憎悪と力に呑まれぬ様に
「久しぶりだね、ルージュちゃん」
少女は黒いグローブを弄りながら、人懐こい様子で彼の名を呼んだ。
「こんなとこで何やってるの? 今更逃げ出したりしても遅いって」
ヒラヒラと手を振りながら少女は笑っている。無邪気な少女を装っているが、どこか妖艶で大人びているように見えてしまう。ティラのような天真爛漫なところを演じようとしているが、彼女とは根本的に異なるものであることはすぐに感じた。
「ラザア、貴女は黙っていなさい」
同行している金髪の女性が強い口調で窘めた。母親が子供を叱るような絵面ではあるが、どこか違和感がある。おそらく、少女の不気味な演技のせいだ。
「ルージュ。私達がここに来た理由が分かりますね」
珍しく緊張感を纏い、固まっているルージュの姿に、リュダは首を捻る。
「あんた、誰だよ」
ルージュが口を開く前に、リュダが尋ねる。ブロンドの女性は首だけを白狼に向けて、にんまりとピンク色の唇の端を上げて小さく笑った。
「私達を知らない? そんなことは無いと思うけど?」
「しらねーよ。勿体ぶらずに答えろよ」
哀れみを顔に貼り付けて、女性は「過去を忘れたいのね」と呟いた。
「私はズィ=エルース王国第一騎士団、密偵役シス=ブラッドフォード」
「同じく、ラザア=ウェルポッド」
ルージュは彼女達を勿論知っていた。第一騎士団の人間とは距離をとっていたものの、王に一目置かれていたルージュはどんなに頑張っても彼らとは離れられない存在だった。そして、第一騎士団の彼女が追ってきたという事は何を意味しているのか。
リュダは、毛を逆立てて小さく唸っていた。「第一騎士団」という所属が付く以上、彼らはリュダの敵であると認識しているようだった。
「ようやく、思い出してくれたみたいね」
リュダの威嚇に物怖じせず、シスはやんわりと笑った。
「ルシフェルが寄越したんだな?」
ルージュは乾いた声で訊ねた。確認するまでもないことをルージュは知っていた。彼女らは団長の指示なしで動くほど、無謀ではない。シスも敢えて答えることはなかった。
「私は反対したんだけどね」
シスが首を竦めたため、鎧がガチャっと鈍い音を鳴らした。横で「私も」と手を挙げるラザアは子供らしさを相変わらず演出している。
「貴方如きを警戒してるルシフェル様なんて見たくないわ」
「随分言ってくれるな」
「だってそうでしょ? 第二騎士団なんて現王が気まぐれで作ったお遊び騎士団じゃない。貴方が団長をしているだけで、程度が知れる」
「相変わらず失礼な女だ」
ルージュは苦笑する。だが頭の中では、出来るだけ冷静に保つように努め、この場を切り抜ける方法を模索していた。
第一騎士団の団長を務めているルシフェルは、ルージュの元にこの2人を寄越した。彼女らがただの雑魚ではないことを彼は知っている。彼と同様の「力」を持つことも知っている。ルシフェルがそんな彼女らを追っ手として仕向けたと言うことは、危機感を僅かでも感じているということを意味する。ルージュの真の目的を察し、手を打ってきたということだろう。
そして今、彼は守りきらなければならないものが多すぎるということを危惧していた。巫女と王の器。一人で守りきれる自信はない。
「あんたも、王の器も殺させてもらうよ」
びしっと人差し指を向けて不敵な笑みを浮かべる少女は、ようやく鍍金が剥がれてきたようだった。
「悪いが」
ルージュは振り返り、背後で無表情のまま佇むティラに一瞥をくれた。
「力を貸してくれないか。俺一人じゃ自信がない」
「ほう、私に力を乞うか。面白い」
「戦えとは言わない。リュダとティラを頼んだ」
そう言うと、守護獣は鼻に皺を作り笑った。
「巫女は守ろう。それは私の本来の責務なのだから。しかし、この小賢しい白狼を救う義理はない。私には分かるぞ。この者は魔族だ。本来我々守護獣とは相反するものではないか」
