嫌な予感
押し寄せてくる猛攻の嵐は、かつて彼がエルースで堅固なる盾として働いていた時に比べると戦い難かった。あの時は向かっているものが自らの敵だった。守るものがあり、それを壊そうとするものを追い払う、あるいはせん滅する。そこにある構図は極めて単純だった。
しかしこの状況は予想していたとおり、厄介だった。正気を失った人間は痛みすら感じないようで、撫で斬りにしようともこちらへと向かってくる。息絶えるまでは何度でも起きあがる――まるでゾンビである。
既に屍と化した一体の魔族が地面に転がっていた。奴を排除しようが、魔素に毒された人間を解放することはできない。この空間に蔓延した魔素を取り除くことさえできれば、被害は最小限に抑えられるだろう。
既に半刻が経とうとしていた。休憩どころか、手を休めることすら許されない忙しない状況ではあったが、ルージュは異変に気付いていた。
自らの内なるものが胎動している。赤子が母体で蠢くように、「私はここにいる」と静かに主張する。内なるものの声に耳を傾けるわけにはいかなかった。彼の中に潜む悪しき闇に取り込まれてしまうからだ。
闇はこう言いたいのかもしれない。「ためらうことなく邪魔な人間を排除しろ」と。今彼がほんの少し刃の傾きと戦いのスタイルを変更すれば、彼を襲う無尽蔵のゾンビ達を一掃できるのだ。
(戦いに集中しろ……)
ルージュは己に言い聞かすように反芻する。騎士達の攻撃は粗雑な太刀筋であるが故に、避けるのは簡単だが気を抜けば反射的に斬り殺してしまいそうだった。
その時――
「ルージュ!」
思わぬ声が聞こえた。ここにいるはずのない者の声だった。
戦いの場にふさわしくない無邪気であどけない声。普段なら苛立ちを感じることすら感じる少年の声。 太刀を受け止めながらルージュは背後に視線をやった。
「何やってんだよ、お前らしくないじゃないか」
にやけ面で揶揄する少年の姿に何故かルージュは笑ってしまう。自分でも不思議と安堵しているのが分かった。
「そんな奴らに翻弄されるなんて」
「なんでお前がここにいるんだ」
リュダは顔を強ばらせながら「ネヒューがここにおれを運んだ」と言った。
「ネヒューが?」
「とりあえずおれも参戦するよ」
その一言を告げるなり、少年の姿はみるみるうちに美しい白狼へと変わった。
「殺すなよ。俺達の敵は奴らではない」
今にも飛びかからんとする好戦的な相棒にルージュが釘を差す。
「わかってるよ」
「計画がうまくいけば、こいつらを正気に戻せる。無駄なコロシを省ける」
「了解。うまくいく確率は?」
「80%ってとこかな」
手堅いルージュのわりには意外と賭けに出たな、とリュダは目を丸くする。正気を失いながらも敵の匂いは嗅ぎつけるようで、騎士達はリュダにも攻撃を開始した。
リュダは牙を剥き、致命傷にならない程度に気を付けながら攻撃する。どす黒い殺意を綺麗に受け流すのは骨の折れる作業だが、できないことではない。だが、かなりの集中力が必要となるため、長時間に亘ると不利になるだろう。
「鬱陶しい奴だ」
リュダは長いフサフサの尻尾に力を込め、周囲をなぎ払う。自我を失った兵士達は一蹴されたものの、再び身体を起こし奇声を発し、襲いかかってくる。
「正当防衛は許してくれないのか?」
「残念ながら俺は今のところ許すつもりはない。お前にこんな人間を退けることすらできないとは思えないからな」
二人はお互いの背中を向け合いながら、刃を振るい続ける。
主犯の魔族は神殿に3体いる。1体は彼の足下に、もう1体は入り口で見張りをしていた。結界石が未だ解放されないのは、最後の1体が関係しているのかもしれない。
更に嫌な予感がしているのは先ほどリュダの口から「ネヒュー」の名が飛び出したことだ。エルースからの刺客。ルージュやリュダを追ってきたならともかく、わざわざ王の器をルージュと引き合わせる意図が分からない。
もしかして、ネヒューの目的は自分達にではなく、この国にあるのではないか。すなわちネヒューがこの一件に関与しているのではないか。そうなればこの事件は単なる魔族による巫女拉致ではなく、世界の闇そのものに関与している可能性がある。
思いを巡らし、核心に迫ろうとしていたその時だった。急に場の空気が変わった。結界が解き放たれ充満していた強烈な魔素が拡散したのだ。先ほどまで獣の如く襲いかかっていた人間達は動きを止め、やがて地面に倒れ込み意識を失った。
不安がよぎったものの、どうやらラスタがうまく神殿内の結界石を壊すことに成功したらしい。一方で目的を達し喜ばしいはずなのに、止めどないこの胸騒ぎは何だろうか。
「厄介なことになってるみたいだね」
白狼の姿のままリュダは言う。
「あぁ、西ウェルシュに行き竜を捜すことだけが目的だったがな、首を突っ込んだせいで別件にぶち当たった。俺は今でもこの事件の全貌を理解していないようだが」
「と言うと?」
「この事件の黒幕がいる。そこに転がってる魔族は『大いなる主』という言葉を使っていたし、底に見える闇の大樹を30年前に植えたのは黒鎧の男だったらしい」
「それって……」
「もう一度訊ねるが、お前はどうやってここに来たんだ? それにあのスイードに残してきたフューリの男はどうした?」
いつもののんびりした口調ではなかった。あれは間違いなくウルの暴走ではあったが、抑えられなかったのは彼の力不足ではなく好奇心が原因であるが故に気まずかった。リュダは尻尾と耳を垂らしながら怖ず怖ずと訊ねる。
「怒ってるの?」
「馬鹿言うな。お前が言うとおりに動いた試しなんざ、ほとんどないだろう。その度に怒ってたら身体が保たないよ」
彼の僅かに表情が緩んだため、リュダはホッと一息吐いた。
「ルージュ達が出立した夜、ウルが目覚めた」
「ウル? あいつの名前か」
「うん。そのままウルは西ウェルシュに行こうとしたから、おれは追いかけた。その矢先2人でネヒューに遭遇して、気がつけばこっちにいたんだ」
「なるほどな。てことはフューリもこっちに来てる可能性があるな。ネヒューは何か言ってたか」
「この国にはすごいものが眠ってるとか、ルージュが闇の力を解放しないと勝てないとか……。気まぐれでお前達を西に送ってやる、とか」
「嫌な感じだな」
「おれもそう思う」
あの男が気まぐれで与えるものが恩恵であるとは思えなかった。道化のように振る舞っているが、狡猾な男であることは既に知っている。
「神殿入り口に向かうぞ。うまくいってたらティラが巫女を救出してるはずだ」
ルージュは大剣を背中の鞘に納めながら言う。リュダは既に走り始めていた。