誕生日会の悲劇
一人で迎えた誕生日の朝は、ひどく晴れていた。目がさめるとベッドから起き上がり、自分の部屋のカーテンを開けると、抜けるような青空が私の瞳を刺した。痛いくらいに強い光。痛いのは瞳だけではなく、心もそうだ。
すぐに支度を整え、軽い朝食――昨日の夜に作っておいた豆腐の味噌汁とご飯――を済ませ、満員電車へと向かった。マンションを出ると先ほどと同じく、強い太陽の光が私を出迎えた。まったく嬉しくない三十歳の誕生日を祝ってくれているのだろうか。
「誕生日おめでとう」
先に会社にきていた同僚の倉持重行が向かいの席から挨拶した。だるい声で、
「おはよう。覚えてたんだね」
とだけ言い、自分の席についた。
パソコンの電源を入れながら、俊雄のいない誕生日をどうやって乗り越えようか考えていた。いまだに俊雄が今日、会ってくれる様な気がしてならない。定時が過ぎる頃に電話がかかってきて、「これから会おうよ」と、呑気な声で言ってくれるような気がするのだ。俊雄のことだから、私を驚かせようとして、今日は会えないと言ったと考えることだって出来る。そうだよねって、自分に言い聞かせていると、パソコンが起動した。
メールのチェックを真っ先に行った。今日が私の誕生日だと知っている人は社内に多く、新着メールは二桁になっていた。二桁と言うのは特に異常なことではないのだが、今日のメールはいつもと違ってプライベートなメールがとても多い。
誕生日おめでとう!いくつになったの?
ハッピーバースデイ!
等など、いろいろなメールが届いていた。
みんながこれだけ祝福してくれるのは、毎年、自分の誕生日を回りに言いふらしていたからだろう。今日、誕生日だと言っても何も言わない人もいたけれど、大抵の人は「おめでとう」と言い、誕生日祝いに食事に行こうと誘われたこともあった。もちろん、食事は断った。俊雄が最優先だからだ。俊雄だって、私の誕生日を最優先してくれていた。
だから、今日も他社で働いている恋人と食事に行くのだろうと、誰もが思っているらしく、昨日まで誰からも食事の誘いをしてこなかった。私自身、昨日まで今日は俊雄と食事をすると当たり前のように思っていた。
メールのチェックを念入りに行っていると、向かいの席から、
「俺のメール、見た?」
「え、まだ見てないよ」
まだ、倉持君からのメールは見ていなかった。他の人のメールを見ていたのだが、倉持君から話し掛けられたので、急いで倉持君のメールを見ることにした。
誕生日、おめでとう!
今日も彼氏とデートかな?
うらやましいなぁ。
早く自分のメールを見て欲しがっていたわりには、あっさりとした内容だ。
「見たよ、メール」
一通り倉持君からのメールを読み終わると、倉持君に話し掛けた。
「あ、見た? 今日も彼氏と食事でしょう? いいよなぁ。幸せな人は」
すぐに、「今日は彼氏と会わない」と言ってもよかったのだが、周りには他の社員もいるので、声に出して言うのはやめた。
「毎年、誕生日に恋人と会えるなんて、うらやましいねぇ」
隣の席の古株の江副さんが、腕を組み、目を細めた。みんな、昨年までの誕生日に、私が浮かれて彼氏とデートするんだと言っていたことを覚えているようだ。皮肉にも、皆、過去の私の誕生日を覚えているとは。
倉持君には、正直に今日の予定を知らせることにした。
今日は、彼氏と会えないんだ・・・
一人ぼっちの寂しい誕生日だよ
メールを送ると、すぐに倉持君が読んだらしく、パソコンの画面を見ていたと思ったら、すぐに頭を上げてメールの内容を確かめるように私の顔を見た。毎年、誕生日は彼氏と一緒だと言っていた人間が、違うと言ったことに驚いているようだ。昨日の夜、私が一番驚いたけれど。
じゃあ、同期のみんなで誕生日パーティーでもしようよ!
