目覚め
時が流れ、既に彼らの頭上には青白い半月が輝いていた。レリスとは大きく異なり、夜を迎えたウェルシュは住民が一斉に退去したのではないかと思うほどに静かだった。時折スウェバーが宙を切り、猛スピードで駆け抜けていく。凄惨な事故も絶えないだろうな、とルージュはこの国の交通ルールと治安を憂う。
ウェルシュ郊外。彼らの眼前には巨大な白い箱型の建物が聳え立っている。ラウムとその仲間の騎士のやり取りから察するに、クルーゼ博士が襲撃に遭った直後であるというのに、屋敷はひっそりしている。既に博士は病院に運び込まれているだろうが、屋敷内が蛻の殻とは考えにくい。
「警備は厳重だろうな」
気合いと不安が混じり合ったような口調でルージュは言った。そんな彼に冷めた視線を向けながら、ナシュアは「忍び込んでシエライトの研究資料を得るなんて本気か?」と訝しむ。
「勿論だ。まあ忍び込むのは俺達じゃないけどな」
「は?」
不敵な笑みを浮かべるルージュの視線は、ナシュアには向けられていない。何もない空間。少なくとも何もないように見える空間で見えることには違いない。
「まさかお前」
「姿を消して忍び込める奴がいるなら、それに縋るのが安全策だろ」
「ティラは聖なる守護獣だぞ。泥棒のような真似をさせる気か!」
叱咤されたところでルージュが動じることはなく、「まあ落ちつけよ」と彼女を宥めた。
「本人が嫌がるなら無理強いはしないさ。俺がちょっくら忍び込むまでだ。だがリスクは3倍に膨れ上がると思ってくれよ」
冷えた夜風がルージュの茶髪を浮かび上がらせた。彼の深緑の瞳にはナシュアの苛立ちで引き攣った顔が映っている。
「ティラの意思を尊重しよう」
渋々彼女はそう告げて、すぐ傍に待機しているはずの守護獣の名を呼んだ。
――話は理解している。
「物わかりが良くて何よりだ」
ルージュが揶揄すると同時に、ナシュアが睨みつけた。彼女の率いる騎士団の兵士達が竦み上がるのも無理はない。
――私は巫女にナシュアを保護するように命じられ、ここにいる。お前の作戦も命令も知ったことではない。私の主は砂の巫女スウェロであり、その保護対象であるナシュアの意志がなければ動く必要性はない。
「だが、もし俺がここで捕まって困るのはナシュアだ。巫女を解放する手立てを見つける前に、おめおめレリスに帰る気か? 既に帰る場所を手放した覚悟はどうなる?」
ナシュアは瞳を大きく開き、息を吞んだ。そしてしばらく口を噤んだ後、再び守護獣の名を呼んだ。
「ティラ。今、事を荒立てたくないんだ」
――私は別に拒否しているわけではない。ナシュアが命じるならば、私はその任務を請け負うつもりだ。
暗闇に包まれた空間がグニャリと歪んだ。ここにいるのだと自己主張しているようだ。ナシュアがその先の言葉を口にする前に、ティラが小さく息を吐いた。
――では、行くとしよう。標的はシエライトの資料だけでよいのか。
「いや、あんたの采配に任せるよ。標的はこの国の全てだ」
――承知した。私がいない間、ナシュアのことを守れ。分かったな。
ルージュは何も言わず親指を立てて、それに応えた。
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窓の外には青白い月が輝いていた。粗末な板で囲まれた小さな部屋に響くのは、穏やかな寝息の音のみ。昼過ぎまではあの月のような顔色で眠っていた男は、既に寝返りをするほどに回復していた。
「今頃、どうしてるかな」
灯りを消したままの暗闇の中でリュダは月を仰ぎながらぽつりと呟いた。ルージュとナシュア。あの頭の切れる2人が共に行動すれば、速やかに西ウェルシュに入国する術を探し出すに違いないだろうとリュダは推測していた。
一日退屈だった。だからこそ、あのレリスの夜に彼を塗り潰しそうになった憂鬱を思い出しては深い溜息を吐き、何度も肩を落とした。
彼は視線をベッドに戻した。橙色が混じったような茶色の髪は、出会った時に比べて艶めいており、茶色というよりも黄金色に輝いているようだった。改めて観察すると、ルージュのような阿呆面ではなく聡明で整った顔立ちをしている。ナシュアと釣り合うのはこの男のような美しい男なのだろう。リュダは別行動をしている相棒の顔を思い浮かべ、ふっと頬を緩めた。
雲がかかったのか窓から差し込んでいた月光が弱まり、部屋が暗黒に染まった。一瞬視界が閉ざされ、次に月明かりが差し込んだ時には、ベッドで眠っていたはずの男の瞳がうっすらと開かれていた。
「やっとお目覚め?」
リュダは男の顔を覗き込む。
「ん……。ここは」
掠れた声で男は問う。虚ろな瞳をきょろきょろと動かしている。
「ここはウェルシュの入り口。スイードっていう村の宿だよ」
「げー…記憶が曖昧だわ。オレはどうしてここにいるんだっけ」
男は身体を起こそうとしたが、頭が痛んだのか、呻き声を上げて結局再度ベッドに倒れこんだ。リュダは部屋の明かりをつける。光が目に染みたのか、男は顔を顰めた。
「あんた、砂漠の中心で倒れてたんだよ。それをおれ達が見つけて、とりあえずここまで避難させたわけ」
男は左手で目を擦りながら、右腕を軸にゆっくりと身体を起こした。今度は上手くいったらしく、彼は真っ直ぐにリュダを見つめて「助けてくれてありがとう」と言った。燃えるような真紅の瞳が美しかった。
「綺麗だ」
「は?」
「綺麗な眼だね」
リュダはまるで愛の囁きのようなことを口にしたことを後悔し、「なんでもない」と慌てて手を振った。
「砂漠で倒れていた? オレが?」
「うん。徒歩で砂漠を抜けようとするなんておれ達くらいかと思ったよ。レリスへ行くつもりだったの」
男は口を小さく動かし、何事かを呟いていた。頭の中で散乱したままの記憶を整理し、それが口元から漏れ出ているのだろう。
「人を捜していたんだ」
「そうなの」
「でも見失っちまった」
男は拳を握り締める。その表情は硬かった。
「人捜しなんてそういうもんだよ。またレリスに行くの?」
「いや、分からない」
「そっか。でも目を覚ましてよかったよ。これでルージュ達に合流できるし」
「ルージュ? あんたの仲間?」
仲間という単語にリュダは首を傾げながら「まあ、それに近い」と曖昧な返事をする。
「ああ、名乗るの忘れてた。おれはリュダ。あんたは」
「……ウル。ウルだった。確か」
「確か?」
ウルと名乗った男は眉をハの字にしたまま「記憶がぐっちゃぐちゃだ」と笑った。笑い事ではないだろう、と思わずリュダは正論を口にした。