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五つ目の鉢:春風と物語 2


 五つの鉢植えを咲かせる仕事が終わったら、もうあの花屋には戻れないのだろうか。

 ――“最後になるね、ピエリス”

 ソルさんの言葉。僕は自己嫌悪に唇を噛む。

 けれど、終わらせたくないと思う一方で、目の前の彼女を悲しませたくないとも思う。彼女は僕のもやもやとした気分も知らないみたいに、ただにこにこと笑っているばかり。底抜けに明るい笑顔は、見る者の気持ちもちょっぴり穏やかにさせる。まるで……

「ピエリス」

「は、はい!」

「わたし、本を読みたいの」

「本……どんな、ですか」

「なんでも」

 にこにこ、にこにこ。

「なんでもいいのよ、読んだことのない本であれば。だから、」

 だから。

「あなたが書いて」

「…………へ?」

 このひとは何を考えているんだろう。文句ではなく、純粋に疑問。

 本を書く。僕にできる精一杯と言ったって、いくらなんでも……。

「あなたの話を教えて欲しいの。それはあなただけの物語になる」

「僕、上手な文章は書けないかもしれません」

「いいじゃない、楽しければ」

 ……聞いてくれない。

「教えて」

 ふわりと風が吹いた。華やかな笑顔。金色と薄桃が景色を満たす錯覚に、僕は眩しくて目を細める。体の奥底、眠っていた生命が揺り起こされるような、優しい目覚めの合図。このひとはまるで……

「ああ……!」

 知らないうちに声が漏れた。物語を綴る。僕が、僕だけの物語――宝物を。

 書こう。このひとのためだけじゃない、僕自身のために。色とりどりの思い出を忘れないように。



 それから僕は二階の書斎を借りて執筆に取り掛かった。

 朝も昼も夜も。寝食も忘れて……というかそもそも必要もないのだけれど、とにかくペンを握りしめて机にかじり付いた。

 何度も書き直した。でも手は止まらない。むしろ書きたいことが多過ぎて、腕の痛みが焦れったくはあれど、心地いいくらい。次々と溢れてくるのは鮮明な思い出、不思議な花屋と五つの鉢の物語。


 よく晴れた日の夕暮れ時だった。暖かな橙色の光の中、ふらふらと疲労に覚束ない足取りで階段を降りていくと、彼女は初めて話をした時と同じように椅子に座り、同じように紅茶を飲んでいた。

 僕は紙の束をテーブルに静かに置き、そして……彼女の名前を呼んだ。

(ベール)さん」

 ゆっくりと顔を上げた彼女は相変わらずにこにこしている。返事はなくても確信はあった。

「出来ました」

「ありがとう」

 嬉しい。良かった、喜んでくれて。でも鈴の音が聞こえることはない。

 彼女は原稿に手をつけることはせず、代わりにすっと手のひらで向こうを示して言った。

「あなたにお客さんよ」

 お客さん?

 僕がドアの方向に首を向けると、そこには。

「お疲れ様なのだわ、ピエリス」

「ルナさん?!」

 妖精のルナさんが空中で、おどけた仕草でちょこんとお辞儀。彼女も嬉しそうに笑っている。

「どうしてここに? お店を離れられないんじゃ、」

「あたしそのものは店に残したままなのだわ。ここにいるのは、あたしの意識のようなもの」

 忙しなく薄羽を動かして、ルナさんは僕の前へと飛んでくる。言いたいことがたくさんあった気がして、実際その通りなのだけど、喉でつっかえて何も言えない僕。

「よく頑張ったわ、ピエリス。あたしが褒めてあげるのだわ」

 これはお別れの予感だ。ベールさんに会う前よりももっと迫るもの。

「はじめはソル、おわりはルナ」

 待って、僕には、まだ言いたいことが。

「だけど、おわりの次はまたはじまりが来る。あたし達はみんな廻り続けるのだわ」

 口の中が渇いている。ひりつく喉から音は出ない。

 何か言わないと、伝えないと……焦る僕の視界が霞む。光ではなく、涙のせいでルナさんの表情がよく見えない。でも彼女が思い切り顔に近づいてきたことはわかった。僕の額に、そっと口付けたことも。

「ピエリス、本当にありがとう。――またね」

 ぐにゃぐにゃと体が内側から作り変えられるような気持ちの悪さ。手足の感覚が消失していく。

 ――唐突に、思い出した。

 いま見ているのと似たような、色鮮やかな渦巻きの中に飲み込まれる幻影を、かつて僕は見た。目が回る。

 ――“ピエリス、力を貸してくれ”

 僕の額に口付けたひとは、ルナさんより前にももうひとりいたのだ。それははじまりの声。蜂蜜色の瞳を持つひとの、声。

 会いたい。薄れゆく意識の中で僕は願う。

 ――もう一度、あの花屋へ。


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