作業をしようとパソコンを見ていると、倉持君からの返事がきていた。同期のみんなと・・・・・・か。それもいいかもしれない。他のみんなが来てくれるといいけれど。
私と倉持君は、同じ総務。同期は他に二人いるけれど、二人とも開発だ。開発の二人はいつも忙しいらしく、今日、私の誕生日パーティーに来てくれないのではないか。
もしかしたら、倉持君と二人きりだとか、中止するかもしれない。しばらく自分の作業をしていると、倉持君からメールがきた。開発の一人は無理だと断られたが、一人は行けると連絡があったそうだ。
私と倉持君は、定時で会社を出た。もう一人の誕生日会の参加者である氷室恭子は、途中から参加するので、会社の近所で倉持君と二人で飲むことにした。なぜ、飲むか・・・・・・私がそういう気分だからだ。俊雄が誕生日を祝ってくれない現実を受け入れられないからだ。どこに行きたいかと倉持君に尋ねられて、居酒屋で飲もうと私が提案したのだった。
駅近くの雑居ビルの地下にある店に入った。以前、同期の四人で来たことがあり、ここなら恭子も場所がわかるので、二人で決めた。窓のない店内は、どこか艶かしく感じる。オレンジ色の間接照明に照らされた木目のテーブルが、温かさと艶かしさの両方を演出している。
四人がけのテーブルに案内され、私と倉持君は向かい合って座った。壁を照らす間接照明の光が、かすかに倉持君の顔を撫でている。普段、社内で見る倉持君とは別人のように見える。
「恭子、早く来てくれるといいんだけどね」
ため息混じりにそう言った。メニューを私に見せようと倉持君がテーブルの端にあるメニューを私に渡そうとしたが、適当に倉持君に選んで欲しいと頼んだ。今は、食べたいものが頭に浮かんでこないのだ。仕方がないと口には出さなかったけれど、倉持君は一つ肩で息をすると、メニューを開いて目を忙しく動かし続けた。
店員が水を出し、「ご注文は?」と私たちに問うてきた。倉持君がメニューを店員に見せながら次々と注文していく。飲み物のところで、私に「何が飲みたい?」と聞いてきた。私は躊躇なく「梅酒サワー」と応えた。
注文を終えると、倉持君は私に向き直った。
「誕生日、おめでとう」
それは、心の底から言っているように思えた。目をランランに輝かせ、背筋を伸ばし、しっかりとはっきりとした口調で私に力強く言ったのだ。
本当は、素直に喜んでいいのか迷っている。もう二十代ではないのだ。ずっと二十代と言い続けたかった気持ちが残っており、今日を受け入れたくない気持ちでいっぱいなのだ。しかし、倉持君の純粋な心を傷つけるのも悪いので、
「ありがとう」
と心からの返事をした。
しばらくすると、注文した料理でテーブルが埋め尽くされた。倉持君の目の前に枝豆が置かれ、私の目の前にモズク酢が置かれた。他にも揚げだし豆腐や肉じゃがなんかが並んでいる。
今日と言う日を忘れるかのごとく、私は料理を食べ始めた。モズク酢を一気に食べ、揚げだし豆腐をハフハフ言いながら食べた。
目の前で、私の様子を見ていた倉持君が「まあまあ」と制してくれたのだが、そんなことはお構いなしに、今度は梅酒サワーを一気に飲み干した。半分呆れ顔で倉持君が、もう一杯梅酒サワーを頼んでくれた。
手を動かしながらも頭の中では、今ごろ俊雄はどこで何をしているのだろうか? そればかりを考えていた。私の記念すべき節目の誕生日を祝わないで、どういうつもりなのだろう。本当に忙しいのかもしれないけれど、時間が遅くなってもいいから一目、今日だけはどうしても会いたかったのに。
アツアツの肉じゃがを口に入れ、熱さと寂しさとで目に涙がたまった。すぐに気がついて、倉持君がテーブルの上に備え付けの紙ナプキンを一枚取って、渡してくれた。
「春日さんらしくないな。ゆっくり楽しみながら食べようよ」
そうだよね。心の中でつぶやいてみた。今日は、私の誕生日なのだから楽しんで食事をするべきだろう。だけど、頭が体がそれを拒んでいる。苦しむ心を癒すために、私は忙しく食べ続けてしまった。そして、いつも以上にピッチを上げて飲んでいる。俊雄のことを考えると、手が、口が止まらない。
「恭子、まだかしらね」
冷静を装うかのように、言った。
「今、忙しいみたいだから、まだじゃないかな?」
倉持君の言葉を飲み込むように、梅酒サワーをまたも飲み干した。今日は、何杯お酒を飲むことになるのだろう。
どんどんお酒を飲み、どんどん注文した。恭子が来る前に、酔いつぶれてしまうだろう。それでも言い。今日は、とことん飲みたい気分なのだ。酒の肴を食べ、お酒を飲む。それの繰り返しの合間に倉持君に愚痴をぶつける。嫌な酔っ払いそのものになりきっている。
