疑惑
朽ちた黒い大地から一変し、結界の向こう側は瑞々しさすら感じる青の大地が広がっていた。死の世界から帰還したような安堵がある一方で、背筋に一筋の汗が垂れている。その原因が支配者のように威厳を放つ黒の大樹のせいであることは明白だ。
異質なそれに共鳴するように、ルージュの体内で闇が蠢く。最初はより強大な闇に怯えて震えているのかと思ったが、すぐに思い直す。彼の中に埋め込まれた闇は誰かに平伏すような奴ではない。傲慢で支配欲が強く、闇のけん族としては最凶の部類に入るものなのだから。
「巫女のいる神殿はここから遠いのか?」
気だるそうに守護獣が訊ねた。歩き続けた疲労を訴えているというよりも、制限時間が気になっているようだ。
「神殿は大樹を監視するために、近くに建てられている。歩いて15分といったところだろう」
「それは良かった。ここから半日かかるとか言われたら、さすがに徒歩じゃきついからな」
ルージュが守護獣と同様に気だるそうに言った。
「巫女の保護が先決だな。まずはこっそり侵入して巫女を保護しよう。神殿の構造は?」
「神殿の入り口は正門と裏口がある。天窓もあるが中から鍵を解除しないと侵入できない」
ラスタが回答したと同時に握られていた石がジジジ、と鈍い音を立てた。
――ら、ラ…タ。
「テティス様?」
どうやら向こう側から交信してきたようだ。うまく受信できていないようであまり音声は鮮明ではない。シーというノイズから途切れ途切れに少女の声が聞こえてくる。
――ラスタ……ようやく……繋がりましたね。
「巫女、そちらの状況は?」
――今は……不在です。だから連絡が……できま……た。ところで…シエラは?
結界石から聞こえるのは幼いながらも凛とした落ち着いた声だった。風の巫女が相当老成しているのか、あるいは――。
ルージュは目にも留まらぬ素早い動作でラスタから石を奪い取り、小さく咳払いをした。
「申し訳ありません。守護獣は未だ見つかりません」
傍らで長身を見上げるティラも、石を取り上げられたことにようやく気付いたラスタも目を丸くした。ルージュの口から飛び出した声が彼のものではなく、まさにラスタのものに酷似していたからだ。
「時間がありません。もはや今から見つけだすことは難しいと思われます」
怒号さえ上げそうな剣幕のラスタに対しルージュは真顔で人差し指をたてる。静かにしろ。幼子でも分かる簡単な合図である。
「そこで貴女を救出する策に切り替えました。神殿の状況を詳しく教えていただけませんか」
巫女はしばらく沈黙した。シーという単調な音だけが聞こえる。
――わかりま……た。敵は大樹の調査に向かい……した。今なら……手薄です。
ルージュは口元を緩ませて周囲を見渡す。そこには静まりかえった草原と黒い巨木しかない。
「なるほど。それではすぐに神殿に向かいましょう。我々は念のため神殿の裏口から侵入します。テティス様は待機してすぐに逃げ出せるようにしておいてください」
結界石は沈黙した。やがて一方的に通信は切断された。
「どういうつもりだ」
若干鼻を膨らまし、ラスタは語調を強めた。爆発しそうな感情を抑えているのが容易に分かる。
「テティス様は守護獣を探しておられるのだ。欺く必要があるのか」
ルージュは今にも首元を掴みそうなラスタを制止し、愉快げに笑っている。
「欺いているのはどっちだろうな」
そう言いながら肩を竦める男の真意が分からず、ラスタは首を傾げる。何かを問いただす前にルージュは深緑の瞳に大樹を映しながら、更に言葉を続ける。
「アンタはおかしいと思わないのか。俺達は大樹の目の前にいるんだ。どこに魔族の集団がいる? 神殿から大樹まで15分しかかからないのだから、まだ到着していないとは考えにくい」
「だが……」
「不審な点はそれだけじゃない。あれは本当に巫女の声か?」
ルージュの指摘に顔を紅潮させラスタは吼える。
「馬鹿にしてるのか?! 音声は悪いがあれはいつも聞いている巫女の声だ!」
