風の守護獣
地下は肌にまとわり付くような鬱蒼とした空気に満ちていた。月の明かりすらも届かないことが原因であることは言うまでもない。しかしそんなほんのりと感じる雰囲気を語っている場合ではない。この建物に侵入した時から感じていたあの匂い――つまりは守護獣の生み出す涙果の放つ匂いが、更に強烈になったせいで、ティラの鼻は曲がり気が狂いそうだった。この匂いに気付かず、けろっとしている少年が羨ましい。
「お前が案内しようとしているのは、まさか」
「あれ、もしかして気付いたかな。その感じだとあなたは本当に守護獣のようだね。そのナリでは信じがたかったけれど」
「小僧、随分皮肉を言ってくれるな」
強い口調で告げたものの肩透かしのようなもので、少年は小さく笑うだけだった。
暗闇に浮かび上がる真っ白な扉。少年はその前に立ち胸を張る。自らの築いた秘密基地に案内するようだった。少年が扉の横に設置されたセンサーに手を翳すと、カチャっという軽快な音がした。
「入って」
扉を開けると同時に、ティラはその先にあるものが何なのか理解した。あまりに強烈な臭気。そこから溢れ出した匂いは涙果の放つそれではない。
「珍妙な来客だな」
地下であるにも関わらず、不思議とその部屋の天窓から青白い光が射し込んでいた。天窓に映る半月が揺らめいているのは、その窓の上に水が満たされているからだろう。プールや水槽があるのかもしれない。
「まさかここに貴様が現れるとは思わなかったぞ、砂の守護獣ティラよ」
月影の土台に佇むそれの姿にティラは息を呑んだ。純白の巨鳥。空から降り注ぐ月光のせいで、銀色に輝いて見える。長い首を擡げ、深い息を吐きながら、それはゆっくりと語りかけた。
「風の守護獣……?」
「あぁ、久しいな。あの聖戦以来だ」
風が唸るような低い声が地を這う。あの臭気の元凶は涙果やシエライトではなく、守護獣の放つ特有の匂いそのものだったのだ。
「しばらく会わぬ間に、ひどく汚れたものだな」
「巫女を守るために人間を殺したのだ。我が身を堕とすことはやむを得なかった」
「守護獣の鏡だな。自らを盾に巫女を救うか。私には決して真似できぬことだ」
風の守護獣シエラは僅かに羽根を動かしながら、自嘲した。
「ところでお前は何故ここにいるのだ」
ティラが訊ねると、風の守護獣は「ウェルシュは私の住む国だ」ととぼけた。
「感動の再会に水を差していいかな」
傍らに立っていた少年がティラに視線を向けていた。その顔は青白い光に照らされ、奇妙なほど不気味に光っている。
「他国の守護獣の来訪、この国で起こっているおかしな事態。シエラ、僕はやはりこの世界では異常なことが起こりすぎていると思うんだ」
腕を組み佇むその少年に対し、守護獣シエラは「そうだな」と同意する。
「この期に竜がいなくなったことも気になる。クルーゼ、そなたの言うとおり何か不吉なことがが起こる前触れなのかもしれぬ」
「クルーゼ?」
ティラは素っ頓狂な声を上げた。シエラと少年を交互に観察し、再度首を捻る。そんなティラの様子に少年は吹き出した。
「自己紹介が遅れたね。実は僕はクルーゼの息子ではない。僕自身がクルーゼ=フィン。この研究所の所長なんだ」
ティラを見つめ、少年は薄ら笑いを浮かべたまま背筋を伸ばし、そう言った。にわかには信じがたいが、この少年がここでティラを欺く利点は何一つないことも当然理解していた。あんぐり口を開けたまま呆けた顔をしているティラを慰めるように、彼は柔和な笑みを浮かべた。
「こんな姿をしているから信じられないかな。僕こう見えて、今年56歳なんだ。僕はね、ある時から成長が止まっちゃったんだよ。成長ホルモンの分泌が人と違うんだ」
「当然信じがたいことだが、お前がクルーゼ本人だというなら知りたいことを訊けるのだから、好都合だ」
ティラはフッと鼻を鳴らし、腰を下ろした。
「先にこちらから訊ねるけど、あなたはどうしてシエライトの情報を知りたいの?」
「私が知りたいのはシエライトが何たるかではない。行方不明のはずである守護獣シエラが、巫女の元から離れ、東の国の地下で涙果を産み出し続ける理由が知りたいのだ」
