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強がらない心

 次の日、私は俊雄の家に行った。昨日の夜、あんな気まずい別れ方をしたけれど、俊雄との関係を戻したい一心で、藁をも掴む思いでいた。

 俊雄のマンションは私の住んでいるマンションと同じ沿線にある。時間に直しても三十分とかからないだろう。おととし、私の弟が結婚し、両親と同居することになり、逃げるように私は実家を出た。本当は、俊雄に「一緒に暮らそう」だとか「結婚しよう」だとか言う言葉を言って欲しかった。しかし、それらしい言葉を何も言わず、私は一人暮らしを選択した。

 せめて俊雄と同じ沿線で暮らしたいと思い、今のマンションに決めたのだった。

 俊雄の部屋は、相変わらず綺麗に整っている。雑誌が床に散乱するようなことはなく、マガジンラックに種類別に本が並んで置かれ、テーブルはいつ来ても全く同じ場所に置かれている。

 私を中に通すと、俊雄は顔色一つ変えず、冷蔵庫からお茶を出してくれた。

 何から話せばいいのだろう。

 正面に俊雄が座り、この部屋に沈黙が走った。

 俊雄がお茶をすする音が響く中、何を話せばいいのか迷い続けている。俊雄は、私とは目を合わせようとしてくれない。

「ねぇ」

「ん?」

 窓の外を見ながら、俊雄は気のない返事をした。

――もう駄目かもしれない

 最悪な出来事が、私の脳裏に浮かんだ。

「昨日、女性と一緒にいたけど、あの人は誰なの?」

「・・・・・・」

 あぐらを組み、俊雄は窓の外を眺めるだけだった。

「私の誕生日もあの人と一緒にいたの?」

 墓穴を掘るような質問。しかし、沈黙に耐えられなくて思わず口をついて出てしまった。

「あぁ」

 やはり、俊雄は私の誕生日を他の女性とすごしていたのだ。なぜ、俊雄はそんな行動をとったのだろう。

「あの人のことが、好きなの?」

 すると、俊雄がこちらに体を向け、真剣な表情で私の顔を見た。

「あの人は、俺の元上司だ。彼女は結婚して子供もいる」

「ってことは、不倫じゃないの」

「そうだな。千里は気がついていたかもしれないけれど、俺はまだ結婚したいと思っていないんだ。でも、千里は結婚したそうな感じがした。それで、彼女に相談したんだ。そうしたら、何時の間にかああいうことになって・・・・・・」

 耳を塞ぎたくなった。私の結婚願望が俊雄のプレッシャーとなっていた。そして、その結果、不倫してしまったのだ。

「彼女とは、今後、どうするつもりよ」

「いずれ、別れなくてはならないって思っているよ。それより、千里の方はどうなんだ? 昨日、男と一緒にいたけど。あの男が、確か『一度も二度も同じ』だとか言ってたじゃないか。それは、どういうことなんだよ」

 半分開き直った表情で、俊雄が反撃を開始した。

 俊雄に嘘はつきたくない。私は、正直に誕生日の夜のことを話した。

「私は望んでなんていなかった。彼が一方的にしたことよ」

 暗い影が私たちを飲み込んだ。俊雄は俯いたまま、何も話さない。しかし、その肩はかすかに揺れているように感じた。

「何か・・・・・・言ってよ」

 俊雄に何か言って欲しい。黙って私の話を聞くだけじゃなく、何か私に話して欲しい。

 窓の外に視線を向けながら、俊雄は口元に手をやった。困ったときは、いつも口元に手をやるのが俊雄のくせだ。今、私にどんな言葉をかけようか迷っているのだろう。

「ごめんな」

 俊雄の謝罪をどんな意味で受け取ったらいいのか、よく理解できなかった。

 私が俊雄の顔をじっと見つめていると、

「あの日、俺と会っていたら、こんなことにはならなかったんだろ?」

 横目で俊雄が私の方を見たので、小さく頷いた。

「辛かったか?」

 俊雄がこちらを向いて、心配そうな顔で聞いた。

「あの時、お酒を飲みすぎていなければって今でも思う。体さえ動いていれば、彼を拒むことは出来たから」

 あの夜のことを思い出し、私は俊雄から目をそらした。

 あの日から、私は誕生日の夜のことを何度も忘れようとしてきた。だけど、忘れることが出来ずにいる。あれだけ体が自由に動かせなかったというのに、どうして頭ははっきりしていたのだろう。ろれつだって回っていなかったのに、記憶ははっきりしている。

