関所
風の守護獣をナシュアに預け、ルージュとティラはラスタと共に森を抜け、ルエンダの市街地に戻っていた。まだ陽が昇っていないからか、道歩く者は少なかった。目に入るのは空を優雅に飛ぶ白い鳥と店準備を始める違法な路商くらいだ。
「西ウェルシュには関所から入るのか?」
言葉少なに足を動かすラスタの行き先が分からず、ルージュは問う。ラスタを全く信用していないわけではないが、時間が無い分無駄な寄り道は省くべきだろう。
「西ウェルシュは侵入者を防ぐために結界で守られている。関所と呼ばれている場所を通過するには手形が必要だと聞いただろう?」
「ああ」
「東西が分かたれてから関所を通過した人間はゼロだとは聞いたか?」
ルージュは首を横に振る。関所とは名ばかりだと言うのか。
「関所と言っても誰かが門番のように守っているわけではない。関所は結界が最も弱いところで、手形と呼ばれる特殊な石があれば破ることができる」
こめかみに滲んだ汗を拭いながら早口でラスタは言った。大して暑くもないのに汗が伝っているのは彼の焦燥の表れかもしれない。ラスタはマントの内ポケットから拳大の水色の石を取り出した。
「この石は向こうからの通信手段にもなる」
「結界石か」
「ご存じのようだな」
「便利な石だ。昔これを使って盗聴されたことがある」
エルースで第二騎士団の団長だった時、部下が結界石を彼の部屋に仕掛けたことがある。
ある日突然ルージュを訪ねてきた女がいた。ルージュは厳しくもあり優しさもある団長であったため、第二騎士団の騎士達からの敬愛の念は強かった。一方で女の影も匂いも全くない硬派な団長であったため、突然現れた女神の存在に騎士達は湧いた。確かに訪問客がルージュにとって大切な存在であったことには変わりないが、部下達が期待した展開になることもなく、結界石を見つけた団長の逆鱗に触れただけだったが、今となっては楽しい思い出だった。
結界石はその名の通り、侵入者を排除する結界を張ることができる魔石だ。魔石は対となっており内側と外側で連絡が取れるような仕組みだ。エルース独自のものかと思っていただけに驚いていた。おそらく西の国で巫女が結界を張り、片方の石を諜報目的にラスタに預けたのだろう。
人影がちらほら目に付き始めた頃には市街地を通り抜けてルージュ達はひたすら西に向かって歩いていた。既に建物は疎らに存在している程度で、ルエンダの高度文明の片鱗も感じさせない。砂利道を歩けば歩くほど霧深くなっていることにルージュは気付いていた。
「大丈夫なのか?」
ティラが唸るような声で訊いた。
「心配せずとも西ウェルシュには無事に入られるさ。ただ入ったところでアンタらがあの魔族達に本当に勝てるのか」
なるほど。半信半疑なのは相手側らしい。
「愚問だな。勝算がなくてわざわざ出向くと思うか?」
ルージュは不敵に笑う。とはいえ、レリスの古城でエルースの刺客達に勝利できなかったのだから、少々の劣等感があるのも確かだった。彼の中に根付いた力が疼いているのか、自身の精神が溢れんばかりの闘争心を宿しているのかは不明だが、いずれにしろを不名誉は払拭する必要がある。
突然胸をざわ せるような一陣の風が吹き抜けた。短く生え揃った雑草が喰い荒らされるようにまき散らされ、眼前に立ちこめた濃霧を拡散させていく。
白の帳の先に見えたものにルージュは驚愕した。
「あれは……大樹?」
意外だったのはラスタがルージュ同様目を見開き声を上げたことだった。
「霧が晴れるとは……」
ラスタは僅かに唇を震わせ、霧の奥から姿を見せた黒い大樹を見上げた。吹き抜けた風に幹を揺らし葉を擦らせるそれは巨大な怪物のようで不気味に感じられる。そう感じてしまうのは、視覚で知覚されたもの以外の、ただならぬ気配に起因しているのかもしれない。
「結界が弱まっているのかもしれない……」
