絶望の劇場
満たされた霧の中では恐怖がより一層増長する。
「ティラ様? どちらへ」
先ほどまで傍らにいたはずの黒い獣の気配は一切が失われ、巫女は周囲を見回した。彼女自身さえ白に塗り潰されたのではないかと思うほど、その色は執拗に塗りたくられていた。
「ティラ様、私を一人にしないで。声を聞かせてくださいっ」
彼女の声は虚しく響くだけで、応える者は誰もいない。ティラが、あるいは自分が何処か未開の地へ飛ばされてしまったのだろうか。いずれにしろここには何もない。どちらが飛ばされたかなどという判断材料も勿論ない。
この白い空間は、まるで彼女が祈りを強要され続けた祭壇のようだ。思い出すだけで胸の中に灰色の渦が蠢くのが分かった。逃げ出したはずの監獄に戻されたという感覚が彼女を萎縮させた。
こんな時に彼がいてくれたら。そんな思いが彼女の脳裏によぎった。勿論叶うはずのない夢だ。天窓に見えた蜃気楼のようなラスタ=ウィーブの顔がぼんやりと浮かんだ。
そこであり得ないことが起こった。消えるはずの儚い幻は、そこにくっきりと輪郭をもって存在している。テティスが想像により補完された騎士の顔は、その想像よりも剛健な面持ちをしている。
「テティス様、ただいま戻りました」
低い声は彼女の躍動する胸を更に急かすように響いた。彼女は口を開くこともできぬまま、眼前に跪いた聖騎士を見つめる。
「ラスタ=ウィーブでございます」
「ら……ラスタ? 貴方が……」
彼は目を丸くする巫女を見て、「ご無事で何よりです」と小さく笑う。
「東で風の守護獣は見つかったのですか?」
「東に存在していることが確かであることは分かったのですが、それ以上の情報はありません」
尋ねてはみたものの今のテティスにはラスタの報告など耳に入らなかった。彼の調査結果よりも、彼と対面し語り合う行為そのものが重要なのだ。彼女はラスタに熱い視線を向けずにはいられなかった。瞼が熱く、はやる鼓動を抑えることに必死だった。
通常ならば、彼女が霧の中からいきなり登場したラスタ=ウィーブに心を許すことなど有り得ない。テティスは幼いとはいえ、どちらかと言えば聡明であり、状況判断力が劣っているタイプではないからだ。彼女を覆う霧に冷静さを欠くような仕掛けがなければ、そんなことにはならない。
話したいことはたくさんあるというのに、零れるのは言葉ではなく大粒の涙だった。そんな彼女を温かい光を宿した瞳が包み込む。
やがて眼前に佇む聖騎士の背後にゆらりと黒い影が浮かび上がった。不穏な影の存在に気付いたテティスは騎士の名を叫び、注意を喚起する。
背後に現れたのは邪悪な気配を纏った鉄仮面の男ネヒューだった。表情が見えないはずなのに笑っているのが分かり、彼女はぞくりと背筋を凍らせる。
あっという間の出来事だった。先ほどまで真っ直ぐに立っていた聖騎士の左胸を黒い刃が貫通し、鮮血が白の大地を染めた。かっくりと膝を曲げて、彼は限りなくスローモーションで倒れ込む。彼女は息を呑むだけで、声を発することもなく、一瞬でただの骸と化した憧れの騎士を見下ろしていた。
「ラスタ=ウィーブは死んだ」
ネヒューは刃に付着した血糊を取り払いながら宣言する。
「そんな……嘘よ。彼はここにいるわ」
そう言う彼女の目は完全に焦点を失っている。
「だって、彼は私の」
「お前の光だった、か。では光を失ったお前に何が見える?」
彼女の目に映るものが全てモノクロかつ歪んで見えた。私は今、たった一つの太陽を失ったのだ。私の世界に一体何が残っているのだろう。彼女は何度も何度も自問自答するが、導き出された解は既に決まっていた。
「何もないわ」
彼女の中に微かにあった一筋の光。それが絶たれた今、この世界のために命を懸ける必要など微塵もないではないか。絶望が彼女の心を侵食し破壊していく。
頭に激痛が走り、それと同時に大地が震え始めた。彼女と共鳴するように何かが胎動している。
「さあ、産み落としておくれ。邪悪な美しい闇を」
ネヒューに耳元で囁かれ、彼女は頭を抱えたまま抗おうとする。首を頑なに横に振り続けるが、「苦しみを吐き出せ」という甘い誘惑に身を任せたい衝動は強烈なものだった。
