天窓からの景色
天窓から眺める本堂は懐古の念に駆られるには充分に当時の姿を残していた。
白の壁。白の床。そこにある全てが白で統一された空間は10年前と同様に一点の曇りさえない。昔からラスタは神殿の脇に生えた木を伝って屋根に登り、物思いに耽ることが多かった。神殿の屋根に登るなど崇高なる存在達への冒涜である。当時10代の彼はそれを簡単にやってのけるほど、敬意や畏怖を欠損していたと言えるだろう。
彼はある日、天窓から白の本堂を眺めた。聖域であるが故に、通例騎士達が足を踏み入れることを許されない場所だった。こんなに広い空間だったのか。純白であるせいか、その空間は霧で満たされた果てしない広野に見えた。
その時、彼は初めて巫女を見かけた。己の腰までしかない背丈の丸い鳶色の瞳をした少女はただひたすらにこの大きすぎる空間で祈り続けていた。
闇の大樹に支配され呪われたこの国の人々は見上げる行為をいつからか敬遠するようになった。だから光が射し込むこの天窓のことを意識する者もいなかった。
幼さ故の無垢な気持ちで巫女は天を仰ぎ、そこにいた若い青年騎士に気付いた。顔形はよく見えなかったが彼は少女がとても美しく愛おしいと思った。ガラス細工のように脆弱で危うい存在に見えたのだ。忘れ去られた窓を通して、彼らは繋がったのだった。
今視線の先には巫女の姿はない。あの冒険者の言葉が真実ならば、巫女は既に捕らわれている。もし随分前に殺されていたとしたら、守護獣が何かしらの反応を察知しているはずだから可能性は低い。
ラスタは本堂の中心に置かれた輝く石を見つめる。気がつくと彼の持つ対となる結界石が熱を帯びていた。
本当にあの男を信じて良いのだろうか。乱雑に散らかった心の修復が間に合いそうにない。
――神殿騎士ラスタ=ウィーブよ、東に潜み守護獣を探すのだ。
あの時、何故自分が選ばれたのか分からなかった。でも選んだのが巫女だと聞いて彼は飛び上がりそうになるほど嬉しかったことを未だに覚えている。
――テティス様は生まれくる闇に対抗するため守護獣を求めておられる。お前はその力となるのだ。
あの時それを言い渡したのは能面のような顔をしたライゼンという男だったはずだ。何故と問う隙すらなかった。彼にとって巫女の命は絶対だったからだ。
邂逅する過去のビジョンは突然の喧しい爆音でかき消された。いよいよ裏口で戦闘が始まったらしい。彼はこれから始まる任務を果たすために、思い出で一気に緩んだ緊張の糸を再度張り直した。
本堂には誰もいないようだった。あの爆音で内部は混乱しているのかもしれないが天窓から見える景色ではそれを確認することすらできない。
怒号に近い奇声が遠くから聞こえてくる。魔族が唸りながら、あの暢気で自信家の冒険者に襲いかかっているのだろう。ラスタにはどうしてもあの男が勝利する光景が想像できなかった。身体のサイズに似合わぬ巨大な剣で戦う姿も想像すると、かなり無理があるように思われる。
だが彼の不安をよそに戦いは継続していた。何度も何度も聞こえる低い唸り声が止むことはなかった。
やがて数分後カチャリという金属の音がした。錠が開いたのだ。窓の向こうでうっすらと黒い風が走り去るのが見えた。
慎重に天窓を開ける。開閉が頻繁に行われていたとは思えないので、密着して開けられない可能性もあったが、それは杞憂に終わった。
ごくりと唾を呑み込むとラスタは天窓に身体を滑り込ませて手で桟を掴みぶら下がる。天窓と床まで10メートルはあるので着地を失敗すれば、惨めに足を負傷してしまう。慎重に飛び降りた。
着地に成功し彼は立ち上がる。中央の祭壇には光り輝く結界石が安置されていた。これを壊せば任務は完了する。国に蔓延る魔素を解き放つことができるのだ。
「テティス様……」
脳裏に浮かぶ、華奢な少女。ラスタは彼女の安否を祈りながら、腰に身につけた剣を抜き、振りかざした。
その時――
「おかえりなさい。ラスタ=ウィーブ」
突然背後から声をかけられてラスタは身体を震わせた。その凛とした澄んだ声は彼が結界石を通して聞いたものと同じだった。
