケットに入っている。
彼女は知らないんだ。デイヴィスがどれだけ彼女に惚れ込んでるか。ケンカしても会いたいくらいに。
彼女はちょっと驚いて、すまなそうにデイヴィスの方を見た。
着込んだコートのポケットに両手を入れたデイヴィスは、じっと彼女を見ている。
「すまなかった」
「え?」
彼女が何か言う前にデイヴィスが先に謝った。これには、彼女も僕もキョトンとなる。
「君がアパートを解約してなかったのは、俺と暮らすつもりがないからだと思った。いつかは元のアパートに帰るつもりだと。クレインに言われるまで、君が不安になっているのを考えもしなかった」
ゆっくりと僕と彼女が立っている方に歩み寄ってきて、静かにデイヴィスは話し続ける。僕も彼女も黙ってそれを聞くしかなかった。
「君が不安になるのも分かる。だが、これだけは言える。俺は君を不安にさせるようなことは絶対にしないし、絶対に言わない」
何だって恥ずかしげもなくこんなことが言えるんだ。僕が聞いていても、良い男っぷりを発揮するデイヴィスがなんだか腹立たしい。少しは躊躇してもいいものなのに。
デイヴィスを見ると、真剣そのものの表情をしている。
「明日……早く起こして」
「え?」
じっとデイヴィスの話を聞いていた彼女が、僅かにデイヴィスから顔を逸らし言った。いきなり話が飛んでデイヴィスはわけが分からないという顔をする。
ここまできても、僕は店の中に入ることが出来ずに彼女の横に立っていた。大体、彼女が言おうとしていることは分かる。
「明日、病院行く前にアパート解約しに行きたいから、早く起こして」
やっぱり、彼女もデイヴィスが好きなんだ。きっと、彼を愛してる。
彼女は憮然とした表情でデイヴィスを見ている。答えを待ってるみたい。
「……分かった」
デイヴィスが微笑んで頷いた。男の僕が見ても格好良いと思えるような笑みで。彼女もそれを聞くと小さく笑う。
どちらからともなく近付いて、デイヴィスは彼女の肩を抱き、彼女はデイヴィスの腰に腕を回した。
「じゃあね、ジョーイ」
二人並んで帰ろうとして、彼女が僕を振り返った。
「うん、また明日」
笑ってる彼女に僕も弱々しくだけど、笑って返事をして手を振った。
彼女も二、三回手を振り返してデイヴィスと二人並んで歩みを再開した。
「……クレオ、」
離れていく彼女の後ろ姿に堪り兼ねて、声を掛けた。彼女とデイヴィスの二人が振り返る。
「あの、僕が実習で外科に回ったら、担当になってる?」
僕の言葉に彼女は少し考えて、デイヴィスを見上げ、もう一度僕を見た。
「そうなるように努力する」
「そう……。じゃあ、お休み」
「お休み」
言い終わると、今度こそ彼女はデイヴィスと二人、彼のアパートへと帰っていった。僕は店に入ることもせず、二人の後ろ姿を見ていた。
「ジョーイ、お酒なら付き合うわよ」
後ろで店のドアが開いて、ウィスキーを持ったジョニーさんが顔を覗かせていた。僕はそれに頷いて、ゆっくりと店に入る。
店に入る前に、もう一度彼女の後ろ姿を見ようと振り返った。ちょうど、二人が横断歩道を渡り終えたところで信号が変わる。車道のトラックが発進して、二人の姿を隠してしまった。
「……ジョニーさん、僕、明日二日酔いになってるかも」
ジョニーさんにそう声を掛けて、店のドアを閉めた。
明日は学校も休んじゃおうか。