「好い加減にしろって。大分、酔ってるんじゃないのか?」
何杯目だろう。私がお酒を注文しようとすると、倉持君が制した。
「良いじゃない。今日は、私の誕生日なのよ? 好きなだけ飲ませてよ」
そう言って、私は倉持君の制止を振り切った。倉持君は青ざめた顔をしている。本当は、倉持君の言うとおりで、もうこれ以上飲まない方がいい。酒の肴だって段々つままなくなってきている。愚痴を言いながら、お酒を飲むの繰り返しだ。
「おまたせ!」
ようやく恭子が店に到着した。申し訳なさそうに、テーブルとテーブルの間をすり抜けて私たちのいるテーブルに着くと、
「ごめん! 遅くなって」
慌てて言うと、空いている私の隣の席に座った。いそいそと荷物を降ろし、落ち着かない様子でメニューから飲み物を探し始めた。恭子が隣で自分の酒を探していてもお構いなしに、私はジントニックを飲み続けていた。
すでに、酔っ払いと化していることに気がついていた。自分の視点が定まっていないのに、自然とグラスを口元に動かしている。目の前にいる倉持君は私の状況に気がついているようだ。さっきからずっと私を心配そうに見続けている。
恭子が自分の飲み物を注文した。そこで、ようやく恭子も私の異変に気がついたようだ。
「ちょっと、飲みすぎじゃない? 目が据わってるよ」
目が? その言葉を聞いて、自分が思っている以上に酔いが回っていることを認識した。
「そう? ちょっとトイレに行ってくる」
トイレに行くと言うことは、立ち上がって自分の体の状態を知ることが出来る。今の私の体がどれだけ私の脳の言うことを聞くのかを試したかった。ゆっくりとテーブルに手をかけて椅子をひき、立ち上がってみた。それほどふらついたりもせず、これならまだまだ飲めるだろう。次に、ゆっくりと左足を動かしてみる。そして、右足も。椅子から離れたところで、体が思った以上に言うことを聞いていないことを自覚した。まっすぐに歩いていない。少し蛇行しながらも他の客のいるテーブルに接触することなく無事にトイレに到着した。
トイレには、誰もいなかった。用を足して、洗面台の前に悠然と立った。手を洗いながら鏡に映る自分の顔を見てみると、頬を真っ赤に染めた自分が写っていた。トイレの薄暗い照明でも頬が赤くなっていることは充分にわかる。特に頬骨のあたりがりんごのように赤くなっていた。手を洗い終わり、備え付けのジェットタオルで手を乾かすと、もう一度、鏡の前に立った。そして、右手で右の頬を触ってみる。体がぽかぽかしていたけれど、顔もかなり温かくなっていた。水で手を洗ったので、手が頬をさわった瞬間、その冷たさがとても心地よく感じられた。酔いを覚ますまでではなかったが、適度なクールダウンが出来た。
そろそろウーロン茶に切り替えた方がいいのかもしれない。いくらなんでも自分の節目の誕生日だからって、少々飲みすぎだろう。明日は平日なのだから。二人に迷惑がかかる前に、そうしよう。
トイレから戻り、すぐ近くにいる店員を呼ぶとウーロン茶を頼んだ。
「千里、倉持君から聞いたわよ。さっきから、飲んでばかりいたそうじゃない。大丈夫なの?」
自分でも大丈夫なのかどうか、よくはわからない。俊雄と一緒の誕生日だったらと思うと、すぐにお酒に手が伸びてしまうのだ。トイレに行き、クールダウン出来たので、これからはお酒は控えようと思えるようになった。
「もう大丈夫よ。心配しないで」
先ほど注文したウーロン茶が目の前に置かれると、すぐに半分くらい飲んだ。
同僚三人で祝う誕生会だって良いじゃないと自分に言い聞かせ、倉持君と恭子と楽しむことに専念することにした。
ウーロン茶を飲みながら、三人で他愛もない話に花を咲かせていると、いちゃいちゃしたカップルが店内に入ってきた。二人は腕を組み、女性が男性にもたれかかるように歩いている。二人ともにやけた顔をして、私たちの向かい側の席に座った。席に着いてからも二人は見つめあい、手を握ったりしている。そのカップルを見ていたら、だんだんと怒りのようなものが込み上げてきた。
「すみません、ビールの中ジョッキ一つ」
ウーロン茶を一気に飲み干すと、すぐ近くにいた店員に注文した。すると、正面の倉持君が血相を変えた顔で、
「もうやめたほうがいいって!」
と訴えたが、私はその言葉に耳を貸すことなく注文した。倉持君の言いたいことはわかってる。だけど、今日は私の誕生日だ。そう開き直ると、もう私を誰も止めることなんて出来ない。
