再会
凍てついた空気がようやく溶け始めた初春の雪のように、ゆっくりと動き始めた。石畳の冷たい床の上でかろうじて息をしている生き物は、紫の鮮血の海で溺れているように見える。それを見下ろす騎士達は顔を強ばらせ、先ほどの屈強な騎士団からは想像もつかないほど、動揺し弱々しい集団に成り果てていた。
「おいおい。魔族は初めてじゃないんだろ?」
笑いながら、ルージュは大剣を背中に背負った鞘に閉まった。
「ま、騎士団に混ざっていたら動揺しても仕方ないか。とりあえず団長さんの言うことが本当だということがよく分かったよ」
「どういう意味だ?」
騎士団の中で唯一ナシュアだけが既に動揺や恐怖を振り払ったようだ。表情に乏
しい美貌が首の上に乗っている。
「確かにレリスはしっかり魔族が入り込んでいる。俺はエルースの周りにある数カ国を回ってきたけど、国を守る騎士団に魔族がいるなんてケースは初めてだ」
「何故彼が魔族だと?」
ナシュアが訊ねると同時に、建物の扉がバーンと音を立てて開く音がして、「すみませーん」と彼女の声をかき消すように無邪気な子供の声がした。その声は冷たい無機質な壁に反響し、何重にも折り重なって聞こえた。声に騎士達はビクリと身体を震わした。一方でその声を耳にし、ルージュは安堵し、体中に溜まっている濁った空気を全て吐き出した。
彼の様子をナシュアは注意深く監視していた。彼女はルージュに対する警戒心を解かなかった。相手が昔とはいえ敵国の騎士団長である事実は無視できることではないし、魔族をいち早く察知した彼の能力は普通ではないからだ。
「すいません。お父さんがここにいると思ったんですけど」
姿の見えざる声の主は再度声を張り上げた。まるで無垢な少年を気取る彼に、ルージュは思わず笑みがこぼれた。
「どうやら知り合いが迷い込んだようだ」
「知り合い?」
「俺の『子供』が来た」
彼は首を竦め、ナシュアは首を傾げた。30歳手前であるというルージュが子供を連れていることは有り得ないことではないが、この見るからに自由人という彼が真面目に子育てをしている様子が思い浮かばない。やがて子供の声と共に青年の低い声が聞こえた。
「ここは兵舎だぞ。お前の父親がいるとは思えないけど」
その声に反応したのはナシュアだった。
「フェリン?」
大きな瞳を更に見開き息を呑んだ彼女に、ルージュは「知り合い?」と訊ねた。返答こそなかったが、彼にはその反応だけで充分だった。
「どうやら俺を探すために協力してくれた親切な人がいるらしい」
幼くか弱い子供を装ったのか、彼の生まれ持った資質によるものなのかは分からないが、狡猾な奴だとルージュは苦笑いを浮かべた。
2つの足音が近付いてくる。砂利が石の床と擦れる音がだんだんと迫ってくるのを耳にしながら彼は少年の姿が現れるのを待った。
「やっぱりいたね」
出入り口の所に立っているのは、相変わらず血が通っているとは思えないほど白い肌をした男の子だった。うっすらと笑みを浮かべながら、少年は状況把握に努める。
部屋の真ん中に立たされた彼の「父親」とその横に立つ美しい女性。研ぎすまされた氷の刃のように鋭い眼光を放ち、彼女は少年とフェリンを交互に見つめている。彼らの足下に黒い毛むくじゃらの塊が転がっている。失われていない生命を主張するように黒い塊は健気に身体を上下させて蠢いていた。魔族の証である紫の血液を流しながらも、かろうじて生きているというところだろう。それを怯えた騎士達が囲んでいる。駒はそれだけ。状況は極めて単純なのだろう。
「会いたかったよ、お父さん」
白々しく少年は目を輝かせて言う。
「まさか僕のことを忘れちゃったの?」
自分のことを「僕」という無邪気な少年ごっこにルージュは付き合うつもりはない。首を振り、溜息を吐く。
