スパイ疑惑
「起きて!」
叩かれた頬がじわじわと痛み始めて、ようやく彼は腹に跨っている少年がリュダであることを思い出した。目を擦りながらルージュは身体を起こし、リュダを押し退ける。
「何だよ、何かあったのか」
「いつもに増して深い眠りだったね」
「うるさいな。誰かさんよりもおじさんだから疲れやすいんだよ」
昨夜の記憶が曖昧だった。急激な眠気に負けてそこからは覚えていない。
「戯れてないでさっさと起きろ」
目覚めに冷水をかけられたような感覚だった。ナシュアは壁に寄りかかりながら、腕を組んでルージュを眺めている。窓から差し込む陽光に黒髪が艶めいている。どうせならナシュアに起こしてもらいたかったのに、と心の中で呟く。
「東ウェルシュの中心地ルエンダへ行く。早く支度しろ」
「こいつはどうすんだよ」
ルージュが指さす先には未だ眠り続ける男がいる。昨夜よりは顔色は良さそうだ。
「誰かさんみたいなただのネボスケではないから、叩き起こすわけにはいくまい。リュダに留守番をしてもらう」
彼が眠っている間に協議は終わったらしく、リュダは物分かりのいい子犬のような目で頷いている。
「お前がよく素直に承諾したな」
「仕方ないよ。ナシュアには王威が通用しないんだ」
王威。王のみが放つことのできる威光。人は無意識に王には平伏すようにできている。いわゆる「長いものに巻かれろ」精神だ。リュダがこれを行使したせいで被害に遭った人をルージュは数人知っている。ナシュアの側近フェリンもその1人であったことを思い出す。
「私にそんなものが通用するか」
彼女は不敵に笑った。強がりというわけでもなさそうだ。むしろ彼女は王に反旗を翻す強者なのだから。
「どうするんだ。手当たり次第に回るのか?」
「まさか。ルエンダは大都市だぞ。とりあえず国のことをよく知る者の話を聞くのがよいだろう。東ウェルシュ軍に所属している顔見知りの男がいる。私が直接かけ合えばいろいろ教えてくれるだろう。ただし」
「ただし?」
「私は死んだことになっている。公に軍に姿を曝すわけにはいかない」
「そのとおりだ」
「そういうわけで、ルージュにはちょっと張り込んでもらう」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ラウム=ニステルは東ウェルシュが誇る自衛軍の兵士である。
決して広いとは言いがたい部屋で、彼は数分前に言い渡された呼出に対応すべく着替えていた。
ウェルシュの魔法技術を結集させて開発された素材シエライト。彼はシエライト製の黒鎧を身につけながら、部屋の壁に立てかけてある等身大の鏡を見つめて溜息を吐く。
尖った顎、彫りの深い顔はしばしば周囲から男前だと賛された。今は亡き親も親戚も、彼の容姿から滲み出る威厳を褒め讃え、将来有望な兵士になると口を揃えて言ったものだった。
しかし彼にとってそれは賞賛でも何でもなかった。むしろ彼を支配している劣等感に他ならず、「この顔がもう少し柔和になればいいのに」と時折知人の女や同室の友人に愚痴っていた。
彼は突然上官に呼び出された理由を考えていた。褒められる理由より怒られる理由が次々と浮かんでしまうことに苦笑する。失敗は重要なものから大したことないことまでバリエーションに富んでいる。
冷たい石壁に囲まれた廊下を歩いていると、逆方向から訓練を終えた同室のラスタ=ウィーブが歩いてきた。
「あれ、ラウム。今日は非番じゃないのか」
「呼出だよ。リザルド副軍団長直々のな」
ラウムが顔を歪めて笑うと、ラスタは「光栄じゃないか」と皮肉めいた口調で彼の肩を叩いた。
「副軍団長はラウムのことが大好きなんだよ」
「古い付き合いだからな。勘弁してほしいよ」
肩を竦めるラウムに溌剌とした笑みを浮かべ、「頑張れよ」と激励の言葉を告げてラスタは自室へと戻っていった。