 嫌だった。同僚としか思っていない倉持君の行為が、憎たらしい。しかし、自分にも責任はあった。俊雄と会えない事を理由に飲みすぎたのは自分の責任だ。

 顔をあげると、私をまっすぐに見つめる俊雄の顔があった。何か言いたそうな唇。もごもごと動きそうで、なかなか動かない。

「俊雄?」

「俺は情けない男だな。プレッシャーから解放されようと浮気して、その上、千里を傷つけてしまったんだからさ。本当に、情けないよ」

 俊雄の肩が、がたがたと震え出した。涙をこらえているのか、唇を強くかみしめている。

「私の方こそ、プレッシャーを与えすぎてしまったようね。一方的になりすぎたのよ」

 強く唇をかみしめたまま、俊雄は首を大きく横に振った。

「俊雄の気持ちも考えないで、自分の気持ちだけを俊雄に押し付けていた。俊雄は、まだ結婚したくなかったんでしょう?」

 俊雄は、一つ息を飲むと口を開いた。

「確かに、まだ結婚したいと思っていなかったよ。千里とはこのままの関係を続けていきたいって思っていたんだ。このまま、千里とずっと一緒にいられたら、それでいいって。そう思っていたのに、どうして浮気なんてしたんだろうな」

 最後の方は、涙声になっていた。

 今、俊雄は強い後悔の念に押しつぶされそうになっている。私との心のすれ違いから、お互いが傷つけ合ってしまったのだ。

 もう何もなかった時には、戻れない。忘れたくても全てを忘れることも出来ない。

「私たち、これからどうなるのかな?」

 つぶやくように言った。俊雄は、黙ったままだ。下を向いて、涙をこらえ続けている。

「ねぇ、覚えてる? 俊雄が、私に告白してくれたときのことを」

 今まで生きてきた中で、一番嬉しかった瞬間のことを私は思い出していた。俊雄と付き合い始めた瞬間のことを。

「あぁ、覚えてるよ」

 潤んだ声で、俊雄が言った。

「初めてのデートの時だったな。絶対に、千里と付き合いたいと思って、あの時は必死だったよ。もしも断られたらって思ったりもしたけどさ。勇気を出して、告白してよかったよ」

 うっすらと笑顔を浮かべながら、俊雄はあの日のことを思い返して私に話してくれた。

「告白のときは、心臓が止まりそうなほど緊張したよ。だけど、千里がOKしてくれた途端に、全身の力が抜けていったんだ。あのときの感触はいまだに残っているよ。千里とずっと一緒にいられて、本当によかったよ。これから先も、ずっと千里と一緒にいられるっておごりが、今の俺のどこかにあったんだろう」

 また、俊雄は真剣な顔をした。

 私に告白してくれたときのことが聞けて、嬉しかった。私も俊雄に告白されたときは、死ぬほど緊張していた。だから、返事も中途半端な感じになったんだっけ。

 まさか、私がOKした瞬間に俊雄の体の力が抜けていたとは。そんなに嬉しかったんだ。私の返事に、そこまで喜んでいてくれたんだ。

「あのときの気持ちを忘れていなかったら、浮気なんてしてなかったのに。どうかしてたよ、俺」

「もっと早く、こうして正直にお互いの気持ちを話す機会を作っておけばよかったね」

 そう、もっと早くお互いの気持ちをしっかりと聞くべきだったんだ。自分の気持ちをぶつけていれば、ここまでお互いに傷つけあうことはなかったのかもしれない。もしかしたら、今ごろ私たちは夫婦になっていたかもしれないんだ。

「私たち、これからどうなるのかな?」

 ぽつりと口に出した。

 俊雄が浮気をしていたことは、とても大きなショックだ。だけど、俊雄を失うことはそれ以上のショックに違いない。まだ、俊雄の心までは離れていない。これだけお互いが傷ついているということは、お互いを想っている証拠だ。

 なかなか口を開かない俊雄。俯いてばかりいる。私の心を察しようとしているのか、私が望んでいると思う応えを探しているのか。もし後者だとしたら、絶対に別れを切り出して欲しくはない。

――私は、ずっと俊雄と一緒にいたい!

