実験体の目覚め
目を開けると、自室にいたのでシスは驚いた。彼女は身に着けていたはずの黒の鉄鎧が脱がされていたことに気付き飛び起きたが、刺すような腰の痛みに悲鳴を上げ、ベッドの上でうずくまった。
「気付いたようだな」
彼女の枕元には黒鎧に身を包んだネヒューの姿があった。相変わらず鉄仮面を付けており、表情は分からない。
「ネヒュー。私は一体……」
シスは散らかった記憶の断片を整理するように考えを巡らせる。器を盗み逃げ出したルージュ=ヴィスランを追い、砂漠の街へと繰り出したこと。彼と剣を交え、追い詰めることに成功したこと。思い出せるのはそこまでだった。その先に進もうとすると、口の中に血液が滲み出すような不快感があった。これ以上進んではいけないと頭の中で騒がしくサイレンが鳴っている。
そんな彼女に構うことなく、ネヒューは「死んだよ」と愉快そうに言った。あまりに明快に告げたため、シスはその言葉の意味が分からなかった。
「覚えてないのか? ラザアは死んだよ」
「え?」
「まぁ仕方ない。あれはラザアの油断が招いたことさ」
散らかっていた頭の中が残酷な事実が引き金となり、目まぐるしく片付いていく。埋もれていた哀しみと憎しみが剥き出しになる。
「ラザアはあの女に殺された!」
誰に言うわけでもなく彼女は煮えたぎる感情を吐き出した。
「あいつ……許さない!」
拳は震え、瞳の裏の方が熱くなる。涙は出なかった。そんな彼女の姿を眺め「落ち着け」とネヒューは言った。同胞の死を、ましてや無惨に殺害されたことを知り、どうして落ち着いていられるのだ、と彼女は声をあげそうになる。
「熱くなるのは構わないが、任務を忘れていないか。お前達は任務に失敗したんだ。あろうことか、あのルージュ=ヴィスランに負けたんだぞ」
冷たい声だった。ネヒューの素顔を知らないシスはその仮面の向こう側の顔を想像することすらできないせいで、空虚な闇と語り合っているような感覚になる。
「ラザアは死をもって非に報いた。さて、お前は何を持って償う?」
その瞳を覗き込むことすらできないのに、発せられる眼光に刺されそうになる。
「……どうしろと言いたいの? 貴方のことだから何かあるのでしょう?」
「察しがいいな」
「用ナシなら、私は自分の部屋で目覚めることはないわ」
「そうだな。用ナシなら俺がとっくに殺している」
シスはごくりと唾を飲んだ。もはや彼の提案を拒否すれば消されるのだろう。
「お前に魔素を再注入してやるよ」
「再注入?」
再注入をした例など聞いたことがない。ただでさえ魔素を制御することに必死なのに、これ以上注入されたら、力は暴走し魔族に成り下がるのは明白だった。
「弱い奴は生きている価値がない。その考えにおいてはルシフェルと俺は一致している。魔素を与えるというのは、存在価値を与えるということだ」
「それが私でなくなったとしても?」
「『お前』という存在は器に過ぎない。お前の自我が失われようが、飲み込まれようが、俺達にはどうでもいいことだよ。ましてあの方にとっては『お前』という卑小な存在よりも、強力な魔族の方が喜ばしいのではないか」
「これはあの方の指示なの?」
「まさか。あの方はまだ深い眠りについているよ。ちなみにルシフェルの指示でもない。これはあくまでお前という部下を戒める俺の義務と好奇心によるものだ」
これが絶望だ、と耳元で囁かれるような気分だった。眼前で鈍く光る黒鎧がくすんで見えた。
「注入はいつなの?」
「俺がここに何故いるかを考えれば分かるだろう? 俺は気を失った可哀想な部下が目覚めるまで付き合うほど優しくはない」
ネヒューはシスの目覚めを待っていたのではない。実験体が目覚めるのを待っていたのだ。
「貴方が魔素を?」
ネヒューは答えなかった。ネヒューは黙ったまま、ベッドで身体を起こしたシスの横に座った。そして彼は顔に着けた鉄仮面を器用に外し、シスの方を見た。
シスは目を見開いたまま、息をすることを忘れていた。ネヒューの素顔を知る者はほとんどいないと言うのだから、彼が顔を曝したというのはシスの「終わり」を意味しているのだろう。気がつくと頭の後ろに腕を回されており、ネヒューの顔がすぐ近くにあった。そこで発せられる言葉が愛の囁きだったならば、彼女の中の僅かの希望は消えることなく残っていたかもしれない。
しかし実際は違った。
現実は死よりも残酷な生を突きつけられただけだった。
「闇に身を任せろ」
彼女のふっくらとした唇にネヒューの体温を感じさせない冷たい唇が覆い被さった。彼女の中に流れ込むウネリはあまりに鋭く、喉元が張り巡らされた棘に引き裂かれていくようだった。耐え難い苦痛に身を捩るシスをがっしりと押さえつけ、ネヒューは邪悪なウネリを口元から容赦なく送り込んでいく。
やがて、シスが抵抗することもできなくなった時、彼女の瞳が緑色に妖しく光った。