極秘任務
朝陽が昇る。
長い長い夜が明け、大地が陽光に照らされ始めた頃、ラウムは再びリザルト副軍団長に呼び出された。昨日夕暮れ時にクルーゼ博士襲撃を知らされた時も呼び出され、その時のアリバイを確認されたが、結局証明する術は何もなくうやむやになった。要するにスパイ容疑は晴れることはなかったということだ。
「ラウム=ニステル、参りました」
早朝から呼び出されたラウムは寝起きだということを忘れるほどに緊張していた。
「昨日に引き続き、呼び出してすまない」
「いえ……」
本当は内心苛立っていた。ほとんど夜通し眠れず、太陽光が窓から射し始めた頃ようやくうつらうつら眠気がやってきた時にけたたましい内線で起こされたのだ。沸き上がる感情を抑え込んで、彼はまっすぐにリザルトを見た。
「寝られなかったのか」
血走った目に気付いたのか、副軍団長は憐れむような視線を彼に向けた。そこでリザルトの目も充血し、その顔に疲労が滲みだしていることに彼は気付いた。
「まぁ……そうですね。昨日はいろいろありましたから」
誇張表現ではなく本当にいろいろあった。突然ふっかけられたスパイ容疑、死んだはずのナシュアとの再会、クルーゼ博士の襲撃被害。どれも唐突すぎて頭が混乱している。多少の混乱は睡眠をとることで脳が整理してくれるというが、ほとんど眠っていない彼の頭の中は散らかったままだ。
「クルーゼ博士の容体は大丈夫なのですか?」
かつてはシエライト製造のことで彼ら兄弟が対立したと言われているが、既に和解し、双方の間には強い信頼関係があることをラウムは知っている。
「あぁ」
リザルトは短く曖昧な返事をした。どこか覚束ない返事に違和感を覚えながら、ラウムは「それは何よりです」と微笑を浮かべる。
「博士とは話したのですか?」
「あぁ。昨夜、奴はここを訪れたからな。厳重な警護の元、仰々しく凱旋したわけだ」
そう告げるリザルトの目は上の空で、しきりに周囲を気にしているようだった。やはり何かおかしい。
「その割には昨晩は静かでしたが」
「完全にお忍びというやつだ。再度襲撃されることを恐れながらも、重要な用件を伝えたくて軍にやってきたようだ」
クルーゼが伝えた用件。それが彼を呼び出した理由に直結しているであろうことを彼は予感していた。
「クルーゼは襲われた際スパイの目的が守護獣であることを知った」
「守護獣? いなくなった風の守護獣ですか」
拍子抜けし、頬を緩めたラウムだったが、リザルトは構わず続ける。
「私は未だお前がスパイではないという証拠を手にしてはいないが、違うであろうという予想くらいはできる」
「ありがたい話ですが……何故?」
「私はこの軍で誰よりお前を理解しているつもりだ。長いつきあい、という意味でな」
説明になっていない。声を上げようとした時、リザルトの口元に人差し指が当てられていることに気付いた。押し黙る教え子の様子を見届け、リザルトは満足そうに頷いた。
「そんなお前を信頼してこの国の真実を話すのだ。真実を知った上でお前に極秘任務を任せたい」
極秘のわりには声量が大きいな、とラウムは思った。首を傾げる彼に構わず散らかった机上に一枚の紙切れが置かれ、踊るようにリザルトの右手が動いた。メモに書かれた文字を見届け、彼は絶句する。そんな矢先、リザルトの足下で巨大な黒い影が渦巻くのが見えた。
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太陽が傾いた夕暮れ時、ラウムはシエライト製の黒鎧で身を包み、東の外れの森を歩いていた。彼がこの森を訪れるは初めてではない。リザルトがまだ士官候補生達の指導者だった頃、ラウムはリザルトの勧めでしばしばこの森を訪れていた。
彼は繁茂する木々の間に延々と続く畦道を歩きながら、成人になったばかりの若き頃を回顧していた。
どんなパーティにも支援は重要である。ラウムが軍に入り最も得意だったのが、軍に入団したものなら誰もが疎んじる支援術と医術だった。軍に入団して初めての実戦は郊外の森に住み着いた魔族の討伐だった。引率者は名前どころか顔すらも覚えていないが、引率者補佐がリザルト先生だった。
共に入団した仲間達は皆手柄を得んと前に出たものだった。一方でラウムは前に出ることはせず、同行した5人の仲間達の背後で支援に徹していた。引率者は前線に立った者達を勇気ある戦士と誉め、後援に回ったラウムを弱虫と蔑んだ。そんな彼をリザルト先生だけが唯一認めてくれた。
「オレは将来軍医になりたいんです」
訓練の合間にラウムは胸の内を打ち明けたことがある。
「オレはこんな厳つい容貌ですけど、前線で戦うのではなく、戦い傷ついた者達を救う人間になりたいのです」
リザルトは精悍な瞳でラウムを見つめ静かに頷くと、この森の存在を教えてくれた。森には怪我やら病気やらによく効くという数多くの薬草が生息しており、数年前まで彼は勉強のために暇を見つけてはこの森を徘徊していた。季節が季節ならば、色彩鮮やかな花が咲き乱れていたかもしれないが、まだ蕾を確認するにとどまっていた。
今朝、リザルトがラウムに伝えた極秘任務。その任務を命じられた時は驚愕した。そして与えられたメモに当惑し、呼吸することを一瞬忘れるほどの衝撃を受けた。
この重要な任務を全うしなければならない。これは無力な自分にリザルト先生が与えてくれたチャンスなのだから。彼が拳を握り締めると、クシャリと薄っぺらな紙切れが潰れる音がした。
整備されていない道無き道を突き進むと、夕日で橙に染まった泉が見えた。ラウムは周囲を見回す。決して鋭敏とは言いがたい己の神経を研ぎすました。
数時間の経ち、太陽は地平線の向こうになりを潜めた。燦々と輝く夕日とは対照的に、くぐもった淡い光を放つ白けた月が姿を現した。
リザルトが口にした話はにわかには信じがたい内容だった。こんな僻地に内乱以降姿を眩ました守護獣がいると聞いて誰が信じられるだろう。
そんな半信半疑な彼が何度か瞬きをした刹那に、泉に溢れ始めた淡緑色の光。その中心で優雅に佇む華美な存在に気付いた時、彼は息を呑んだ。
――守護獣?!
水面の上空に浮かび上がる純白の鳳はエメラルドグリーンの澄んだ瞳をこちらに向けていた。何かを訴えるというよりは、ただぼんやりと風景を眺めるようだった。とるに足らない卑小な人間に注目する必要もない、と彼自身自嘲する。
美しい存在に魅せられていると守護獣は僅かに目を細め、羽を蠢かせた。
それと同時に背後でガササッという草木の擦れる音がし、ラウムがとっさに振り返ると黒い影が彼めがけて猛進してくるのが見えた。
「?!」
鼓膜が痛くなるほどの静寂の夜にキィィーンと金属のぶつかる高音が響きわたる。
「へぇ、お前が襲撃者か」
聖なる美しい存在の前で剣を重ねる2人の人間。状況がよく分からぬまま、ラウムはその場にへたり込んだ。全身に汗が噴き出し、涼しげな風が濡れた肌を撫でる。一気に冷えきった身体と頭で彼は状況把握に徹した。
彼を庇うようにして巨大な大剣を構えているのは、昨日出会ったばかりのうつけのような冒険者だった。
そしてそんな彼に見慣れた刃を向けているのはラウムのルームメイトであり戦友でもあるラスタ=ウィーブだった。