黒鎧の道化
「ラザア!」
シスは泣き叫ぶような声を上げた。先ほどまで剣先を受け止め、命の取り合いをしていたルージュも思わず手を止めた。
ラザアは顔面からぞっとするような鮮やかな紫の血液を流しながらも、悶えながらその場に立っていた。両手で顔を覆い、身体をくねらせる様は狂った魔族そのものだ。
「痛い……痛いよ」
覆う指の隙間から垣間見えるラザアの顔は、既に人間のものではなかった。フサフサと黒く太い毛を全面に生やし、歪んだ容姿をした邪悪な獣だった。
「熱い……アツ…イ」
見る見るうちに変貌を遂げていくラザアの姿を眺めるナシュアは、若干目を丸くしているものの、あくまで冷静にその様子を観察しているようだった。優越感に浸るわけでも、勝利の余韻を噛みしめるわけでもなかった。
「イヤだイヤだイヤだ! 私はここにいるの。呑み込まれたくない呑み込まレタクナイ!」
泣き崩れるように、顔を覆いながらラザアは膝をついた。悪魔が咽び泣くような、おぞましい光景だった。その苦痛は見ている者にも存分に伝わった。鼓膜を捻り潰すような鈍い叫び声が何よりの証拠だった。
ナシュアは紫色の血が滴る刃を再度ラザアに向けた。躊躇うことなく彼女はその刃先を背中から心臓に向けて貫いた。次は叫び声を上げることはなかった。無音、無声だった。佇む女性も転がる骸も物質のようだった。
ラザアが死んだことに逆上したのはシスだった。ルージュに向けていた刃をナシュアに向け直し彼女は大声を上げて突進してくる。
「よくもラザアを!」
剣と剣が交わり、衝撃波と呼ばれるものが放射線状に広がる。
「お前も騎士なら分かるだろう。刃を握り相手に向けるというのは、命を落とす覚悟があるということだ」
ナシュアはつまらなそうに淡々と告げた。
「お前達は力に傲り、覚悟を欠損していたようだが」
「何をっ!」
憤怒しているシスは何度も「許さない」と口走っていた。眉をつり上げ鼻を膨らます彼女にはあの妖艶な佇まいが微塵もなくなっていた。剣を振り回すシスは既に集中力を欠いているのが明らかだった。
「帰れ。私は好きで戦ってるわけではない」
ナシュアは器用にシスの剣閃を回避しながら、時折攻撃した。その度にシスの赤黒い血液が四肢から弾けるように跳ねた。その様子をルージュは険しい表情で見つめていた。
やがて、シスはぜぇぜぇと息を切らしながら、猛攻の手を止めた。
「ラザアはまだ……14歳だったのよ」
彼女は絞り出すような声でそう言った。
「破天荒で無邪気な可愛い子供だった。あんたはそんな子を殺したのよ!無惨に。非情にね」
シスは人間の誰もが通常持つはずの罪悪感を煽ろうとしていた。心を抉り、揺さぶりをかけようとしていた。
しかし目の前の氷像のような女はほんの少し目を細めただけだった。「だからどうした」と端的に言い放った。
「その14歳がこれまでに何をし、これから何をもたらすと言うんだ」
「な……」
「刃を握れば歳など関係ない。彼女は凶悪な戦士だ。だから殺した」
彼女は頬に付着した赤い血液を拭いながら言った。
「守りたいものならば、刃など持たせなければいい。本当に慈しむものならば、虐殺などさせなければよかったんだ」
ナシュアはにべもなく言う。
「何よりも大切なら、お前が代わりに汚れたらよかった」
その声はただシスに向けられたものではないようだった。ナシュアの冷えきった瞳はうっすらと熱を帯びた真摯なものに変わっている。
「私は……」
シスが何事かを口走ろうとしたとき、一瞬黒い影が通り過ぎ、気がつくとシスはくにゃりと膝を折りその場に倒れていた。
「様子を見に来たらコレかよ」
シスの代わりに立っていたのは黒い鎧を着た男だった。鉄仮面を付けていて顔は分からないが、その低く邪気のない声は若い男のようだった。
「自慢の密偵だったのに、あんた結構やるね」
飄々とした様子の男は、意識なく倒れるシスを見下ろしながら言った。
「あんた、ルージュさんのお友達?」
慣れ慣れしく話しかける黒鎧の男に、ナシュアは顔をしかめた。
「知り合い程度だ」
「知り合い程度で、刺客をバッサバッサ捌いてくれるあんたは随分お人好しだよ」
「お人好しなら殺したりしないさ。そもそもお前は何者だ」
ナシュアが問うと、黒鎧の男は仰け反り「あぁ、申し遅れました」などと丁寧な口調で慌ただしくお辞儀をした。
「俺はズィ=エルース第一騎士団ネヒュー・レオパルド。以後お見知りおきを」
丁寧に挨拶をするネヒューの姿は今からショウを始める道化のようだった。
「お前もエルースか。レリスにこうも簡単に侵入者が入り込むようなら、少し管理体制を見直す必要があるな」
ナシュアが息を吐くと、「さすがナシュア騎士団長様だな」と冷やかすような声でネヒューが彼女を呼んだ。顔は分からないがにやけていることは容易に想像できる。
「知ってるよ。あんたがレリス騎士団の団長で、この国の王女だったことも」
手をヒラヒラさせて、のんびりとした口調でネヒューは言った。
「ネヒュー」
ルージュが彼の名を呼ぶと、彼は首だけをそちらに向けた。
「久しぶりだな、ルージュさん」
言葉のわりに懐かしむような色はなかった。
「追っ手2人じゃ足りなかったみたいだ」
ネヒューが首を竦めて嘯いたので、ルージュは「そうみたいだな」とやんわりと答えた。
「幸いにも、強い味方が現れたんでね」
ルージュがそう告げると、ネヒューは何度も頷き「そうだねぇ」と繰り返した。
「そうじゃなければ、彼女のようになっていたのはアンタだった」
ネヒューが指さした先には異形の者と化し、事切れたラザアの姿がある。
「強運と言うか凶運と言うか。先に言っておくけどルシフェルは手を止めないよ。逃げ出したルージュさんを捕まえるのに躍起になってる。俺達のやろうとしてることを知ったところで止めるなんて絶対無理なのに、妙にアンタを警戒してるんだよね」
ルージュはごくりと唾を飲む。ルシフェルの目は誤魔化せなかったか、と深く反省し、自嘲する。
ネヒューは横たわるシスの腕を肩に回し、抱えるようにして立った。
「じゃあ帰るから」
拍子抜けするほど、さらりとそう告げられ、その場にいる者は素っ頓狂な声をあげそうになる。
「シスはラザアが死んで取り乱しちゃったみたいだし、俺は美女と戦う趣味はないし。また新しい奴を派遣するから、お楽しみに」
彼はそう言って片腕を伸ばした。暗闇の空間に更なる漆黒の渦が生まれる。
「グッバイ」
ネヒューとシスは黒い渦の奥に消えた。静寂だけがその場に立ちこめている。
やがて食い入るように戦いを見ていた砂の巫女が前のめりになり倒れた。
「スウェロ!」
硬直していた冷たい美貌が一変し、ナシュアは慌てて巫女に駆け寄り、彼女を抱きかかえた。
「気を失っているだけだ」
大人しく腰を下ろした守護獣が低く穏やかな声で言った。