提案
巫女が住むという神殿まで15分。彼らは言葉を交わすこともなく、その時間を淡々と過ごした。
膝丈の雑草が、動かし続ける足に絡みつくように一面に生えている。禍々しい黒い大樹に隷属された森は空を覆い、太陽が生み出す大半の光を遮断していた。
神殿らしき石造りの建物が見えた時、ルージュが足を止めた。
「どうかしたのか?」
ラスタが首を傾げると同時に、ルージュが「すごい匂いだな」と口走った。
「は? 匂い?」
「魔族の強烈な匂いがプンプンする」
誰も気づかないと高を括っているとしか思えない堂々とした魔族特有の匂い。強烈な匂いとはいえ、通常の人間ならば気付くことはないが、ルージュの魔族センサーはビンビンに反応している。微弱とはいえ頭痛すら起こさせるほどだ。
「オレには何も匂わないが」
「そうだろうな」
おそらく、傍らで平然としているティラも気付いてはいないだろう。
神殿までの道のり、ルージュは頭の中で先ほど自らが口にした言葉を反芻していた。
――疑え。
疑うとは省みることである。自らの足を動かさずとも、全自動のベルトコンベヤーのように無意識に運ばれる時ほど、その行為は必要である。取り返しのつかない所まで辿り着く前に気付くためには疑う行為を繰り返すしかない。
己で偉そうに口にしながら、その言葉で生まれるのは後悔と罪の意識だ。
もし、若きルージュが、当時自らに訪れた悲劇を盾にして硬い殻に閉じこもらなければ――、つまりは彼がもっと早く、誰かに用意された箱庭の世界のシステムを疑っていれば、彼自身が黒い歴史を刻むことはなかったかもしれないのに。運命に諦観し世界に対する復讐心と憎悪にとり憑かれた可哀想な青年を救うために、彼女が身を呈して犠牲になることもなかったのに。
――時がきたら、私を殺してね。ルージュ。
ルージュは拳を握りしめる。そこから熱い汗が滲み出る。しかし既に彼女には拳を握りしめることも、汗を滲ませることもできない。
――私はこの世界の果てで貴方を待ってるから。
ふいに漂ってきた強烈な魔族の匂いで目が覚めた。ある意味で、神殿を占拠している魔族達に感謝しなければ、とルージュは顔を歪めて笑う。
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「どうなってんだよ」
入口の村スイードを出て、ルエンダの果てまで歩いてきたリュダとウルだったが、辺りは一面霧に覆われており、視界の状態は最悪だった。
「さっき晴れたんじゃないのかよ」
機嫌悪そうにウルがぼやくのをリュダが「落ち着いて」と宥める。どっちが年上やら分かったものではない。
口には出さなかったが、内心でリュダも疑問を抱いていた。先ほどスイードの丘で突如霧が晴れ、うっすらと見えた巨大な木の影は、既に跡形もなく見えなくなっている。代わりに充満した白い霧に覆われ、異空間に閉じ込められたような気分である。
「大丈夫だって。落ち着いてっから
「本当かよ」
「モチのロンだ。俺はガキじゃねーし。でもさ、どうすっかな」
ウルは見渡す限りの白い壁を眺めて溜め息を吐く。
「俺が思うに、これはただの霧じゃねぇと思うんだよ」
「どういう意味?」
「たぶん、さっきの西ウェルシュを覆ってた霧も結界って呼ばれるやつだったと思うんだけど、今俺達を覆ってるやつも結界だと思うんだよな」
「じゃあこの結界の中に、ルージュ達も閉じ込められてんのかな」
リュダが問うと、即座に短く「いや」とウルは否定した。
「気配がない」
「気配?」
オレンジ色を宿した金髪をかき分けながら、ウルは雑草の生える畦道に座り込んだ。
「おい……!」
「このまま歩き続けても無駄だよ」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味。術者に閉じ込められたんだよ、俺達」
投げやりな言葉とは裏腹に、ウルの紅い瞳は爛々と輝いている。
「ご名答だ」
