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ダイヤモンドになるために

 人は、傷つかないと大切なことに気がつかない生物なのかもしれない。

 私と俊雄は、お互いに傷つけあい、ようやくお互いがどれだけ相手のことを必要とし、大切な存在であるかを知ったのではないかと思う。

 その代償は痛いけれど、結果として私たちはようやく大切なものを手に入れようとしているのだ。

 大切な人を大切にすることは当たり前のことだと誰もが思っているかもしれない。だけど、大切にするということがどういうことなのか、そこまで具体的にわかっている人はこの地上にどれだけいることだろう。


 俊雄とめでたく結婚が決まり、私は退職することにした。もう倉持君と顔を合わせることもなくなる。妊娠こそしなかったが、倉持君からとんでもないものを送りつけられた。

 誕生日が過ぎてから数週間がたった頃、体に違和感を覚えた。疲れがたまっているのだろうと思ったけれど、俊雄との結婚が迫っていることもあり、早めに病院へ行ったのだ。すると、性感染症と診断されてしまった。

 記憶の糸をたどってみると、どう考えても、倉持君が感染源だとしか思えない。俊雄には隠すことなく、正直に性感染症にかかったことを話すと、これまで以上に倉持君のことを激怒していた。

 俊雄との具体的な結婚の日程が決まったわけではないが、早めに退社することとし、後任に引継ぎをはじめた。後任は他の部署から来た私よりも三歳若い女性だ。彼女とは、これまであまり話をすることがなかったのだが、同じ部署になり、話す機会は飛躍的に増えた。

 実際に、彼女と話をしてみるととても話しやすい印象を受けた。

 彼女は華があるけれど、高飛車な印象があった。近寄りがたいような存在だったのだが、本当の彼女は全く高飛車でもなんでもなく、気さくでとても楽しい人だった。

 私の話にもまじめに耳を傾けてくれ、引継ぎ期間が1ヶ月しかないことを恨んだ。もう少し、彼女と話をして、仲良くなりたいという気持ちが私の中に自然と出てきたのだった。

 その一方で、倉持君に抗議をしようとそのタイミングを見計らっていた。

 どうせもうすぐ顔を合わせることもなくなるのだから、その前に言いたいことを言ってしまおうと言うわけだ。

 ある晴れた日の昼休み。いつもなら後任の彼女と一緒にお昼を食べているのだが、彼女が株主総会に出席することとなり、珍しく一人でお昼を食べた。株主総会に出ている人が多く、社内には余り人がいない。自分の席で今朝買ってきた新発売されたサンドウィッチを食べ終えると、なんとなく屋上に上がってみることにした。

 廊下を歩く人の姿もほとんど見られない。今年は総務で残っている人といえば、私と倉持君くらいしかいない。他の部署もだいたい同じくらいの人しか残っていないようだ。

 屋上へと続く階段をのんびりとした気持ちで上った。人が少ないというだけで、いつもの緊張感が少しほぐれたような気がする。

 恭子も株主総会に出ると言っていた。同期で、今社内に残っている人は、私と倉持君だけだ。

 手すりにつかまり、腕に力を入れてゆっくりと一段一段上っていく。屋上につく頃には、軽く息が切れていた。

 階段を上りきり、息を切らしながら屋上の扉を開けると強い日差しが私の目に飛び込んできた。一瞬、目を瞑り、手で日を避けながら屋上を見渡すと、そこにはボーっと空を眺める倉持君がいた。

