堕ちた者
ティラの瞳の中で闇が蠢くようだった。闇が光の真似事をして、その存在を主張しているようにも見えた。彼女の紫色の瞳は光というよりまがまがしい闇に近い。
「何だよ、この女」
リュダが顔を歪めて言う。
向かい合うティラとルージュ。ルージュの背後にはリュダがいて、その更に背後には黒く巨大な獣がいる。グルルと喉を鳴らす巨獣の全貌はその暗さ故に確認できないが、いつでも飛びかかってこられる体勢であることは間違いなさそうだ。
「お前、ティラじゃないな」
あの踊り子の娘が変貌したことに戸惑いながらもルージュは冷静に問いただす。目の前の少女は、魔族にとり憑かれた人間の症状に酷似していた。
「お前は魔族だろう?」
続けて問うと、闇に潜む獣が唸り、ティラはおぞましい声を上げて笑った。
「私が魔族だと? そんなことを口にする輩がいるとは……この国は本当に腐ってしまったのか?」
嘲るような口調だった。この国のことは詳しくないんだって、と言い訳したくなる。ティラの身体が淡い紫色の光に包まれ、彼女が突然浮かび上がった。
「腐りきった汚れた人間め。私が貴様等を粛正してくれる」
彼女は腕を組み、黒く蠢くものに視線をやる。それに反応するように、獣は耳を刺す咆哮を上げた。それと同時に腐ったような不快な臭いが辺りに充満し、彼らは顔をしかめた。
「久しぶりの戦闘だね」
リュダは弾むような口調でそう言うと、目を閉じ身体にぐっと力を込めた。彼の毛が逆立ち、爪が伸び、耳が立つ。やがて彼は全身が純白の滑らかな毛に覆われた狼の姿へと変化した。身体に不釣り合いな大きめな尻尾を振っているところから察するに、ユニークな玩具を見つけたとでも思っているのだろう。
「リュダ、お前はティラを何とかしろ! いいな!」
リュダは忠犬のように丸い瞳をルージュに向けたまま首を縦に振った。リュダが浮かび上がるティラに向かって自慢の足で跳躍し飛びかかる様子を見届けてから、ルージュは「さて」と小さく息を吐き、目の前の闇を見つめる。背中に背負った大剣を鞘から抜き取り構える。頭の先から爪先まで神経を張り巡らせ、野獣の呼吸や鼓動に集中する。
「来いよ。わんちゃんの相手には慣れてんだよ」
言葉を認識できているのかは定かではないが、野獣は吼えながらルージュに飛びかかってきた。ある程度の距離があったはずにも関わらず、接触までに時間は要さなかった。ルージュは突進してきた獣の牙を大剣で受け止めながら、もう片方の手に獣の首の付け根に触れ力を込める。
「放電!」
掌から送り込んだ高圧電流が獣の身体を一瞬麻痺させたが、激しく抵抗されてルージュは振り払われた。彼の身体が崩れかけの石の壁に叩きつけられた。
「イテテ……」
背中を撫でてルージュが立ち上がろうとすると再び獣は突進してきた。心なしか怒っているようにも見えた。
「痛かったか? わんちゃん」
ルージュが突っ込んできた獣の牙を受け止めんと剣を構えるが、前方から砂塵が吹きつけてきたため彼は目を伏せた。その刹那に野獣は彼の前へ到達し、前足の長く鋭利な爪で攻撃してきたが、間一髪で避けることができた。
「遊び盛りか?」
湧き出る笑みを抑えられなかった。ルージュにとっても久しぶりの手応えのある相手だったからだ。
何度も繰り返される猛攻を受け止めながら彼は落ち着いて考える。
この黒い生き物とティラの身体を乗っ取った者は何者なのだろう。「魔族」ではないと言っていた。これは意識を失う前のティラの反応を思い出しても間違いないだろう。彼女は頑なに首を振り魔族であることを否定していた。
そういえば先ほど奇妙なことを言っていた。
――この国は腐ってしまったのか?