白い空間に対照的な黒い渦が突如現れ、そこから漆黒の鎧の男が現れた。リュダには聞き覚えのある重厚な響きを宿した男の声。会ったのはつい最近のことだから、思い出すまでもない。
「ネヒュー?!」
リュダが思わず構えると、ネヒューは声を上げて無邪気に笑った。ただし鉄仮面で覆われた表情は笑っているのか定かではない。
「そう構えるなよ。同郷の好だろ」
「ふ、ふざけるな。おれを連れ戻しに来たのか?」
ネヒューが口にした同郷とはエルースを指すのだろうが、エルース第一騎士団の男にそう言われるのは不快でならない。
「まあな。器を取り戻すこともオレの任務ではあるが、今日は違う。別の用でウェルシュに来ていたら、面白な奴が森にいたから、ちょっかいを出しただけだ」
そう言い、ネヒューは視線を地面に座り込んだ美貌の男を見る。
「新顔だな。どうやら第二騎士団の団長は大人気らしいな」
空気が張詰めた刹那の間に、黒騎士は無防備なウルに黒い刃を向けていた。全く動じないウルにネヒューは「ほう」と感嘆の声を上げた。
「オレが攻撃しないことを分かったような顔をしているな」
「殺気がないからな。ところでアンタ誰?」
反抗期を迎えた少年のように鋭い視線で睨みつけるウルは、これまでの緊張感のない柔和な青年とは別人のようである。
「オレはエルース第一騎士団のネヒュー=レオパルド」
「へえ……。箱庭のエルースからお越しとは」
ウルはお尻に付着した土や草を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。そんな彼を眺めながら、ネヒューが声を殺して笑っている。
「よく言う」
「?」
「フューリの生き残りのお前も、エルースの客人だろう」
ウルは口元に笑みを作りながら何も答えなかった。対峙する二人の男を固唾を飲んでリュダは見つめるしかない。
「まあいい。わざわざオレがお前達の前に姿を見せたのは他でもない、ルージュのことで提案があったんだ」
「ルージュのこと?」
「ここまでの経緯すら知らないようだから教えてやるよ。今、ルージュは結界を抜けて西ウェルシュに入り込むことに成功したようだ。ただ、西ウェルシュは今魔族に占拠されていて巫女も拉致され拘束されているという、かなりまずい状態になっている。更に、ルージュのようなふぬけた男には、手に負えない代物があの国には眠っている。奴が闇の力を解放しなければ、同等に闘うことは難しいだろうな」
「おれがお前のことを信用すると思うのか?」
「さあ。お前は無理だろうな。そこの男は知らないが」
ネヒューは首を竦め、黒い刃を腰の鞘に納める。
「更に言えば、このまま歩き続けたところで結界石を持たないお前達は決して西ウェルシュに入ることはできない。そこでだ、オレの絶大なる魔力によりお前達を西ウェルシュへ運んでやろう」
「は?」
「いいだろう。粋なオレの計らいだ。通りがかりの気まぐれ。こんなにラッキーな話はないぞ」
ネヒューを信用するかどうかなど、検討するだけ無駄なものだとリュダは思っていた。気まぐれなどと軽い言葉で騙そうとしているのは見え見えだ。
「だったら、おれはルージュの力を信じて待つことにするよ。お前の言葉なんかより、はるかに信用できる」
実際、ルージュが一介の魔族などに負けることは想像できなかった。レリスで第一騎士団のコンビには苦戦したものの、これまでの旅で魔族との戦いに苦戦しているところは見たことがない。
そんなリュダの言葉をネヒューは鼻で笑った。
「まあ、お前に選択の余地はないんだ」
ネヒューが指をパチンと鳴らすと同時に白い霧がリュダとウルの身体に密集する。纏わりつくような感覚にリュダは小さく悲鳴を上げた。
「それにお前のツレは、拒む気もないようだ」
「え?」
目の前が純白に覆われる。鮮明に見えていたはずのネヒューの黒鎧すら霞むほどの強烈な白だった。
視界が全く遮られる直前、リュダが見たのは挑発的な美しい笑みを浮かべるウルの顔だった。