失ったもの
白く図太い石柱が立ち並ぶ神殿の玄関には、こちらが拍子抜けするほどの数の見張りしかいなかった。肌色は青、不自然なほど尖った耳に緑色の瞳。その容姿だけで見張りが人ではないことは簡単に判断できるが、執拗な魔族の匂いでそれは確信に変わる。そこは巫女が住む聖域だったはずなのに、今や放たれる邪悪な気配で立ちこめている。
神殿は思った以上に巨大だった。神を奉る社というよりは、権威を振りかざした王様が住む巨城のごとく荘厳な佇まいである。
「裏口は向こうだ」
顔を強ばらせてラスタが言う。対立する東ウェルシュに潜伏していたスパイとはいえども、実戦は初めてなのかもしれない。緊張しているのが至極分かりやすい。
「まさか本気で裏口から入るつもりか?」
揶揄するような口調でルージュが問う。口調にはそぐわない鋭い眼光を宿した瞳にラスタはおずおずと押し黙る。
「俺が結界石に告げた嘘をアンタまで真に受けてどうする」
「だ、だが」
「わざわざ侵入経路を宣言したんだから、全員とは言わないが裏口の警備は強化されているはずだ。そこから突入するのはあまりに馬鹿げている。まぁ俺はそういう猪突猛進な作戦、嫌いじゃないがね」
微弱な風が吹き、木が葉を擦りあわせる。緊迫した敵陣にありながらも、そんな些細な音が、夜明け前からさんざん歩き続けて疲弊した身体を癒していくのを感じていた。
「おそらく相手も馬鹿じゃないだろうから、全員を裏口に配置するようなことはしない。正面にもある程度の兵力を残しておくだろう」
「じゃあどうするつもりなんだ」
「まずは、やるべきことをやろう」
快活な調子でルージュは言う。
「やるべきこと?」
「人が何時も優先すべき事項って言えば人命の保護、だろ」
「巫女の救助……?」
「正解。いきなり事を荒立てては巫女の身を盾にされて動きが制限される。とにかくまずはこっそり侵入して巫女を救うとしよう」
「そんなこと、どうやって……」
訊ねられた張本人が口を開く前に、漆黒の獣が唸るように声を上げた。
「私に行け、というのだな」
「おっ、ご名答。今回はナシュアがいないけど、俺のお願いはきいてくれるのかな」
ティラが深く息を吐き出すと同時に、木々の間を温い風が吹き抜ける。森に迷い込んだ哀れな者達を囃すように木が揺れた。
「仕方あるまい。同胞の身が脅かされているのだ」
不服そうなことを口にしながらも、ティラの長い尻尾は躍動するように揺れていた。出会った当初は堅苦しい奴だと思っていたが、意外と話が通じる相手なのかもしれない。ルージュは無意識に肩の力が抜けるのを感じた。
思えばエルースでは張り詰めた糸を緩める暇はなかったと思う。王の真意を知ることなく――今となれば推測することは充分可能であったと思うが、第一騎士団とは別に設立された第二騎士団の団長に命じられ絶望を抱えたままに王家を守る盾として責務を果たしていた。箱庭と謳われたズィ=エルースも、先の王・影王の行った理不尽で辛辣な侵略戦争のせいでクーデタが絶えなかった。残り香のように執拗にこびり付いた負の感情が、エルースを混沌へと導いていた。彼はそのカオスからエルースの民を救う任を担っていた。それは現王の願いであると共に、民の願いであることは容易に分かる。これらを一身に背負おうとしていた。
――お前は抱え込みすぎたって。
笑う王の顔が不意に脳裏によぎった。友を失ったと同時に失ったもの。あれは何て名前だっけな、と考えていると、「おい」と感情の宿らないティラの声が耳に入った。
気を取り直し、ルージュは両手を一発鳴らし言う。
「じゃあ作戦会議をする。仮説を実戦で検証するとしよう。その方法を今から説明する」
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守護獣シエラが羽を休めるための聖なる祭壇。彼女は幼い頃から未だ見ぬその存在に憧憬と羨望に近い感情を抱きながら、この静寂の部屋で思案することが多かった。身寄りのない少女にとっては、神が与えた悲しい宿命であったとしても、守護獣との絆は唯一無二のものであったのだ。
そして今、彼女は自身の心の拠り所で、柱に背中が密着するように粗末なロープで縛り付けられている。ムキになってもがいても腕に食い込むだけで隙は皆無だ。
彼女の脳裏に浮かぶのは、いつであってもあの黒い大樹の影だった。
「人間はいつか死ぬ」という摂理を知った漠然とした恐怖と同じように、彼女は物心つく時からその曖昧な存在に畏れを抱いていた。
――いつか、あの木が育む果実から強大な魔が生まれるのです。
何度も繰り返してそう告げたのは側近のライゼンだ。表情のない石膏像のような顔で警告されると、その度に背筋が凍るような気分になった。
風の巫女として命を削り、祈りを捧げる運命にあることは仕方ない。その境地に達するまでに何度も泣いたけれど、彼女以外に同じ悲劇の運命を担った少女がこの世界に存在しているのだから、と言い聞かし、いつか来る終わりの時から目を背けることで何とか生きてこられた。
しかし大いなる闇の楔である彼女が、ある日謎の騎士に植えつけられたという黒い大樹の案件まで背負うことはあまりに理不尽に思えた。何故、前任者シウルはこの混沌とした現実を見つめることができたのだろう。強い精神力と理性が彼女を支えていたのだろうが、私にはそんなものはない。そう思いながら彼女は手首に食い込んだロープを見つめ、大きく溜息を吐く。
――シウル様は国の将来を見据えて、守護獣シエラに涙果の大量生産を命じました。
物語を聞くような感覚だった。まさかこの国の歴史が、彼女の背中に全ての圧し掛かることになろうとは、幼い頃は考えもしなかった。
――いつか生まれ来るあの闇に対抗するために。
そう語るライゼンの目は虚ろだった。全てを飲み込んでしまいそうな漆黒の瞳だ。
幼い彼女は訊ねる。
――あの大樹は何のために植えられたの?
素朴な疑問だった。何故動物は呼吸をするの? 何故空は青いの? 何故ヒトは死ぬの?
そういった一連の疑問の一つにすぎなかった。
しかし予想外に、ライゼンは表情を強張らせ押し黙った。表情のない彼が、感情を表に出すことは珍しいことだったので、彼女の方まで口を瞑るしかなかった。
神殿の奥にあるこの部屋に爽快な風は届かない。慣れ親しんだ湿った大地の匂いを運んではこられない。黒騎士の呪縛に囚われた救いのない土地ではあるが、彼女の国である。重圧に耐えきれず投げ出しそうになったこの国の将来が、このまま見られずに朽ちていくかもしれないと思うと、僅かに寂しさを感じた。
金属が擦れるような音がしたので、彼女はふいに顔を上げた。部屋の片隅で影が動いている。もう監視することにも飽きて、部屋を出て行こうとしているのだろう。引き留めるつもりはなかったが、彼女は訊ねる。
「あの大樹は何のために植えられたの? ライゼン」
黒い甲冑に身を包んだライゼンが振り返り、一瞬の沈黙の後、全く動じない様子で答える。
「我が主のため、ですよ。テティス様」
「我が主? 一体誰なの?」
ライゼンは肩を竦めるだけで、そのまま部屋を出て行こうとする。
「答えなさい! ライゼン!」
声が虚しく部屋に響き、扉がパタンと閉まる。急激に力が抜け、彼女の瞳から涙が零れた。