再会と協力
急激に時計の針が回ったようだった。ラウムが連れて行かれたのは薄暗いサンセットというバーで陽光が一切取り払われた場所だった。
彼自身ここは日頃の疲れを癒すために頻繁に利用しているため、目新しい物は何もない。強いて言うならば、こんなにも静かなサンセットを彼は知らない。営業開始時間は夕方だったはずだ。
サンセットは日暮れのビーチをイメージしたバーである。ウッドボードを敷き詰められた床に並べられた背の高い丸テーブルを追い越した先に、彼が勝手に設定しているカウンターの特等席があった。彼の特等席には長い黒髪を垂らした華奢な女性の背中がある。
その背中には彼女の面影があった。思い返せば彼の心を癒し、慰めてくれたのは、いつもサンセットの密会だった。
「ラウム」
凛とした声がカウンターから聞こえ、ラウムの身体は硬直した。さらに振り返った女性があまりに彼女と同じ顔をしていたのだから、ラウムは彼女の名を呼ばずにはいられなかった。
「ナシュアさん」
あまりにラウムがふぬけた顔をしていたからか、彼女はやや眉尻を下げて微笑を浮かべ「久しいな」と言いながら立ち上がりラウムを直視した。言うまでもないが彼女の体は透けていなかったし、足はしっかりと床に着いていた。
「本当にナシュアさん? 亡くなったと聞いたのですが」
「ほう。世間では順調に私は死人となりつつあるようだな」
彼女はそう言って、ラウムの横で物珍しそうに店内を見回すルージュに「ありがとう」と礼を告げた。
「この通り死んではいないさ。祖国には死んだことにしてあるが」
「何故死んだなんて」
「様々な柵から自由になる必要があったのでね。まぁ誰にもいろいろ事情はある」
ラウムの目に映る景色が徐々に白く曇っていく。
「ナシュアさん」
上擦った声が格好悪いのは自覚があったが、抑えられなかった。恥ずかしさはあったが、あの無表情の象徴のような女性が、顔を歪めて「泣くな」と笑う姿は、彼の荒んだ心を慰めるに充分だった。
「マスターに頼んでここを昼から開けてもらった。ここなら死んだことになっている私がゆっくりお前から情報を得ることができる」
マスターの姿はない。彼は今頃、夜の営業に向けて市場へと買い出しに出向いているはずだ。
「情報って?」
目頭に浮かんだ涙を拭いながらラウムが訊ねると、横で退屈そうにしていたルージュが「俺達は西に行きたいんだ」と言った。
「に、西ウェルシュ?」
どうしてこうも西の話ばかり。ラウムは溜息を吐いた。
「どうした、ラウム」
ナシュアが訊ねると同時に、ラウムは眼を反らした。
「オレは西のことなんて知りませんよ」
「その捨て鉢な様子だと西ウェルシュ関連で何かあったようだな」
ナシュアから的確に指摘されてしまい、もはや全てをさらけ出したい衝動に駆られた。
「想像はつく。お前が西の回し者とか言われたんだろう」
「な、何故」
「やはりな。お前は軍の中でも西のことに詳しい方だから、いつかはそういう疑念を持たれるだろうと思っていた。で、どうなんだ。本当にスパイなのか」
彼女の言葉に思わず頬を紅潮させ、声を荒げて「違います」と言ってしまった。
「そうか。残念だ。お前がスパイならこの上なく幸運だったのでね」
ルージュにはスパイ疑惑をかけられて傷心しているラウム青年が哀れに思われた。今彼は、彼自身が心から無事を喜んだ女性の手で、傷口に塩を塗られたのだ。
「単刀直入に聞くが、西ウェルシュへの行き方は?」
「知りませんよ。オレは祖父ちゃんが西出身だったってだけで、あの鎖国状態の国には入れませんし。関所が設けられていて手形がないと通れません。もう国交はないですし」
「そうか。ではあちらが今どういう情勢であるかは知らないのだな」
「知りませんよ。西は絶対秘密主義ですから。軍のトップでも掴んでる情報は僅かでしょうし」
ルージュは、同じウェルシュでありながらそこまで情報がないなんてエルースのようだと思いながら、水を差すのが憚れたので、口を閉ざしていた。
ナシュアが思案しているしばらくの間、沈黙が続いた。その場にいる全員が視線を落としてうなだれる光景は、日暮れのビーチというより鬱蒼とした墓場のようだ。
「オレは任務がありますから、帰ります」
「任務? さぼってたくせに」
ルージュが冷やかすとラウムは睨み「スパイを捜すんですよ」と語気を強めていった。
「スパイ?」
「ナシュアさんだから言うけど、うちの軍にはスパイがいるんですよ。それは分かってる。機密流出の痕跡がはっきりと残ってますからね。その疑惑をオレに押し付けてる奴を見つけないといけないんです」
それじゃあ、と呟き、踵を返そうとした時、ナシュアが「待て」と俯いたまま鋭い声を上げた。
「西ウェルシュのスパイがいるのか」
「……えぇ。それが何か?」
ナシュアはルージュに視線をやると、彼も何かを理解したと言わんばかりに小さく頷いた。2人の間にはラウムの分からない深い絆があるようで不快だった。彼自身、これが嫉妬であることは分かっていた。
「お前の任務を手伝ってやるよ」
気がつくとラウムの肩にルージュの腕が絡みついていた。鍛えぬいたラウムの太い二の腕よりは、ほっそりしている引き締まった腕だった。
「そのスパイの協力さえあれば私達は西に迎えるのだ。捜して捕まえる以外に手はないだろう」
「む、無茶ですよ。獰猛な奴だったらどうするんですか」
慌てるラウムに、ルージュが顔を寄せて囁く。
「ねじ伏せりゃいい話だろ。ヨユーだ。ヨユー」
この細い腕の男がそれほどの手練とは思えずラウムは首を傾げるしかない。