「どうやってここに来た?」
「どうやって? あんなウルサい魔族の声を一瞬で黙らせられるのは、お父さんしかいないじゃないか。すぐに居場所は分かった」
「いや。そうではなくて」
何故街に入ることができたのだ、と言葉を続けようとしたけれど、ルージュはそれ以上何も言わずに口を瞑った。少年は愛想良く微笑んでいたが、その瞳は笑っていなかった。よくも置き去りにしたなという恨みが込められている。
「フェリン。この子供はなんだ?」
ナシュアが不躾に指を差しながら、隣りに立つフェリンに問う。フェリンは頬をポリポリと掻きながら、首を傾げた。
「さっき街で会った。親を探してほしいというから、協力してやったんだけど」
本人もよく分からないと云わんばかりに彼はまた逆方向に首を傾げた。ナシュアは眉を顰めて笑った。
「協力? お前が? 珍しいこともあるものだな」
ナシュアの言葉で、ルージュは合点がいった。なるほど。どうやらこのフェリンという男、決してお人好しとは呼ばれる人種ではないらしい。ということは、リュダが資質を使いこなし、私利私欲のために悪用していることが判明した。
それにしても、とルージュは頭の中を整理する。リュダがここに来たのは想定外だった。彼がここにいる以上、あまり深く詮索されたくはないというのが、彼の本音だった。全てを明かせば、非常に都合が悪い。
「仕方ないな」
ルージュは肩を落として、ナシュアに向かい合った。
「俺がレリスに来た目的を話したいんだ。これはエルースどころか世界そのものに関わることだ」
「ほう。……ということは、レリスにも関わることだと言いたいのだな」
彼は「そうだ」と深緑の瞳をまっすぐに見つめて言った。先ほどまでのヘラヘラとした笑みはなかった。
「俺をまだ疑うなら、武器も渡すし拘束されても構わない。ここから抜け出すことは簡単だけど、できれば協力者がほしいんだ」
まだルージュ自身もナシュアを信頼できる人間かどうか疑っていたが、彼らの秘密を隠したまま、この場を逃れる方法はこうするしかないと腹を括っていた。
「頼むよ。おねーさん」
リュダも自分なりに場の空気を読んだのか、丁寧に頭を下げてそう言った。あれこれ思案しているのかナシュアは動かないまま、この不審な親子を観察している。騎士達もその判断が下されるのをじっと待っているようだった。
「いいだろう」
思い切り良く、不敵な笑みを浮かべながらナシュアは言った。
「お前達は部屋に戻れ」
彼女は力なく佇む騎士達に指示を出し、「さぁ行け」と背中を押した。騎士達は忠実に従い、「はいっ」と声を上げて、足早にその場を離れていった。
「で、どうするんだ?」
騎士達がいなくなるのを見届けて、フェリンは腕を組みながらナシュアに訊ねた。
「この者達を拘束したうえで、明朝、砂の巫女に会わそうではないか」
願ってもない幸運に、思わずルージュは笑みがこぼれた。こんなに速やかに願った方向に話が進むことに若干の不安すら感じた。
「砂の巫女? 正気か?」
「私には判断できそうにない。砂の巫女ならば、こやつらの嘘も見破ることはできるだろう。騎士達に混じっていた恐ろしい魔族を摘発してくれた借りもある」
足元で転がっている魔族を見下ろしながら、彼女は言った。
「フェリン。こいつらに部屋を貸してやってくれ」
「部屋? 拘束しないのか?」
「出られないようにしておけ。それだけで充分だ。その後、お前の冒険の収穫を聞かせてもらうぞ、フェリン」
ほう、とルージュは感心した。
ルールに縛られた頭でっかち女だと彼女を評価していたけれど、どうやら柔軟性も兼ね備えているらしい。砂嵐がやってきたのか、風が唸る音が響き、石の壁に砂が打ちつけられる音がした。