 心の中で叫んでみる。お願い、俊雄。私の望む応えを言って。

 ゆっくりと顔をあげて、私の顔を見る。私の望む答えを表情から読み取ろうとしているようだ。

「千里・・・・・・。お前は、どうしたいんだ?」

 俊雄には、自分で判断して欲しかった。私たちの未来像を俊雄に語って欲しかったのに、私に答えを求めてきた。私の表情からは、応えを読み取ることが出来なかったのだろうか。何年も付き合っているというのに、どうして読み取ってくれなかったのだろう。なぜ、私に応えを求めたのだろう。

「私は、俊雄の気持ちが知りたい。俊雄は、どうしたいの?」

「俺は・・・・・・俺は・・・・・・」

 なかなか応えたがらない俊雄。俊雄の性格はわかってる。俊雄は、決して黙って俺についてこいとは言わない。二人で肩を並べて歩いていこうとするタイプなのだ。

 そうとわかっているけれど、今回ばかりは自分で応えを導き出して欲しい。私たちの人生のことなのだから。

「浮気をした俺が、お前の人生を決めることなんて出来ないよ。俺は、千里の望むことをしたいだけだ」

 俊雄らしい応え。

 網戸から、冷ややかな空気が入り、私たちに涼しい空気を与えてくれた。

 目の前に置かれたお茶の入ったグラスは、水滴だらけになっている。水滴が落ちないように、手皿を作ってお茶を飲んだ。大きな水滴が、私の左手に数滴垂れた。それらはとても冷たかった。テーブルに置いてあるティッシュを一枚取ると、手を拭いてゴミ箱に捨てた。

 俊雄は、黙って私の行動を一部始終見ていた。

 大事な決断を私に一任し、今か今かと私の望んでいる応えが話されることを待っているようだ。

「俊雄の望む未来図を私に見せて欲しかったのに」

 正直な気持ちが、私の口からこぼれた。

「・・・・・・」

 俊雄は、口を閉ざした。

 これは、ひょっとすると私たちの未来図を俊雄は描いていなかったということなのではないだろうか。

 例えそうだとしたら・・・・・・。苛立ちを覚えながらも、お茶をもう一口飲んで、冷静に考えてみることにした。

 ここで意地を張って、けんかをふっかければ、きっと私たちは終わってしまう。今の俊雄は、全て私の言うとおりになりかねない。こんなに心細そうな俊雄は見たことがない。今にも泡となって消えてしまいそうな俊雄に、強い言葉は禁物だ。

 だとしたら、私は自分の気持ちを素直に伝えればいい。私の素直な心を俊雄にぶつけよう。

「私が望んでいることは、俊雄が浮気をしたって変わらない。私は、ずっと、ずっと・・・・・・」

 勢いに任せて言ってしまおうと思ったのに、突然、冷静な心が私の口の邪魔をした。

 続きを俊雄に言って欲しい。

 しかし、それは無理なようだ。俊雄は、息を飲んで私をじっと見つめるだけ。たまにお茶を飲んでは、ずっと私の顔を見ている。

 どうして、気付いてくれないんだろう。もう私の言いたいことはわかっているはずなのに。見てないで、続きを言って欲しいのに。

「千里?」

 黙りこんだからだろう、俊雄が怪訝な顔で私に言った。

 続きを言わなかったら、私たちはどうなってしまうか。最悪な展開すら考えられる。このまま、俊雄との関係を終わらせたくはない。

 早く続きを言わなくちゃと思うのに、言葉がのどに詰まって出てきてくれない。

「俺が浮気をしたことを怒っているんじゃないのか?」

 肩身を狭くしながら、俊雄が言った。

 俊雄の浮気は、とてもショックだったし、怒っていないとは言えない。だけど、それ以上に俊雄が私の傍からいなくなるのが怖い。

 口を硬く閉ざし、私は首を数回横に振った。

 また、俊雄が俯いた。何か考えたのか、自分の言うべき言葉が見つかったからか、俊雄は顔をあげると私の瞳をじっと見つめた。

「千里が別れたくないと言うのなら、このまま付き合い続けようか?」

 とっさに私は頷いた。これで、俊雄と別れずに済む。

「そっか」

 和らいだ表情で、俊雄はそう言うと座りなおしてあぐらをかいた。

「なぁ、千里」

 優しい声だった。俊雄の優しい声に、私の瞳にたまっていた涙が大粒の涙となって零れ落ちた。急いで手で拭うと、テーブルの上に置いてあるティッシュの箱を俊雄が渡してくれた。一枚だけティッシュを取ると、強く目に押し当てた。

