バースデイ前夜
明日、私は三十歳になる。三十路に突入するとも言う。
小さいころは、あんなに年が一つ増えることを喜んでいたのに、今ではすっかり喜べなくなっている。特に、今日がそうだ。いつまでも二十代でいたい。だけど、後一つ朝を迎える頃には、もう三十代になっているのだ。
いつからだろう。時が過ぎることが残酷に思えるようになったのは。
すでに、肌の方は荒れたりたれたりしてきていている。ついこの間まで、ろくに手入れをしなくてもつるつるの肌だったはずなのに、今では念入りに手入れをしてもなかなかこのたるみはなくなってはくれない。
せめて見た目くらいは二十代でいたい。と、思っているけれど、なかなかそうはさせてはもらえないらしい。二十代最後の夜、風呂上りの鏡に映る私の顔は、目の下にクマがあり、口元がたるんでいる。両手を頬に当て、たるみを軽く上げてみる。五秒くらいそのままにして、すっと手を離すと頬はすとんと元の位置に戻った。
深くため息を一つつくと、化粧水をたっぷり掌に載せて、顔中に塗りたくった。水分をたっぷりと肌に与えて、何とかこのたるみを無くすのだ。
化粧水をたっぷりと塗り、その後、美容液を丁寧に顔中に塗った。これで、顔の手入れは終了。休みの日や、時間に余裕があるときには、パックもするのだが、今日はとてもそういう気分にはなれなかった。
あるはずのものがないのだ。
明日は、私の誕生日だと言うのに、高校生から付き合っている彼氏:金塚俊雄からは、電話がかかってこない。こんな大事なときに、どうして・・・・・・。
時計に目をやると、午後十時を過ぎる頃だった。ドレッサーから離れて、テーブルに置いた携帯を見る。着信はなかった。
一人暮らしの我が家は、テレビをつけたり音楽をかけなければしんと静まり返っている。電話がかかってくれば、必ず気がつくはず。気がつかないとすれば、トイレかお風呂に入っているときだけだ。
今日は、どうしたんだろう・・・・・・。
心細い心に押しつぶされそうだ。台所で軽く手を洗い、冷蔵庫から作り置きのお茶を出して、グラスに注いだ。こじんまりとしたリビングテーブルの上に置いてある携帯をうらめしそうに見つめながら、いつも座っている椅子に腰掛けた。
と同時に、ようやく携帯が鳴った。一口お茶を口に含みながら携帯に出た。
「あ、もしもし。俊雄? 今日はどうしたのよ。遅かったじゃない」
俊雄に見えるはずがないのに、なぜか口を尖らせた。
「悪い悪い、今日は残業だったんだよ。怒ってるのか?」
電話越しであるが、俊雄の表情が目に浮かんできた。口では「悪い」と言っているけれど、決して悪いと思っていないだろう。
「怒るわよ。今日は、何の日だかわかっているの?」
「誕生日前夜・・・・・・だろ?」
返答は、すぐにあった。私の誕生日はちゃんと覚えているのだ。付き合いが長いのだから、当たり前かもしれない。だけど、連絡が遅かったので今年は忘れてしまったのではと思い込んでいた。
「覚えてたんじゃない。で、明日はどうするの? どこで会う?」
毎年、誕生日は会うことにしている。昨年は、私が行きたがっていたお好み焼き屋で食事をした。お互いが頼んだお好み焼きを焼きあいっこしたりして、楽しい誕生日だった。
「今年は・・・・・・、悪い。明日はどうしても無理そうなんだ」
む、無理って、明日は記念すべき――嫌な節目ではあるけれど――私の誕生日なのよ。
気がつくと、私はテーブルの上で空いている右手を強く握っていた。まるで、俊雄が目の前にいるかのように、今すぐにでもパンチをお見舞いしようとしているようだった。
「無理って、どういうことよ! 毎年、誕生日は絶対に会おうって約束したじゃない!」
「でも、明日は無理なんだよ。どうしても抜けられない用事が出来たんだ」
強く握っていた右手から力が抜けた。力が抜けたのは右手だけではなく、全身だった。