「千里ったら、大丈夫なの?」
恭子の言葉も右から左へと流れていくだけだった。
相変わらず、向かい側のカップルのいちゃいちゃぶりが視界に入り、私はその度にビールを一口、また一口と飲むのだった。悪い女性客そのものと言わんとばかりに、ビールを続けざまに注文しては飲むの繰り返し。
「どうして、俊雄はデートを断ったのかなぁ。今日が私の誕生日だって知ってるのよ。毎年、誕生日にデートしてるのに、どうして今年は断ったのよ」
「彼氏だって忙しいんだから。仕方がないじゃない。今年は、私たちがお祝いしているんだからさ」
恭子が私の愚痴を聞いては、泣いている子供をなだめるように私に語りかけてくれた。
「本当は、浮気でもしてるんじゃない?」
酔った勢いで俊雄を疑うような言葉が口からこぼれた。
「まさか。毎年、必ずお祝いしてくれていたんだから、それはないんじゃないかな?」
同じことを繰り返し愚痴っているにもかかわらず、倉持君は同じ言葉ではあるが、俊雄を擁護することを言ってくれた。
私だって、俊雄を信じたいよ。信じたいけれど、いつもの年と違う誕生日にさせた俊雄をどうやって信じたらいいのかわからない。信じたいのに信じられないと思うと、ついついお酒に逃げてしまうのだ。
今日は、何杯ビールを飲んだことだろう。他のお酒を入れたらかなり飲んだのではないかと思う。
明日があると言うことで、十一時を過ぎたところでお開きにすることになった。帰り支度をしようとしたのだが、体が言うことを聞いてくれなくなっていた。自分のかばんを拾い上げようとしているのに、うまくいかない。
「ほら、もう自分のかばんも取れなくなってるの?」
呆れ顔で恭子が私のかばんを取ってくれた。流石に、今日は飲みすぎたようだ。家に帰ってすぐに寝よう。この分だと、明日は二日酔い決定だな。
立ち上がろうとすると、やはり上手く立ち上がることが出来なくなっていた。足に力が入らず、テーブルにしがみつかないと、立っていられない。隣にいる恭子が帰り支度を済ませると、私の肩を持って店の外へと連れて行ってくれた。お会計は倉持君がその間に済ませてくれた。
「千里、一人で帰れる?」
「うぅん・・・・・・」
しゃべることすらままならなくなっていた。
倉持君と恭子が私をどうするか話し始めた。恭子が連れて帰ってあげたいが家が反対方向で、自分が家に帰れなくなってしまうと言うこと。倉持君の家は私の家と同じ沿線にあり、かなり近くに住んでいるということで、倉持君が私を連れて帰ることになった。
今度は倉持君の肩を借りて、駅まで三人で行くと、恭子とはそこで別れた。
「春日さん、大丈夫?」
「・・・・・・」
倉持君が問い掛けても、私は何もしゃべらなかった。それでも、たまに倉持君は私に話し掛けてくれた。私の最寄り駅につくと、無意識にいつも通っている道を歩き始めた。ふらつく私の体を倉持君が支えてくれ、たまに塀に体をぶつけながらも橋を渡り、商店街を抜け、寂しい路地裏にある私のマンションに到着した。玄関の前で、かばんの中から鍵を取り出そうとするがなかなか出てこないので、業を煮やして倉持君が私のかばんを取り、すぐに鍵を取り出すとあっさりと玄関を開けてしまった。千鳥足の私の靴を脱がせ、私の肩を担いでベッドに寝かせてもらった。倉持君がいるというのに、私はベッドに大の字になった。
「鍵、枕元に置いておきますよ」
「・・・・・・」
耳では倉持君の言葉を聞いているのだが、酔いが回っていて口が動かなかった。服を着たままベッドの上で大の字のまま眠りに入ろうとしていると、倉持君が私の上に馬乗りになりキスをしてきた。
心臓が止まりそうなくらいに驚き、ただでさえ体が上手く動かないのに金縛りにかかったように私の体は硬直した。そして、そのまま倉持君に抱かれてしまった。
次の日の朝、倉持君が同じ服で出勤するわけにいかないと言い、朝早く自宅に帰った。
一人、家に残り、二日酔いでひどい頭痛がする中、昨日の夜のことをベッドの中で思い返してみた。居酒屋では見るに耐えかねるような酔っ払いと化し、倉持君に家まで送ってもらって。あんなにぐだぐだに酔っていたのに、完璧に昨日の夜のことを思い出せる。酔っていたとは言え、自暴自棄になっていたとは言え、倉持君とあんなことをすべきではなかったと、強い後悔に縛り付けられた。
一体、倉持君はどんな思いで私を抱いたのだろう。そして、これからどうやって俊雄と接し、倉持君と接していけばいいのだろう。