「今、言うことじゃないかもしれないけどさ。千里は、こんな俺でも結婚したいと思うか?」

 一瞬、心臓が止まったような気がした。目を大きく開いて、俊雄の顔を見ると真剣な表情で私をじっと見ていた。

 これって、プロポーズと言ってもいいのだろうか。私は、プロポーズと思いたい。

 涙を拭いたティッシュを丸めてゴミ箱に捨てると、大きく一つ深呼吸をした。

「うん。俊雄が浮気したことはとても辛かったけど、私には俊雄が必要だと思うから」

「お前の気持ちは、変わらなかったんだな」

 その台詞を俊雄はどんな気持ちで言ったのだろう。あきれているのか、喜んでいるのか。

「俊雄にとって、私は必要?」

「・・・・・・あぁ」

 私とは目を合わせず、頬を赤らめながら俊雄は言った。

 愛らしい俊雄のしぐさに、母性本能がくすぐられた。

「昨日、知らない男と千里が一緒にいるところを見て、正直、すごくショックだったんだよ。だけど、俺だって人のことは言えないなと思った。俺だって、勝手な事をしているんだって。そして、千里が俺から離れてどこか遠くへ行ってしまうような気がしたんだ。昨日は一晩中、お前のことばかりを考えていたよ。このまま千里が遠くへ行ってしまって良いのかってね。これからも、千里には俺の傍にいて欲しいって結論が出たんだよ」

 かなり照れくさそうに、もじもじしながら俊雄が言った。

 ありがたいとさえ思った俊雄の気持ち。私を必要だと言ってくれたことが、嬉しくて体の芯がふつふつと熱くなってきた。


 夕方になると、俊雄と手をつないで夕暮れの町を歩いた。真っ赤な太陽が、私たちの顔を赤く染め上げた。本当に太陽が私たちの顔を赤く染め上げたかどうかはわからない。

 久しぶりに俊雄と手をつなぎ、俊雄の体温を受け取った。手をつなぎながらも、俊雄は照れくさそうにし、私とはあまり目を合わせようとはしなかった。私も久しぶりのことで、あまり俊雄の方を見なかった。

 駅に着くと、私たちの手が離れた。また、つなぐ日が来るとわかっているのに、もっともっとと私の手が俊雄の手を欲していた。

 駅の券売機で俊雄に切符の値段はいくらだとか言われながら切符を買い、券売機から離れた。

「値段なら、わかってたのに」

 俊雄の家に行くときに払った分と同じ分の切符を買えばいいのだから、俊雄に言われなくても私はいくらの切符を買えばいいのかがわかっていた。

「親切に教えてあげたんだから、良いじゃないか」

 口を尖らせながら、子供のような口調で俊雄が言った。

 これから先、子供のような表情をする俊雄を私は何回見ることになるのだろう。何回、俊雄は私の手を握ってくれるのだろう。

 夕焼けを浴びながら、改札口の脇で俊雄の顔を見た。切符を両手で包み込むように持って。

「これから、少し忙しくなるな」

 私は、小さく頷いた。

 忙しくなったってかまわない。幸せへ向かうための準備なのだから。決して辛いことではない。きっと心地いい忙しさに日々を追われることになるのだろう。

「じゃあ、行くね」

「あぁ」

 そろそろ電車に乗ろうと改札口へ向かおうと歩き始めると、俊雄がもう一度私の手を握った。私も軽く握り返すと、お互いの瞳をじっと見つめた。名残惜しむように手を離すと、切符を自動改札機に通し、改札の中へと入った。

 数歩進み、振り返ると先ほどまで私たちがいた場所に俊雄はいた。そして、穏やかな笑顔で私に手をふってくれていた。

「気をつけてな」

 うんと一つ頷いて、私はプラットホームへと続く階段を上った。

 こんなにすがすがしい気持ちで、俊雄と一緒にいられるのはいつぶりだろう。結婚にこだわり、お互いの心が分裂していた近頃では、考えられない光景だ。

 最寄り駅の階段近くの場所に立ち、電車を待った。真っ赤な太陽は、俊雄の家を出たときよりも低い位置にいた。

 電車は五分もしないでプラットホームへと流れ込んだ。電車に乗ると、車内は少し混雑しており、私は開いていないドアの前に立ち、俊雄の住む町をじっくりと見ることにした。


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