誰もいないリビングテーブルの向こう側を目を丸くして見つめた。そこには、さっきまでいたドレッサーがあった。
「そんな・・・・・・」
力のない声を吐いていた。
「本当にごめんな。次の休みの日にでもプレゼントを渡すから」
ようやく優しい俊雄の声になった。隣で私の頭を優しく撫でるような声。
必ず明日会えると信じていたのに、今年の誕生日は俊雄に会えないんだ。
電話を切ると、携帯をテーブルの上に置き、今にも椅子から落ちてしまいそうなほどに項垂れた。深いため息をつくと、俊雄の顔を思い浮かべた。
はっきりとした二重で、女性のように柔らかい髪。 今でも覚えている。俊雄と最初に会った日のことを。
俊雄と出逢ったのは、高校二年のときだった。同じクラスになり、初めてお互いの存在を知ったのだ。クラス替えがなければ、私たちは出会うことはなかっただろう。
高校二年の最初の登校日に、昇降口横の壁に貼ってあるクラス替え発表の張り紙を見ても、俊雄の名前がそこにあったかどうか、いまだに覚えてはいない。そのときは、まったく「金塚俊雄」と言う人間を知らなかったのだ。
教室に入り、自分の席につくと、隣の席から視線を感じた。それは、俊雄の視線だった。強く視線を感じ、私はそちらを向いた。そこには、頬杖をついた俊雄がいた。
「おはよう」
話し掛けたのは、俊雄の方だった。
まさか、男子から挨拶されると思っていなかった私はあたふたしながら返事をするのがやっとだった。
そして、俊雄と言う男子が馴れ馴れしい奴だと私の頭にインプットされた。
後で俊雄から聞いた話によると、俊夫は私に一目惚れしたらしい。健康的ではない肌の白さに、心がときめいたとか。健康的ではないという言葉が余計ではあったが、俊雄に一目惚れされたことは私という女性を一目で認められたと言う自信につながった。
それまで、あまり女性として扱われていなかった私は、男子とも友達として付き合うことしかなかった。しかし、俊雄は違った。私と俊雄は、一番後ろの席だった。なぜか、最初の国語の時間に先生が全員に配るためのプリントを職員室に忘れたと言い、「かのつく人」が取りに行かされることになった。
俊雄の苗字は「金塚」、私の名前は春日千里。他にかのつく人は、私たちのクラスにはいなかった。国語の先生の名前が「神田」ってだけで、私たちがプリントを取りに行かされたことに、私はいらついていた。
二人で一緒に三つも下の階の職員室に行きながら、
「なんで私たちが、わざわざこんなことをしなくちゃならないのよ!」
授業中で、誰もいない階段で私の怒号が響いた。すぐに、俊雄が「シーッ」と言ったので、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「いいじゃん。取りに行く間、授業を堂々とさぼれるんだから」
俊雄は、嬉しそうにそう言った。確かに、言われてみればそうだ。その言葉を聞くまで、火山が今にも噴火しそうなくらいに怒りがたまっていたが、すっとその怒りがひいていった。
ゆっくりと階段を下り、職員室で神田先生の机の上に置いてあるプリントを私が持っていこうとすると、
「俺が持っていくよ」
そう言って、俊雄がプリントを全部持ってくれた。
今でも覚えている。国語のプリントは、全部で三種類あった。だから、私は自分が一種類持って、俊雄が二種類持てばいいと考えていた。しかし、俊雄が全部持ってくれた。このとき、初めて男性に女性として扱われた気がした。
教室に戻るまでの道のりは、心が弾んでいた。初めて、女性として扱われた喜びでスキップを踏みたいくらいだった。しかも、隣には私を女性として扱ってくれた俊雄がいる。
プリントを持ちづらそうな俊雄に何度か「少し持つよ」と言ったのだが、「平気だって」と言って、俊雄はプリントを全部持っていってくれた。
階段を上るとき、俊雄の男らしい横顔に胸がときめいた。サラサラの女性のような髪に隠れた優しい瞳。プリントを持つがっしりとした男らしい手。そのギャップに気がつき、私はドキドキしていた。