 屋上の手すりに肘をつき、器用に頬杖をついている。

「倉持君」

 低い声で倉持君を呼ぶと、倉持君は寝起きのような顔で私のほうを振り返った。

「お! どうしたんだよ。もしかして、婚約を破棄して俺と付き合おうって言うのか?」

 にやけた顔をして、倉持君が冗談とも本気とも取れるようなあやふやな表情で言った。

「何、寝ぼけた事言ってるのよ」

 呆れながら、倉持君の隣に立った。間隔を30センチ以上あけて。

「じゃあ、なんなんだよ」

「倉持君って、性感染症持ってない?」

「えっ・・・・・・。まさか・・・・・・」

 急に倉持君は、額に脂汗をかき始めた。

「そのまさかよ。病院に行って、びっくりしたんだから」

「・・・・・・ごめん」

 頬杖をつくのをやめると、倉持君は手すりに額を押し当てた。私は手すりに凭れて、腕を組み、倉持君の脂汗を見ていた。

「まさか、移るとは思ってなくてさ」

「移る以前に、倉持君って不特定多数のパートナーがいたの?」

 ゆっくりと顔をあげると、倉持君の額が赤く染まっていた。

「あぁ」

「呆れた。それでよくプロポーズが出来たものよ」

 強く掃き捨てると、倉持君は青ざめた表情で私のほうを向いた。すぐに私は、倉持君から視線をはずし、ぷいとむくれて見せた。

「まあ、怒って当然だよな。でも、まさか・・・・・・」

「もう何遍も同じ事を繰り返さないで。もう最低。言い訳ばっかりして。言い訳なんかよりも、反省して欲しいわ。自分が性感染症にかかっているのに、よく私にあんなことを・・・・・・」

 そこまで言うと、私はぐっと唇をかみしめた。

「ごめん」

 つぶやくように倉持君が言った。

 思い切りのけぞって、私は空を仰いだ。眩しい太陽の光に目を瞑りかけながらも、空の青を感じたかった。大きく息を吸うと、肩が大きく揺れた。そして、大きく息を吐いた。

 これは、決して謝ってすむような問題ではない。倉持君が何十回、何百回謝ったって、私の頭の中からあの日のことが消えることはない。

 私自身も、どうやってあの日のことを処理すれば良いのかわからないでいる。

「あの日、私が感じた恐怖は一生私の心の中に残り続ける。あの日からずっと、忘れようとしてきたけれど、出来なかったから」

 私のほうをじっと見ていた倉持君が、唇をかんだ。自分のしたことを悔いているようだ。

「謝ってすむような問題じゃないんだよな。まさか、春日さんがこんなにも悲しむとは思わなかったんだよ」

 これが、男と女の性に対する考え方の違いなのだろうか。

 近くの小学校から風に乗って児童たちの甲高い声が聞こえてきた。思い切りはしゃいでいる子供たちの声。あの日以来、私ははしゃぐことが出来なくなっている。子供たちのように公園を飛び回って走ることが出来たらと思うと、悔しさがこみ上げてきた。

「悲しんだのは、私だけじゃない。フィアンセだってそうよ」

 風に溶けるように言った。

「・・・・・・」

 無言になった倉持君は、暗い表情でビルの下を覗き込んだ。

「フィアンセって、あの日、ラブホから出てきた男だろ?」

 倉持君もまた、風に溶けるように言った。

「そうだけど」

「フィアンセって言ったって、浮気してたわけだろ? 春日さんは、それを受け止めたって言うのか?」

「えぇ。受け止めたわ」

 一瞬にして鋭い表情で、倉持君が私をまっすぐに見つめた。砕けたガラスの破片のように、鋭い眼光を向けられ、私は武者震いした。

「良いのか? 本当に、受け止めてよかったのか?」

「今更、倉持君に何を言われたって、私の気持ちは変わらないわ」

 今度は、私が鋭く倉持君の瞳を射抜いた。根負けしたのか、倉持君は納得とも落胆とも取れるような表情をすると、苦笑した。

「完敗だな」

 自分を嘲笑う倉持君を私は隣でじっと見つめた。風に揺られる倉持君の髪が、一層悲しさを増して見せているように感じた。

「それじゃ、先に下に行ってるから」

「あぁ」

 倉持君の小さな返事を聞くと、私は一歩一歩確かめるように屋上のコンクリートの上を歩いた。


 もう言いたいことは言った。

 後数日もたてば、私はここからいなくなる。そして、俊雄の家へと引っ越すのだ。私はこれから、夢に描いた幸せを築いていく。


 退社の日は、あいさつ回りだけで終わった。お世話になった人々へお礼を言って、雑誌で紹介されたこともある店の焼き菓子を渡して。

 すでに、私がやっていた仕事は全て後任の彼女がやっている。もう私に質問することすらないようだ。朝、「今日で終わりだから、聞きたいことがあったら何でも聞いて」と言ったのだが、彼女は黙々と自分の仕事をしていた。