「お前とシウルは邪悪なるものの母となる」
彼女は身が裂けるような痛みに身を捩らせる。生まれてしまう。もはや、永い時間をかけて彼女の中に巣食う闇は抑えきれないものへと成長していた。
甲高い悲鳴と共に白い空間は一瞬にして暗黒に包まれた。
=====================
空を切るような女性の叫び声に、ルージュとリュダは思わず顔を上げた。白けた空はいつのまにか闇の色を呈し、不吉な予感を漂わせている。
「ルージュ!」
「分かっている! 急ぐぞ」
彼らは更に速度を上げる。そんな彼らに濃厚な白の霧が立ち塞がった。まとわりつくような霧の気配にリュダはぞくりと背筋を震わせた。
「結界……。ネヒューの仕業だ」
リュダの呟きに反応するように、大地が揺れた。震える大地の音は徐々に大きくなり、やがて大気へと伝わる。世界が叫んでいる。悲痛な叫びを上げている。ルージュは不意にそんなことを思った。
「あれは?」
霧が徐々に晴れて、帳の向こうに巨大な黒い影が浮かび上がる。あの呪いの大樹だということは分かっているが、その幹に紫色の禍々しい光が渦巻いている。
「間に合って良かった」
霧の向こうに人影が見えた。聞き覚えのある声にルージュは嫌悪感を覚えた。
「ネヒュー! 貴様……」
「間に合って本当に良かったよ。ルージュさんがこの瞬間に立ち会えるなんてね」
「どういう意味だ」
ネヒューの腕の中では純白のローブを着た少女が眠っている。この清廉な気配から察するに、風の巫女であろう。
「別にオレはルージュさんを追ってここにきたわけじゃない。オレはオレの役目を果たすために、この時を選んで西ウェルシュにやってきたんだ。それなのにルージュさんがたまたまここに居合わせた。こんな幸運があるだろうか。あんたは世界の運命に関わる貴重な瞬間を目撃できるんだ」
「お前がこの国の呪いに関与していたのか」
「呪いだなんて酷い言いようだな。素敵なプレゼントをくれてやっただけだ」
ルージュは背中に担いでいた大剣を構える。放たれる殺気は凄まじいものだが、ネヒューはそれに動じることなく肩を揺らし笑っている。
「もう間に合わないよ。仮初めの光を失った巫女の心には既に絶望しか存在しない」
「仮初めの光? まさかラスタ=ウィーブのことか」
声を荒げるルージュを愉快げに笑いながら、ネヒューは手をヒラヒラして宥めようとする。
「ラスタは生きているよ。おそらくまだ神殿の中にいるはずだ。でも重要なのは彼の生死ではない」
「何を言ってる?」
「彼女にとってはラスタ=ウィーブは偶像に過ぎない。偶像は簡単に殺せる。それで充分なんだ。わかるかな」
目の前で唯一の光が失われる体験。それだけで彼女の心は絶望に満たされる。
「本当は本物を目の前で殺したかったよ。ルージュさんがいなければ、もっとシンプルに事は進んでいたんだ。でも脇道に逸れても、オレのプランは狂う事はない。果実から強大な闇が孵化するんだ」
ネヒューは両手を広げる。巫女の華奢な肉体がふわりと浮かび上がり、大樹の光に吸い込まれるように昇っていく。
「そして底知れぬ闇から生まれるものにあんたは勝てやしない。それはあんたの中に棲む魔獣ジェネシスと同様、あの方の片鱗なのだから」
ルージュの鼓動が強く脈打つ。名を呼ばれ、内なる闇が応えたのだろう。心臓を掴まれるような痛みを感じ、彼は膝をつき俯いた。
「いいね。そういう姿があんたには似合ってるよ」
「黙れ……!」
「闇は闇で制することができない。そんな当たり前のことを知っていながら、どうして裏切るような真似をするのかな」
ネヒューはそう言って首をすくめる。理解できないと言いたげに。
「ルージュさんはオレ達に決して勝てないんだよ。あんたも同じ穴のムジナなんだから」
冷たい嘲笑が辺りに響き渡る。
「世界に優しい闇を。人間に哀切なる絶望を」
ネヒューの穏やかな声に、ルージュは顔を上げるが既にそこにネヒューの姿はなかった。
空を見上げる。紫色の光は生き物のように宙を飛び交っている。それらの中心で浮遊している風の巫女は虚ろな瞳を開けたまま、大樹から放たれる夥しい紫色の光に触れた。