あれが、俊雄に恋に落ちた瞬間だった。
告白は、俊雄からだった。ゴールデン・ウイークのいつでもいいから一緒にどこかに行こうと誘われた。
それまで、デートをしたことがなかった私は、どう返事をしていいのか困惑した。軽く「いいよ」と言えばよかったのかもしれないが、こんな経験は生まれて初めてで、しかも、ゴールデン・ウイークは空いている日のほうが多かったので、余計にいつがいいとかいろいろと考えすぎてしまったのかもしれない。
どきまぎしながら、
「うん、いいよ」
と、蚊の鳴くような声で返事をしたのは、今でも恥ずかしい記憶として私の頭に焼きついている。
同じ班で階段掃除をしているときのことだった。私と俊雄は、他の班の人たちから少し離れたところで掃除をしていたので、そういう話が出来たのだろう。
その日の帰りは、初めて俊雄と一緒に帰った。そして、遊びに行くためのつめの交渉が行われた。その日は、私の所属していた茶道部の活動はなく、俊雄の所属していた映画同好会も活動のない日だった。
ゴールデン・ウイークは、俊雄の見たい映画を見ることが決定し、デートは4月29日に決まった。今思えば、デートをすると決まった時点ですでに出来上がっていたような気がする。しかし、あの時はデートしたときに告白されるのだろうか? 何て事を考えたりしていた。
デート当日は、朝から緊張していた。休日だと言うのに、午前5時くらいに目がさめてしまった。いくらなんでも興奮しすぎだと、枕元に置いてあるデジタル時計を見て、自分自身にあきれたほどだ。もう一度、布団にもぐり、その日は気持ちよく二度寝した。
次に起きたのは、母にたたき起こされた。目覚し時計をセットしたのに、全然起きる気配がなかったらしく、母が私を起こしてくれたそうだ。
余裕を持って目覚し時計をセットしていたので、別に問題はなかった。デート当日なのだから、余裕を持って行動できるようにしておこうと前日の夜にイメージトレーニングをしていたのだった。
緊張していたけれど、朝食はいつも以上に食べたと思う。普段は、ご飯と味噌汁を軽く食べる程度なのだが、その日はおかずもしっかり食べた。そのときに思ったのが、私はストレスで食べてしまう人なのだということだ。決して、私は拒食症にはならないのではないかとさえ思った。
待ち合わせのターミナル駅までは、一人で行った。家を出た瞬間から、私の体は緊張に包まれた。俊雄とは、学校で二人きりになったことがあったのに、なぜだろう、学校の外で二人きりで会うと思うと鉄のように体が硬直してしまいそうなほどに緊張してしまうのだった。
家から駅までの道のりは、遠いようで近かった。十分程度歩くのだが、その日に限っては五分も歩いていないような感覚だった。歩きながら、もしも会話が続かなくなったら? だとか、気まずい雰囲気になったら? だとか、嫌なことばかりを想像していたのだった。
待ち合わせ場所につくと、休日と言うこともあってか人でいっぱいだった。しかし、俊雄はすぐに見つかった。正確に言うと、俊雄が私をすぐに見つけてくれたのだった。笑顔で手をふり、私に近寄ってきた俊雄。知っている顔を見た瞬間に、緊張の糸は自然とほぐれてくれた。
それからすぐに、俊雄が見たいと言う映画を上映している劇場へ行き、チケットを買った後に長い列に並んだ。テレビでも何度も取り上げられるほどの大人気映画で、カップルも多数列に並んでいるようだった。私たちは、階段の途中に並んでいた。私は、ひんやりとした手すりに寄りかかって長蛇の列を他人事のように物珍しそうに見ていた。
「すごい人だね」
俊雄は、あまり沈黙を作らないように気を使っていたように思う。私の視線の先を予想しているのか、私が興味を持っているようなことばかりを口にしていた。