振り返ると膝丈の白いワンピースを着た10代の少女が立っていた。人懐っこい笑みを浮かべたまま両腕を広げ、「待っていたのよ」と抱擁を求めるポーズをした。
かつての脆弱な印象はなかった。華奢な身体ではあるものの、国の指導者たる威光を宿した成熟した女性に見えた。
「て…テティス様?!」
動揺するラスタを慰めるように、少女は柔和な笑みを浮かべて小さく頷いた。
「今なら逃げられる。魔族達は貴方が寄越した刺客に目を向けている。早く逃げましょう」
彼女の手がラスタの手を握る。細く長い指は力を入れたら折れてしまいそうだ。
「……分かりました。ただ、その前にやることがあります」
彼女の丸い鳶色の瞳が僅かな光を帯びた。
「やること?」
「結界石を破壊するのです」
ラスタの言葉に彼女は目を更に丸くした。
「な……そんなことをしたら、シウル様の努力が……平和の祈りが無駄になってしまいます。この国が今平和なのは結界石により大樹を隔離しているから。向こうの人間達存在を知らないのですよ」
「分かっています」
「国民は弱い。いつも漠然とした闇に怯えているのです。だから恐怖から守ってやらなければ」
声を荒げる少女に視線を合わせるように、ラスタは屈んでからゆっくりと首を横に振る。
「それは違います。この国の民は貴女が思うほど弱くありません。東に潜み10年間、私は向こう側の人間を見てきました」
「違うのは貴方です、ラスタ。貴方が見てきたのは恐怖から守られてきた人間達です。彼らはこれから直面する恐怖への耐性を持たぬ弱い人間です」
巫女と言い争うなど考えともみなかった。もう1人の彼が耳元で咎めている気がした。
「ラスタ……駄目よ。お願い。私を信じて」
鳶色の瞳が涙で覆われている。すがるような瞳と、あの天窓から見た繊細な少女の幻影が重なり、ラスタは動けなくなった。
「テティス様……」
「もう、時間がない。魔族が私達に気付く前に逃げましょう」
躊躇うラスタの腕を引っ張る力は強かった。屈んでいた彼は立ち上がらざるを得ない。
既に思考回路が麻痺していた。誰を信じ、誰を疑うべきかを選択する余裕は失われていた。
引っ張られることで右足が一歩前へ出る。自分の意志とは関係なく、次は左足。徐々に目的の結界石か遠のいていく。
――疑え。
不意にルージュの主張する声が聞こえた。
――疑って自分の頭で考えろ。
自分の意志とは関係なく動き出す足に視線を向けながら、まさに今がその時であると感じた。衝動的なものであった。
急にラスタが踏ん張ったため、逆に彼女がラスタに引っ張られ、転びそうになる。
「ラスタ?」
怪訝な表情で見つめる少女を前にすると、ラスタは後悔の念を感じずにはいられなかった。しかし今、命がけで戦っているあの冒険者を信じると決めたのだ。そこを曲げることは、騎士道に反する。
「私は結界石を壊します」
放心する少女に背を向け、再度結界石を安置してある祭壇へと向かう。もう迷うことはない。
ラスタは剣を構え、弱々しい光を携えた拳大の石に向かい合った。
「貴方は私の云う事が聞けないのですね」
ラスタは思わず振り返った。背後から聞こえた声が、あまりに冷然としており、先ほどまでの彼女とは別人のようであったからだ。
少女は先ほどまで持っていなかったはずの小さなナイフを手にしており、地面を一蹴りすると、刹那の間にラスタの目の前へと移動していた。
彼にとって、巫女は絶対的な存在である。騎士であるラスタが簡単に手にした剣を振りおろせる訳もなく、彼はただ身体を強張らせることしかできない。
訳も分からぬまま目を閉じた。
「おー、ギリギリセーフだったな」
閉ざされた視界をかき分け、天から聞きなれぬ男の軽快な声がした。
恐る恐る目を開けると、ラスタと少女の間には緑色の強固な障壁が出来上がっていた。
「何者だ、貴様は!」
少女が愛らしい顔に似合わぬ荒い口調へと豹変を遂げ、ナイフを障壁へと突き刺したまま天へ唾を飛ばした。
「やだな。どいつもこいつも不躾に何者かばっかし聞いてくる。しらねーってのに」
天窓からヒョイと身軽に降り立った青年は、ラスタが人生史上出会った中で最も美しく、痺れるような赤い瞳をしていた。