黒の忠義
広大な蒼穹の下、広がるのはあの古城で目撃して以来の燃えるような緑だった。何故この乾いた大地に繁栄できたのか分からないが、それらは群をなし、脆いものを抱くようにして、決して大きいとは言えない泉を囲っていた。その空を映す美しい鏡は、疲れ切った彼らの顔をも鮮明に映した。
「この水は飲めるのか」
リュダが抑揚のない声で問う。若干呂律が回っていない。
「愚問だな。この砂漠で、飲めない水がある処に立ち寄る理由はないだろう」
ナシュアは水筒の蓋を外し、躊躇うことなく泉に浸した。確かに愚問かもしれない。水面に反映されている空の下には、細粒の砂が積った水底が鮮明に見える。
ルージュも後に続き、水筒を泉に浸し、蓋を閉める前に水を自身の口へ流し込む。
予想に反して泉の水は冷えていた。喉を伝うと同時に火照った全身が冷えて、平温を取り戻していくのを感じる。この猛暑の砂漠で数時間彷徨い、ナシュアがどうして平静を保っていられるのかという命題と同様に不思議でならない。
意識せずとも体内で浸潤する感覚が過ぎり、いかに自分の体が水分を求めていたのかを痛感する。口内に広がる水が、若干塩っぽいことに気付き、思わずナシュアに視線を向けた。
「しょっぱいか? レリスの砂漠の砂は塩分が多いのだ。この底の砂のミネラル成分が溶け出しているせいだろう」
「レリスの砂漠が少女の涙で潤った、という伝説もそこから来ているのか」
「さあ。この砂漠の砂の味を知った旅人が謡ったのかもしれないし、本当に少女の涙が浸み込んでこの味を生み出したのかもしれない。卵が先か、鶏が先か。私には分からぬよ」
彼女は柔和な緑を瞳に映しながら言った。
人々に浸透した物語のような伝説だけが、隔たれた彼らの世界を繋いでいる。竜と少女。光と闇。剣と器。想像しがたい幻想だ。
――時が来たら私を殺してね。
彼は頭を振り、黒い絶望の代わりにその鮮やかな緑で記憶を満たそうと努める。
「どうした」
「いや、別に」
「ここで四半時休んだら、出発する。ここは砂嵐が通らないが、砂漠で野宿する趣味はない。さっさと抜けてしまおう」
ナシュアの話によると、夕刻にはウェルシュに到着する予定だったはずだ。確かにさっさとこの灼熱の地から去りたいところだ。ルージュは口を開かずにゆっくりと頷いた。
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「竜は見つからないのか」
部屋の片隅に置かれた椅子に座り、膝を小刻みに揺する男を眺めながら、ネヒューは「まだだよ」と端的に進捗状況を報告する。任務を遂行できない憤りや罪悪感などは一切含まれていない。苛立っているのか、部下の報告を聞いた彼の揺すりは更に加速した。
「随分イライラしてるみたいだな、ルシフェル」
今のルシフェルはホルモンバランスが崩れた更年期の熟女のようだ。彼らの主から、より強大な闇を与えられたルシフェルがこのように苛立ち、内なる闇の制御に躍起になるのは周期的なものである。可哀想に。ネヒューはそんな彼を見かける度に、欠片ほどの同情を覚える。
「こんなところで油を売るくらいなら、さっさとお前も捜しに行け」
頭を掻き毟りながら声を荒げるルシフェルに「まあ落ちつけよ」とネヒューは能天気な声をかけた。
「貴方らしくないだろう。冷静沈着。用意周到。そんな騎士団長様が闇に鬩ぎ合い、感情に身を任せるなんて、俺は見てられないよ」
「だったら退室しろ。今、お前と話していると、殺してしまいそうだ」
仮面の下で「へえ」と小さく呟き、彼は「それは嫌だな」と笑った。
「じゃあ退散するよ。でも、大事なことを確認せずに任務を遂行するのは、俺の忠義に反するから聞いてくれないか。」
「早く言え」
「俺の宿題はたくさんある。ルージュ=ヴィスランの目的の調査、闇の器の奪取、竜の捜索。どれの優先順位が高いのだろう」
彼は穏やかな声で問う。どの宿題も難問だ。エルースを拠点に世界中を飛び回ることは目に見えていた。
「分かりきったことを云わせるな。竜だ。竜を見つけ出さなければ、闇が解放されたところで、また忌わしい力で閉じ込められることになるだろうが」
最優先事項は竜の捜索。そんなことは分かっている。ネヒューに必要なのは指揮官から与えられる大義名分だ。
「そうか。じゃあ、俺は忠義に準じてそちらに専念させてもらおうかな。あいつらはもう少し俺の玩具で遊ばせてもらうとしよう」
ネヒューは忠義という言葉を口にすることが好きだった。何も考えずに適当に身を任せるだけで、評価され地位を与えられるのだから、これほど都合のいい言葉はない。それは闇に身を任せる感覚によく似ている。
忠義など所詮は言葉だ。
いつだって自分の意思を隠しておけば良い。
必要な時に取り出せばよい。
裏切ることだって簡単だ。
忠義に背くことなど、忠義を尽くすことよりも容易い。
退室したネヒューは閑散とした白の回廊をひたすら歩き続ける。