ティラは煮えたぎる感情を抑え、冷めた目で白の守護獣を眺める。これが巫女の意志ならば構わない。しかしどんな理由があれ巫女を見捨てたとすれば、目の前の美しい獣は守護獣を名乗ることは許されない。ティラでさえ自身が憎悪に身を窶し落ちぶれようとも、守護獣としての誇りを失ったことはない。自分の存在はたった一人の存在を守るためにあるのだから。死を待つ可哀想な娘の盾あるいは剣であり続けなければ彼らの存在意義は失われるのだ。シエラの返答次第では怒り狂い、鋭利な牙を突き立ててしまいそうだった。
「ティラは相変わらずのようだな」
シエラは穏やかな微風のような口調で言った。笑っているようにも見えた。
「貴様はその身が汚れようとも誇り高く、そして青臭いままだ」
「シエラ、答えるのだ。風の巫女を見捨て、ここで何をしているのだ」
ふつふつと沸き上がる感情はティラを高揚させた。シエラの瞳は南の海を思わせる鮮やかなエメラルドグリーンで、その輝きが失われていないことに嫉妬さえ感じていたかもしれない。
「私は巫女の意志でここにいるのだ」
「巫女が御元を離れ、涙果を生み出せと?」
「その通りだ」
クルーゼは目を閉じて腕を組み、冷たい石壁に背をつけ、じっと話に耳を傾けている。僅かにティラが動揺していることなど、気付いてはいない。
「何故だ? この国で何があったというのだ」
ティラは問わずにはいられなかった。シエライトの製造、つまりは涙果を武器やエネルギーとして利用することを強行した東と、それに反対した西に住む巫女。シエラが巫女の意志で涙果を生み出しているならば、この構図は間違っていることになる。
「この国は危機に瀕しているのだ。30年前に漆黒の騎士が現れてから」
「漆黒の騎士だと?」
ティラはレリスの古城に現れた黒騎士のことを思い出していた。あの黒い渦から現れた道化のような男。同行している腑抜け面をしたあの男と同様、エルースからやってきたと言っていた。
だがすぐに同一人物では有り得ないことに気付く。あの甲冑から聞こえた声は若々しい青年のもののようだった。声だけとはいえ、人間が30年前から変わらぬ若さや青臭さを保つことは難しい。
「黒騎士はこの国の中心に呪いの大樹を残して去った」
黙って話を聞いていたクルーゼが「時限爆弾のようなものだ」と口を挟んだ。
「『呪いの大樹は果実を実らせ、そこから生まれる闇の卷族がこの国を滅ぼすだろう』」
「?」
「黒騎士は不吉な予言を告げ、この国を去ったんだ。僕はその場にいた。こう見えて昔は巫女の相談役だったからね」
「お前が?」
「まぁ正確には僕と弟のリザルトだけど。当時、国政を仕切っていた巫女は邪悪なる大樹に対峙しながらこう告げた。『この国を守るために大樹を隔離し、やがて生まれくる邪なるものを駆逐する準備を始めよう』。この話は東に住む国民の大半が知らない話だ。呪いの大樹が植えられたことは伏せられている。知ればこの国から人は去り、戦うことすらできなくなるかもしれない」
「西の国民は?」
「西に住んでいても全てを知る者は一握りだ。いつか邪悪なるものが生まれる日に備えて、巫女は守護獣を僕に託し、涙果の秘めた力を使って技術の進歩を図った。その目的は伏せられたまま、ね」
クルーゼの澄んだ声が大気に吸い込まれていく。呟きのような些細なものでありながら、物語を朗読するような力強さを感じる。
「今思えば僕達は国民を信頼し、全てを開示すべきだったのかもしれないね。もし国民が全てを知っていたなら、あの内乱は防げていたのかもしれない。皆が理性を維持し、ひとつの敵に立ち向かうことができたのかもしれない」
クルーゼは他人事のように感情のない声で告げた。彼の意識は遠い過去に誘われ、既にこの空間には不在のようだった。
「時は過ぎ、涙果の魔力を宿したシエライトが開発された頃に、あの事故が起こった」
口にせずとも分かったが、丁寧に少年は付け加える。
「シエライト製造の失敗、それによる大爆発だよ」