美しい男
黄金色の柔らかい猫毛を風に靡かせながら、彼はスイードの丘から見える大都会を深紅の双眸に映していた。美麗なその容貌に傍らに立っていたリュダでさえ息を呑んだ。美しくもあるが華奢でもない。街に出ればさぞかし多くの女性が振り返るだろう。
「ウェルシュはおっきいな~」
東から差し込む陽光を片手で遮断しながら、ウルは弾むような口調で言った。その視線の先にはルージュ達がいるはずの主要都市ルエンダは勿論のこと、その先にある国と国の境界にある障壁も見えた。
更にその先の景色はいつも霧に覆われて見えない。事実、今も白けた朝の空に立ちこめた靄のせいで西の国の様子は確認できなかった。何者かが西ウェルシュそのものを霧の結界で覆っているのだ。それが西に住む風の巫女の仕業であることなど容易に想像がつく。
「ねぇ、おれ達が勝手に出ていったら、後でおれが大目玉食らうんだけど」
「行き違いになったらの話だろ? 問題ナシ! むしろさっさと合流しちゃえば向こうの手間も省けるじゃんよ」
軽快な口調に爽快感すら覚えるが、この後勝手な行動をしたことで、実際に怒られるのは自分だということを考えると、ありったけの釘を刺すくらいの努力はすべきだろう。
「あんたさ」
「アンタじゃねーよ。ウルだって言ってんだろ」
「じゃあウルさんは記憶ないんだよね?」
リュダの問いにウルは身体をわざとらしく震わせて「気持ちわりぃな」と笑う。
「『ウルさん』は 勘弁してくれよ。ウルでかまわねーから」
リュダは面倒くさいと呟きそうになるが、ぐっと堪える。資質を使い従属させることを怯ませるほどの圧倒的な美しさだった。脱水症状時は感じなかった端麗な容姿は動き出すことでより煌びやかに見えた。
「じゃあウル。あんたは記憶が無いって言ってたよね」
「無いなんて言ってねーよ。ただ頭がぐちゃぐちゃしてるだけだ」
「そうだとしても、えらく前向きに見えるんだけど。普通の人は目覚めて記憶が曖昧だったら、元気なくなると思うよ」
馬鹿なことを言うな、と云わんばかりに、ウルは肩を竦めて笑う。
「普通の人とか決めつけて全てを枠組みにはめようとすんなよ。いつかちゃんと思い出すって」
ウルは丘に転がる巨石にピョンと飛び乗り、執拗にルエンダの街を眺めていた。
「リュダの連れ、ルージュって人はあの街にいるんだろ?」
「たぶんね」
「じゃあ街に行って合流しようぜ」
人懐っこい少年のような笑みはリュダにとっても好感の持てるものだった。思わず「そうだね」と声を上げそうにもなるがぐっと堪える。
そもそも何故この美しい容貌の男は、やたらと仲間との合流を促すのだろうか。不審に思いリュダは記憶が曖昧な彼に尋問をしてみる。
「ウルって不思議な色の瞳をしてるね」
豆鉄砲を食らったように、ウルは目を丸くした。
「何だよ、さっきも指摘してたな。そんなに変か?」
「いや、フューリはみんなそうなのかと思って」
突如ウルの表情が強ばり二人の間を通り過ぎる優しい風の流れが一変した。
「フューリ?」
リュダはその変化に気付かないほど鈍感な少年ではない。むしろあえて踏みつけた地雷がうまく作動したことにほくそ笑んでいたくらいだ。
スイードに到着した夜、ベッドで目を閉じ深い眠りに誘われるのを待っていた時に、思いつめた顔をしたルージュが零した内容はリュダも知らぬ不思議な民族の名前だった。
「ウルはフューリだろ?」
一瞬の間はあったが、平然とウルは訊ねる。
「フューリって何だ?」
「思い出せないの?」
ウルはぐるりと目を回した後、緩やかに首を横に振る。
「さっぱりだな」
「フューリは竜を信仰する民族だよ」
ウルは眉根を寄せて小さく唸り、「竜」とそのあやふやで荘厳な存在の名前を、指でなぞるように反芻した。しかし呆気ないほど簡単に眉間に刻まれた谷は消失した。
「やっぱ無理だな」
記憶混濁を訴える青年自身よりもリュダは大きく肩を落とした。そんな彼の様子に「リュダがそんなに気を落とすことないだろ」と調子良く声をかける。
「なんでおれが凹んでんだよ。お前、凹むとこだろ」
「くよくよしたって仕方ないって。記憶なんて何かの拍子に思い出すもんだし」
朝靄に沈んだルエンダの街を眺めながら、ウルは悠然と言ってのけた。どうやらこの美しい男、相当図太い神経の持ち主か、相当の馬鹿かのどちらからしい。
ふいに表面がゴツゴツした巨石から飛び降り両足で着地したウルは、「ぼやぼやしていられねぇみたいだ」と困った笑顔を浮かべる。
「どういう意味?」
ウルはリュダの問いに答えないまま歩き出す。
「リュダには世話んなった。感謝してるよ」
振り返りその紅い二つの瞳で、手足の伸びきっていない白い少年を見つめる。
「だからアンタの力になりたいんだ」
「じゃあ……」
頼むからおれの言うことを聞いてくれ、と続く前にウルは微笑を消して「なんとなく思うんだけど」と続けた。
「急いだ方がいい」
「え?」
「嫌な予感がする」
表情のない彼は出来の良い彫刻のようだった。その口から不吉な予言が飛び出したのだから、リュダは背筋に冷たいものが伝うのを感じずにはいられない。
すっとウルの左腕が上がる。長い人差し指が立てられている。指さす方向では白い霧がシルクのカーテンのように掛かっている。それをスクリーンとするように巨大な黒い影が映し出されていた。
「木?」
何故あれほどの巨木の存在に気付かなかったのだろう。リュダは信じがたくて目を擦り、再度前方を見やる。黒い影はその実体を主張するように、色を鮮明に放っている。
「さ、行こうか」
ウルは有無を云わせぬ強い口調で言い放ち丘を下り始める。先に動き出し背後でまごつくリュダを振り返りすらしないのだから、彼はリュダがいようといまいと突如出現したあの黒い影の元へ向かうつもりなのかもしれない。それは困る。
フューリは少なからずルージュにとって何かしらの因縁があるようだ。助けた男がフューリかもしれないという可能性が僅かに浮かび上がっただけでルージュをあれほどのどんぞこに突き落とすのだから。興味があった。自分のことを多く語らないルージュの過去を握る貴重な人材だ。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
結局、この自由奔放な男の背中を追いかける羽目になってしまう。ここにルージュがいたら、「とんだ王様だな」とぐうの音が出ないほど馬鹿にされるのだろうな、とリュダは溜息を吐いた。