明日
気が付くとあの虹が見える丘で、彼は再び夢を見ているのだと確信した。目の前に開かれた淡い世界は頭の中で構築した空想に過ぎず、実際は自己主張する色彩のせいで鮮やかに輝いていたはずだ。この世界に巣くう深い闇が、彩りに満ち溢れた丘に存在していることが滑稽にすら感じたことを彼は覚えている。
「またここにいたのか」
呆れているようでどこか安堵しているような優しい声がした。その声の主は彼の記憶によると、王であることは間違いない。以前に見た夢とは異なり、丘で佇む男は着飾ることなく、古びた麻の服を着ていた。草臥れた衣服に相反して溌剌とした輝きのある瞳をこちらに向けている。
「探したよ、ルージュ」
王である彼が粗末な衣服を身に着けていることから推察すると、まだ影王が生きている時代の記憶なのだろう。
「俺に何か用か? 王様」
くっきりと認識できる2人の溝を感じずにはいられなかった。ルージュは冷たい物言いで距離をとらなければ、自己が崩壊しそうだった。ルージュの中に渦巻くどうにもならない憤りが、ルージュ自身を孤独へと追いやっていた。
王となるその青年は、その気持ちを理解していた。だからこそ、王でなくても無礼にあたるその口調を咎めはしなかった。
「明日、影王が崩御される」
王の死は、普通の人間の死とは異なり予言されるものだ。5人の巫女が殺され、竜の加護を得て、王の身に巣食う闇は次の器へと移される。ひたすら繰り返される歴史。
数日前に第一騎士団が巫女殺害の任務を終えたという噂を聞いた。次の巫女が生まれるまでの間に王位は継承されなければならない。
「そうか」
言葉少なにルージュはただ虹を見つめたが、やがて零すように彼は言葉を発した。
「それを聞いて、俺はどういう顔をすればいい? 器一つのために俺達の村を全て焼き払った元凶の男が死ぬことを喜ぶべきなのか?」
「ルージュ……」
「そもそもあの惨劇を生み出したのは影王なのか? 影王の身体を蝕んだ闇そのものなのか?」
その闇をお前が受け継ぐのだ、と彼はぶちまけたくなるが、一方でそれをしてしまえば何もかもが終わってしまう予感もあった。拳を握り締め、彼は奥歯を噛み締めた。
「おれはそういう闇を引き継ぐんだ」
穏やかな声で、青年が口にした言葉が胸を突いた。心を覗かれたような気がした。
「ところで身体は大丈夫か?」
ふいに訊ねられ、ルージュは目を丸くした。
「手荒な真似をされたという噂を聞いた」
「眠ってる間にな」
ルージュは首を竦める。
「戯れに魔素を注入されたよ」
青年の顔が凍りついた。血の気が引いて、白い肌が更に青白く見えた。彼はそれが何を意味するか分かっている。ルージュはもはやただの人間ではない。闇の大小はあるが、彼も闇を抱える可哀想な同胞と化したのだ。
「本来は魔素に耐え切れずに死ぬはずなのに、何故かしぶとく生き残ってしまった。もう俺には何も遺されていないのにな」
心の中に蠢くものが、彼の中に腰を下ろした魔素なのか、彼自身の憎悪なのか既に分からなくなっていた。
「俺を殺してくれ、セラ」
あの美しい虹が灰色ではなく鮮明に彩りを飾っていたのは幸いだった。もし、色を失っていたならば、ルージュは世界に絶望し、ここで自害していたかもしれない。
眉間に皺を寄せていたセラは、やがて困惑の色を若干含みながらも笑った。
「ここをお前の血で汚したくないから、どうしてもと言うなら明日にしよう」
「?」
明日ということを強調して、セラは笑みを浮かべている。
「明日、お前は」
「おれは、セラじゃなくなる。めでたく王様になる」
セラの真意が分からず、ルージュは首を傾げた。
「お前が明日になっても死にたいと思うなら、絶望してしまうような世界なら、明日セラに頼めよ。じゃあな」
遠ざかるセラの背中が妙に広く見えた。彼を見たのはあの日が最後だった。
翌日には金の刺繍が入った豪勢なローブを纏い、その智謀で世界に君臨する王が誕生した。