彼は重い足取りで廊下を歩き、副軍団長の扉をノックする。
「一等兵、ラウム=ニステルであります」
彼が歯切れ良く名乗ると、数秒の沈黙の後「入れ」と声が返ってきた。
副団長室に入るのは初めてではない。彼は時折副団長リザルド=フィンに呼び出されお咎めを言い渡される。お互いに恒例行事のようなもので、今回も同様であると、彼はこの時は信じ疑っていなかった。
扉と向かい合うようにしてリザルドは座っていた。若輩者のラウムよりも二回りは年上である副団長は、生きてきた年月を感じさせる深い皺をいつもより多く作り、彼を招き入れた。
「ラウム、座りなさい」
リザルドは硬い表情のまま、ラウムを小さな丸椅子へと誘導する。彼が腰掛けるのを見届けてから、リザルドは小さく咳払いをし椅子に座り直した。
「思ったより早かったな」
第一声がそれだった。通常ならいきなり本題を全力投球してくるリザルドなだけに、彼は拍子抜けして「はぁ、どうも」と間の抜けた返事をした。
「最近は呼び出しても行動が遅い兵士ばかりだ。召集がかかれば5分で集まる。そんな当たり前のことが出来ない奴らが増えた」
「そうですね」
「軍の規律が緩みつつある。いつ他国に攻められるか分からぬ時に。危機感が不足している。そう思わないか」
よく喋る。まさか愚痴を聞かせるために呼び出されたのではないか、という懸念が生まれた。
そんな矢先に、リザルドが「お前を呼び出した理由が分かるか」と訊ねた。さすがに「愚痴ですか」と言うわけにもいかず、彼は口を閉ざしたまま佇んでいた。張り詰めた空気が彼の肌にべったりと貼り付き、気分が悪かった。恒例行事といえども叱られることを好むような風変わりな趣味はない。
「とあるタレコミがあったのだ」
「タレコミ? と言いますと」
副団長のこめかみに一筋の汗が垂れていることに気付き、いつものお叱りとは異なることを察した。
「お前にスパイ疑惑がかけられている」
「は?」
「お前の祖父は西ウェルシュ出身であろう」
「まぁそうですが、内乱の最中死んだそうで私は顔も知りませんよ」
今更、祖父の話などを掘り返されるとは思わなかった。言いがかりもいいところだ。
「まさか貴方までそんなタレコミを信じて私がスパイだと思っているわけではないですよね」
声が上擦ってしまう。ラウムが士官学校の学徒生だった頃からの指導者であるリザルトが根も葉もない噂を真に受けているなんて考えられなかった。
「私はお前が否定するなら信じる。しかし最近、軍にスパイが潜んでいるという疑惑があるのも事実。更にこの前の夜間勤務でお前、持ち場を離れたことがあっただろう」
「えぇ。ただあれは」
「お前が持ち場を離れた時間と犯行時刻が一致している。このまま噂が上まで伝わればお前が逮捕されるのは時間の問題だ。万に一つ逮捕されなくとも軍に残ることは難しくなる。疑惑のある兵士を軍に残留させるほど温情のある軍はない」
既に謎のスパイの存在は軍内で噂になっていた。シエライトの製造法が書かれた機密文書や軍の人事資料などの無断複写の痕跡などが残されている。まさか自分にそんな濡れ衣を着せられるとは思っていなかった。
「お前にスパイを捜し出してもらいたいのだ」
「え?」
「このタレコミについてはまだ軍団長に報告していない。しかし、お前に矛先が向くのは時間の問題だ。私は軍を守るために1週間後の定例会で上官にこの件を報告する義務がある。アリバイのないお前のスパイ疑惑を解消するには、スパイを捜し出すしかない」
リザルドは立ち上がり、ラウムの傍らにしゃがんで視線を合わせた。近付いて見ると、彼が漂わせる疲弊の色がはっきりと感じられた。
「ただの青二才だった小僧がもう三十路か。時が経つのは早いものだ」
「先生……」
「よい報告を期待している」