「さっき訊きそびれたんだが、アンタはいつから東で諜報を? まさか1年や2年のわけがないだろう。一等兵のラウムと同期ならば、ある程度のキャリアがあることくらい容易に分かる。更にさっきアンタが言ってた通り関所を誰も通過したことがないというなら、アンタ自身も西に帰っていないってことだろう。5年や10年の長い期間直接会ってもいない通話相手を自らの主と疑わないとは、なかなかの忠誠心だな」
「な……、こちらが黙っていれば好き勝手に……」
怒り心頭のラスタの耳に再び思わぬ声が飛び込んできた。
「ラスタ、私を疑うのですか?」
冷水を顔面にかけられたように、ラスタは再び目を丸くした。そして眼前のにやけ面をした男から放たれた声であることは分かりながらも、彼は思わず周囲を見回した。その声色は風の巫女テティスのものに酷似していた。
「お前……どういうことだ」
先ほどのラスタの口真似ですら度肝を抜かれたというのに、今度はあの清廉な澄んだ声色が眼前の憎き冒険者から飛び出したのだ。問いたださずにいられないのは当然だろう。
「ははは、ビックリしたか」
ラスタの反応は観客として百点満点だ。大道芸人ルージュの心が満たされたのだから。
「魔素をうまく使えば、こんな真似もできちゃうんだよな。知らなかったか?」
「魔素? お前は一体……?」
魔素とは魔族の力の片鱗であると言われている。魔素に冒されると大概の者は力そのものに食われてしまうが、ルージュや第一騎士団の連中は埋め込まれた魔素を制御する術を身に付けている。何かに化けることに長けている魔族の力を一部利用することなど容易いことである。
後ずさりするラスタの右手は腰に身に付けたソードを握り締めている。膨れ上がる警戒心に苦笑いし、ルージュは両手をヒラヒラとさせて無害を主張する。
「俺の身体は訳アリなんだよ。それを明かしてでも伝えたかったことは、ただひとつだ」
先回りするようにティラがその先を繋いだ。
「あの声が真の巫女ではないということだな」
「さすが。物分かりがいいワンちゃんだ」
ルージュが口端につり上げて褒め言葉を述べたが、ティラは興味なさそうにフンと鼻を鳴らしただけだった。
「確かに西ウェルシュは魔族に占拠されているようだ。だがそれは昨今の話ではない。ま、あくまで仮説だがな、アンタが東に移ってまもなくして既に西ウェルシュは堕ちてたと思うぜ。少なくとも守護獣捜索を指示し始めた頃にはな」
「何を根拠に……?」
「風の巫女がこの国の真実を知るなら、守護獣を求める必要がないからな。まぁ根拠は薄いさ。国の情勢が変われば施策も変わるものだ。本当に剣が必要だったのかも知れないし、ただのきまぐれって可能性もある。ただな、やっぱり引っかかるんだよな」
ルージュはそう言いながら未だ握られた水色の石を眺める。
「きまぐれ巫女のわりには落ち着きすぎてる。知性的なわりには後先考えないワガママ巫女だ。こういう時のキャラクター設定には一貫性が重要だって、魔族の奴らは知らないのかな」
ルージュはそう言い「行こうぜ」と進行を促す。
「……巫女をどうするつもりだ」
ラスタは煮え切らぬ様子で問う。
「さあな。会ってから考えたら済む話だろ。今は推測しかできない。俺がさっき言った話も俺の直感とリッチな想像力で膨らませたものにすぎないんだからさ」
ラスタの中には灰色の極めて不鮮明な感情が渦巻いていた。どんなにかき分けても前へ進むことができない海で溺れそうな心境である。
ラスタは諜報員としての任を言い渡された若き日のことを思い出していた。当時は巫女が幼すぎて彼に仕事を与えたのは巫女の代行者――つまりは彼女の側近であった。
要するにラスタは巫女の要求を叶えるために東に潜み様々な情報収集をしていたが、巫女自身については何も知らないのだ。結界石を通してのみ繋がることができる主人。その虚ろな存在を盲目的に信じていた。
「疑え」
突然ルージュの言葉が彼の胸を刺した。
「疑って自分の頭で考えろ」