「嫌な予感がする。急ごう」
そう言ってルージュは歩調を早めた。ラスタは眉間に皺を作り、小さく頷いた。
竜の所在に関する手がかりを求めてウェルシュを訪ねたとはいえ、この国に根付いた闇の大樹が巫女や守護獣に密接に関与している以上、放置はできないだろう。あの黒い樹からはエルースが、あるいは世界が抱える闇と同じような強大な気配を感じるのも確かだ。霧の結界であれほどの闇を隠蔽した巫女の根性と根気に感服するばかりである。
「ラスタは西ウェルシュで生まれたんだよな」
沈黙を破りルージュが訊ねると、緊張で強ばっているラスタの顔面が彼の方に向けられた。
「いきなり何だ。オレのことを語る必要があるのか?」
「これから共闘する仲間のことを知りたいと思うのは普通のことだろ」
ルージュが肩を揺らして笑う。「な」と上機嫌な声色で傍らを歩くティラに同意を求めるが、呆気なく無視されて可哀想な状態になっている。霧が晴れた異常事態の重大さが分かっていないのだろうとラスタは呆れた。
それでもしばらく悩んだ後、ラスタは簡単に自身のことを語り始めた。
「オレの一族は内乱後に巫女に仕えるようになった。オレは幼い時から諜報役として訓練されていたんだ。かつては西と東を行き来して軍やら街やらを監視していたが、前の巫女シウル様が亡くなられ、巫女テティス様が任に就いてからは秘密裏に東に定住して常に守護獣の所在を捜していた」
「なるほど。今回の一件より以前から守護獣は捜索されていたんだな」
「あぁ、シウル様は生前守護獣の所在について全く言及されなかったから、テティス様は常に気にされていた」
内乱の真実を巫女はどれほど認識しているのだろうか。事情を知りながら守護獣の捜索を指示するのは、どうも判然としない。
巫女が守護獣を求めるのは自分の身に危険が迫っているときだ。離れるという行為で弊害が生じることはないだろう。そうでなければティラやシエラのように主人の元を離れていくことは不可能だ。では一体何故――。
ふいにルージュは思考を停止する。深く入り込みすぎては動けなくなる。物事に必ず理由や動機を求めてしまうのは我ながら悪い癖だな、と反省し無意識に頬を掻いた。
「着いたぞ」
辿り着いたのは予想外の場所だった。
「ここは……」
ルージュが訪ねると、ラスタはゆっくりと右腕を上げる。指をさす方向には巨人に抉られたような大地があった。まるで隕石の衝突跡地だ。その地面は熱を放ち、未だに生きとし生けるものを駆逐せんと目を光らせる獰猛な生物のようだ。
視線を更に前に向けると、巨大なクレーターは綺麗な円を描いていないことに気付く。まるで上弦の月の如く、それは綺麗な半円を描いている。
「かつてここで大爆発があった」
淡々とした口調でラスタは言った。
「シエライトのエネルギーを抽出して大樹を破壊しようとした。まぁ守護獣の力を舐めてたんだな。制御できずにドカン。この結界の裏にある大樹はその衝撃があっても倒れることはなかった」
爆心地のわりに奇妙な半円を描いているのは、大樹の力が衝撃をかき消したからだ。そうとなれば、この邪悪な樹は計り知れぬ力を宿した化け物だ。
「で、関所と呼ばれる場所はここだ」
ラスタが額に滲んだ汗の粒を拭いながら言った。
「結界の中に入るぞ。残された時間はあまりないからな」
返事を待たずして、霧が晴れたばかりの鮮やかな青空に向かって、ラスタは結界石を掲げた。石は魂が宿ったように淡い白い光を放ち始める。やがて景色が歪み、何もなかったはずの空間にすっぽりと人間1人を飲み込めそうな丸い穴が生まれた。強制的にねじ曲げられた景色を復元せんと、穴は今にも閉じようとしている。
不安定な扉に躊躇う暇はない。ルージュは傍らの黒く美しい巨獣に視線を向けて、浅く頷くとぱっくりと開かれた入り口に飛び込んだ。