 もうここに思い残すことはない。

 彼女のテキパキと作業をこなす姿を見ては、しみじみと思った。

 定時になると、総務部の人間だけの歓送迎会が行われた。さすがに酒浸りになることはなく、適量をたしなむ程度にしておいた。

 もうすぐ終わる。

 私の会社生活は、幕を閉じようとしている。

 よく行く居酒屋での歓送迎会は、予約していた二時間がたつと終わった。もう一軒という声も聞かれたが、主役である私がここで帰るというと、みんなで帰ることになった。

 ぞろぞろと総務部の人間が駅まで歩く。この顔ぶれで、こうして並んで歩くのもこれで最後だ。

 同僚たちと別れ、私は俊雄と待ち合わせしていたある駅に向かった。一人、電車のドア越しに夜空を見ると星はほとんど見られなかった。月さえ隠れている。電車内には座る場所はなく、数人がつり革につかまったり、私と同じようにドアに凭れたりしている。

 目的の駅に着くと、まばらに降りた人たちとともに改札へと向かった。改札の外にはすでに俊雄が待っていた。私に気付くと、俊雄は薄く笑みを浮かべこちらをじっと見つめた。

「待った?」

 改札を出て俊雄の前に行くと、俊雄に言った。俊雄は首を軽く左右に振った。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 強い意志が感じられる俊雄の顔。そして、俊雄は私の手を握り、私を力強くエスコートしてくれた。

「ねぇ、俊雄」

 駅から数メートルほど離れたところで、ふと気になっていることを思い出した。

「どうした?」

 俊雄は岩のように強い表情を崩すことなく返事をした。

「浮気相手は、どうなったの?」

 精神的に不安定になるような質問だったのに、つないでいる俊雄の手はピクリとも動くことはなかった。

「とっくに終わってるよ。今ごろ違う男でも作ってるんじゃないか」

 淡々と話しながらも、つないだ手からは動揺が感じられなかった。

 高校生のときから、俊雄が嘘をつけないことはわかっていた。

「違う男って・・・・・・結婚してる人でしょ?」

「そうだよ。でも、あの人は浮気を繰り返すんじゃないかな。俺と不倫したけれど、相手は俺じゃなくてもよかったみたいなことを言われたからさ」

 ぎゅっと手を強く握ってきた。別れ際に浮気相手に何かを言われたのだろう。俊雄の横顔は、人を威嚇するかのような顔で怒っていた。

 夜風が涼やかに私たちの間を通り抜ける。

 人の少ない夜道をしっかりと手を握って歩く。たまに電灯に照らされて。

「大丈夫か」

 しばらく黙って歩いていると、突然、俊雄が心配そうな声で言った。

「うん、大丈夫だよ」

 口ではそう言っては見たが、心は震えていた。私の心を察したのか、俊雄は手を離すとその手を私の肩に回してきた。温かい俊雄の腕に抱かれて、星空の下を歩き続けた。

「大丈夫。俺が守ってやるから」

 こちらを見ずに、照れくさそうに俊雄が言った。俊雄らしい素振りに、雲の上に乗っているような心地よさを感じた。

 駅から数分歩いたところで、ようやく目的地にたどり着いた。そこは、警察署だ。

 私は俊雄と一緒に、被害届を出すことにしたのだった。倉持君とのことは私以上に俊雄の方がかなり怒っている。

 私が誕生日の夜のことを話してから、しきりに被害届を出したがっていた。私が退社した後に被害届を出そうと言い、今日、出すことに決めたのだった。

 被害届を出すとは倉持君に一言も言わなかった。突然、こんなことになったら倉持君はどれだけ驚くことだろう。

 何も言わなかった私は、卑怯者だろうか? いいや、こんなことをした倉持君の方がずっと悪いのだから、気にしなくていいだろう。

 大きく息を一つ吸うと、俊雄と一緒に警察署に入った。

お疲れ様でした。

迷いながら書いた作品です。

もしよかったら、感想等を聞かせていただければと思います。


現在、コンテストに応募するために手直しをしています。もしかしたら、結末を変えるかも?と思いつつ、またも迷いながら手直し中です。

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