「うん。どこまで並んでいるのかと思って下を見たんだけど、列の最後尾が見えないんだ」
デートだと言うのに、茶色いパンツをはいてきた私は、階段から身を乗り出して、列の最後尾を探していた。
列が動き出すと、微妙な距離を保ったまま、私たちは移動した。手をつなぐでもなく、視線を合わせることもなく。
さすがに、隣同士に座ったが、座ってからもお互いにまともに目を合わせたりすることはなかった。そして、その微妙な雰囲気のまま映画は始まってしまった。
大型巨編の洋画だった。悲しいラヴ・ストーリーで、最後の方で私は涙を流してしまった。泣くポイントはいくつかあったのだが、私は泣かないようにとずっと我慢していた。だけど、最後の泣くポイントでは我慢が出来なかった。それまで溜め込んでいた涙を全部流すかのように、私の目からは次から次へと涙があふれ出て、頬を伝った。急いで膝に置いてあるかばんからハンカチを取り出そうとすると、俊雄がポケットからハンカチを取り出して、私に差し出してくれた。真っ白いハンカチだった。素直に受け取り、俊雄のハンカチで涙を拭った。
映画が終わり、劇場近くの喫茶店にでも行こうと思ったのだが、どこも混んでいて空いてなかった。せっかくのデートなのだから、もう少し俊雄と一緒にいたい。仕方なく、喫茶店は諦めて、繁華街を抜けたところにある公園へ行った。休日だからだろう、公園にはカップルや友達同士といった人たちが数人いた。
空いているベンチに十数センチほど間隔をあけて座った。最初は、映画の話題で盛り上がった。
「ハンカチは、洗って返すよ」
私はそう言ったのだが、俊雄は、
「いいよ」
といって、私が手に持っていた白いハンカチをパッと取り、自分のポケットに乱暴に仕舞った。取り出したときは、丁寧に折りたたんであったのに。
そこから急にムードは一変した。私と俊雄の間に、今までに感じたことのない空気が流れる。異性が、目の前にいる。
俊雄は、俯いていた。その横顔を私はじっと見つめていた。俊雄の頬は、少し赤くなっていた。何かを言いたげな唇。今にも動きそうなのに、なかなか動かない。何を言いたいのか、もしかしたら、期待していたことだろうかと、いろいろなことを私は想像した。
数分後のことだったと思う。ようやく、俊雄の唇がはっきりと動き出した。
「あのさぁ・・・・・・。俺と、付き合わないか?」
まったくこちらを向かなかったのは、俊雄にとって一世一代の告白と言う感じだったのだろう。俊雄の頬は、より一層赤くなりりんごのような頬になっていた。サラサラの前髪が邪魔して、俊雄の目は見ることが出来なかったが、唇がかすかに震えていたのは覚えている。
俊雄から告白されたら、OKするんだと思っていた私だが、さて、どうやって返事をしたらいいのだろうか。返事の仕方までは考えていなかった。
「う、うん・・・・・・」
物を飲み込むような声で返事をした。俊雄がこちらを見ていないのはわかっているのに、なぜか頷いて。
胸の前で両手を握り締めて、俊雄がこちらを見るのを待った。私が返事をすると、俊雄は一つ唾を飲み込んで、ようやく私の顔を見た。こわばった表情で私の顔を俊雄はじっと見つめた。そして、にっこりと口角をぎゅっと上げて笑い出した。
そのときから、私と俊雄はずっと付き合っている。毎年、お互いの誕生日は一緒にいようと決め、実際にそうしていた。
なのに、今年は一緒にいられない。節目の年なのに。私の方が2ヶ月お姉さんで、2ヵ月後には俊雄だって節目の年を迎えると言うのに。
今年は、絶対に一緒にいたかった。そして、高校生のときの告白のときのように甘酸っぱい気持ちで俊雄からのプロポーズを期待していたのに。十年以上付き合っているんだ。そろそろ、言ってくれてもいいだろうと期待していたのに。
目の前に置かれている冷えたお茶を一気に飲み干した。お茶は冷えたまま、私ののど元を通り過ぎていった。一瞬身震いし、明日は俊雄と一緒ではないと自覚した。