愚かな魔族が口にする言葉とは思えなかった。まるで国の行く末を憂う軍師の台詞のようだ。
古城に潜む獣。旧王家。砂の巫女。
彼はハッと息を呑んだ。散りばめられたピースから推察できることはルージュにとって信じがたいことだった。
「おい、リュダ!」
ルージュが声をかけると、「何? 忙しいんだけど」と恨みのこもった返事をした。著しく興奮している黒い獣の攻撃を剣で受け止めながら「こいつは魔族じゃない」と伝えた。
「お前は巫女の守護獣だろう?」
ルージュが問うと、獣もティラも攻撃の手を止めた。あまりに突然の停止だったので、リュダは拍子抜けしている。
「今更気づいたか。愚民よ」
守護獣は醜悪な笑みを浮かべた。
「本当に?」
リュダが信じられないと云わんばかりに首を捻っている。
そう思うのも無理はない。巫女の守護獣とはその土地で神聖なる最も清い生き物として崇められているものだ。一方で目の前にいるこの生き物は邪悪な気配を纏い、恨みの塊のようだ。
「随分堕ちぶれたな」
ルージュが哀れみの視線を向けた。自嘲するようにティラは笑みを浮かべる。
「このような閉ざされた場所に長い間押し込められたせいか?」
「それだけではない。巫女と守護獣は表裏一体。彼女達の哀しみと憎悪が私を蝕んだ。この娘もそうだった」
「ティラが?」
白い顔をして浮遊している華奢な少女を見やる。踊り子と名乗った彼女の正体が巫女だと微塵も疑っていなかったので、ルージュは当惑していた。
思い返すと、彼女は古城の奥へ進むことを頑なに拒絶していた。破天荒に見えた彼女にしては随分似合わない挙動であった。あれは未知なるものへの恐怖ではなかったのだろう。彼女はその先にあるものが何であるかを既に知っていたのだ。
「向き合うことが怖かったのか、ティラ」
ルージュは無意識に呟いていた。海の底に潜っている時のように、ツーンと耳鳴りが鳴っていたのは沈黙のせいだろう。
「守護獣さんよ」
ルージュが呼びかけると、ティラは首を傾げた。
「あんたはもう戻れないのか?」
「戻る?」
「洗濯するみたいに綺麗なかつての姿にさ」
ティラは吹き出した。それはまるで人間がする素行そのものだった。
「無理だ。私は既にこの抜け殻のような国を見捨てている。私に見えるものは絶望だけだ」
「そんなこと言うなよ。ティラはそんなことないと思うぞ」
「どういう意味だ?」
「彼女は深い悲しみを抱いているのかもしれないが、目の前にある僅かな希望に縋ろうとしている。少なくとも俺にはそう見えた。お前が本当に表裏一体の存在だというのなら、お前が見つめているものはただの黒い絶望ではないぞ」
おかしな男だ、とティラは笑った。決してふざけて言ったわけではないので、不本意だった。
「それにしても守護獣を初めて見たよ。エルースでは守護獣の存在すら怪しいからな」
「エルース? 貴様らはエルースから来たと言うのか?」
ティラは訝しげにルージュとリュダを見据える。ルージュは少し迷った末に、ローブの内ポケットに入れていた刃渡り10センチほどのナイフを投げ渡した。ティラはそれを片手で受け取り、ナイフの柄をまじまじと観察し、頷いた。
「確かに、エルースの国章が刻まれている。本物のようだな」
「嘘を言ってもメリットは無いよ」
浮いていたティラは地面に足を付けて、不敵な笑みを向けた。
「お前達がここにやって来たのは、竜がいなくなったことと関係あるのか」
思わず目を見開く。守護獣は竜がいなくなったことを何故知っているのだ?
「驚いているのか? 私は守護獣。『巫女の剣』と呼ばれる者。竜を貫き、滅ぼすために存在している。竜がいなくなったことくらいは把握している」
「巫女は何も知らないようだったが」
「彼女は知らなくてもいいことだ。竜を殺したければ、私に『殺せ』と言うだけでいいのだから。尤もそんなことを望む娘ではないようだが」
ティラはつまらなそうに鼻を鳴らして笑った。
「俺達は竜を探す旅をしている」
「なるほど。王の中に封じられた闇が動こうとしているのだな」
「そういうことだ。竜がいなければ話にならない」
彼女が「そうだな」と同意すると同時に、再び背中の向こうから爆発音が鳴り響いた。そんなに遠くは無い。いよいよ、天井が降ってくるかと思ったが、幸いそういうことはなかった。
「ねぇ、いそうだよ。臭いがするもん」
背後から子供の声がした。聞き覚えのある声だった。
「こんな廃墟で何してるのかしらね、あの男は」
「そうだね、ほんと。ねぇ、シス。ルシフェルはどうしてあんな奴にアタシ達を差し向けたんだろうね」
「彼の真意は分からないけれど、任務だもの。さっさと終わらせてしまいましょう」
「うん。あ、いたよ。器も一緒みたいだ」
黒い鎧を来たブロンドの長身の女と、彼女の手を握ったままこちらに満面の笑みを浮かべている少女の姿がそこにあった。