邪悪なる存在と神聖なる存在。確かに守護獣と魔族は全く交わることのない次元に存在する生き物だ。守護獣に魔族を守れというのは些か無理があるのは分かっていたが、きっぱりと断られたせいで、不思議なほど脱力感があった。水と油は混じらないことを知っていながら、その現実を直視し落胆する自分が情けない。
「それが王の器であると言ってもダメか?」
苦し紛れで訊ねてみるが、守護獣は一瞬目を見開いただけで緩やかに首を横に振った。そしてしばらく目を閉じ「王の器は皆穢れた者ばかりだな」と皮肉を口にした。
「さぁ、さっさと終わらせましょう」
シスが腰に身に付けていた剣を抜き、構えた。ルージュが持つものとは一回りも小さいが、よく研ぎ澄まされた切れ味の良さそうな刃をしている。彼が剣を構える前に彼女は一足飛びでルージュの眼前に飛び出し、的確に首筋の頚動脈を狙ってきた。紙一重のところで回避し、ルージュはシスを振り払う。シスに意識を集中しようとした時、彼女の上から剣を翳し、飛び込んでくるラザアの姿があった。ルージュはその剣を受け止める。重力や体重の影響を差し引いても、小さな少女からは考えられない力だ。
「二人がかりでかかってくるのか? こんな腑抜けた男に」
「言ったでしょ。私達は貴方如きに時間を割くほど暇じゃないの。さっさと終わらせたいの」
シスが再び剣を振り回し、それをルージュは避ける。避けたと思ったら別方向からラザアの剣が襲い掛かる。第三者から見れば、交互に迫り来る猛攻は美しい円舞のようにも見えるだろう。だが、ルージュにそんな余裕はない。
その様子をリュダは見ているだけだった。彼は既に人の形へと戻り、ただ静かに佇み、身体の震えを抑えることしかできなかった。そんな彼の様子に、ティラが問う。
「お前は闘わないのか?」
しばらく間が空いてから、リュダは「あぁ」と短く返事をした。
「闘いが怖いわけではあるまい。何を恐れているのだ」
「恐れている?」
「震えているぞ。子犬のようだ」
「そうだな。でも、震えは恐れから来るものではないんだ」
リュダはそう告げて、自身の身体を抱きこむ。
「制御しているんだよ、怒りを」
「あやつらに私怨でもあるのか? こちらまでその憎悪が伝わってくるぞ」
「闘えば、その憎悪でおれは闇に堕ちてしまうよ」
そして苦しそうに、喘ぐように、彼は言った。
「そうなれば、優しい王様にはなれない」
ルージュが力を抑えて闘っていることをリュダは知っていた。彼は憎悪と力に呑まれてしまわぬように、いつも気遣って戦っているし、今回もそうなのだろう。彼の本当の力を見たのは、ただの一度きり。ルージュとリュダが初めて出会ったあの地獄の日だけだ。そしてそんな彼は常にリュダに言った。悲愴感と憎悪で歪んだ気持ちになるような戦いには決して手を出すなと。現在の王のように清廉のまま気高く生きろと。それは教育でも命令でもなく、彼自身の願いだと続くのは幼いリュダにとっても簡単なことだった。
眼前で戦うルージュは完全に相手に圧されていた。防ぐのが必死で、攻撃の一手が出せずにいる。そんな様子を眺めていると声が聞こえてくるようだった。「憎悪をありのまま解き放てばよい。そうすればルージュも救える。全てがうまくいくではないか」と。
それが彼の中で蠢く邪なる声なのか、正義感から生まれた声なのかは分からない。揺れ動くリュダの心はその葛藤に耐え切れず、壊れてしまいそうになる。
その時だった。遠くの方でコーンコーンと石を叩くような音がした。その音は近付いてきて、焦燥をかきたてるように近付く毎に早まった。やがて音は失われ、細波のような穏やかな声が聞こえてきた。落ち着き払った冷気さえ感じさせるその声の主を彼らは知っている。
「こんな所で喧嘩をするとは野蛮なやつらだ」
戦闘描写、特に苦手です。
本当につたない文章ですみません。アドバイスなどいただけると嬉しいです。