片隅の楽園
ここは雪国だっただろうか。
そう勘違いしそうなるほど、目の前の建造物はさらさらの白い砂で塗れていた。先ほどまで空に在ったはずの太陽までも敢えてここだけは意図的に照らさないようにしているようだった。先ほどまで汗が滲むほど暑かったというのに、背筋に凍えるような寒さを感じてしまう。陽が当たらないことが大きな要因であることは間違いないが、目に見えない灰色のゴーストが魂をこっそりと抜き取っているような不気味な感覚があった。
訪れた古城は、現職の王が住む城と造りが似ているようだった。石造りの頑丈そうな建物だ。砂嵐如きでびくともしそうにない。この建物だけは世界が終わりを迎えてもこのまま居座っていそうな、粘っこい執念のようなものすら湛えている。
「これが旧レリス王朝の古城だよ」
その空気に呑まれたのか、ティラはゆっくりと厳かに言った。波打ち際で細波の音を聞くような気分だった。
「随分荒れているな」
「誰も寄り付かなければ仕方ない」
「何故壊さないんだ?」
古城に近付くな、というなら取り壊せば済む話だろう。
「さぁね。ミースラ王がそう言うんだから、仕方ない」
首を竦めてそう言うティラは、小さく笑っている。彼女の身に付けていた数珠のようなネックレスがチャリチャリと音を鳴らした。
「入ってみる?」
「入れるのか?」
「建物だからねぇ」
彼女は大人を小馬鹿にするような雰囲気があった。何を当たり前のことを言っているのだと言いたげだ。
積もった砂のせいで入り口が分かりづらかったけれど、ティラは慣れた様子で隠れるように存在していた古城の入り口へと案内した。
「正面からは入れないんだ。見ての通り砂が凄いからね」
彼女が案内したのは裏口のような小さな門だった。周囲は雪掻きをした後のように、砂の山がスッポリなくなっている。
「だれか管理しているのか?」
ルージュが問うと一瞬彼女は言い淀み、短く「まぁ」と曖昧なことを口にした。という事は答えはYESだな、とルージュは判断する。
ふとフェリンの顔が頭に浮かんだ。あの男が何故禁じられた場所を歩いていたのか。冒険者と名乗った彼が、何故騎士団長であるナシュアと顔見知りだったのか。
「ティラ」
ルージュに名を呼ばれて驚いたのか、彼女はいつもより目を大きくして振り返った。素直な忠犬のような顔をしているな、と彼は思った。さらには彼女に骨を投げてやれば追いかけて持って帰ってくるだろうな、と思い、リュダなら持って帰ってこないだろうなと思った。
「お前はこの国の騎士団長のことを知っているか?」
何故か悪戯がばれたようなきまりの悪い表情を浮かべて彼女は頷いた。
「嘘を吐いても仕方ないからいうけど、勿論知っているよ。ナシュア団長、でしょ」
「あぁ」
「彼女がどうかしたの?」
「彼女は有名人か?」
「勿論だね。知らないわけないよ。彼女は旧レリス王朝の王女だもん」
ルージュは一気に息を呑んだ。大気に舞っていた砂の粒子が喉元に貼りつき、激しく咳き込んでしまう。彼が落ち着くのを待ってから、ティラはケロッとした顔で「大丈夫?」と訊ねてきた。
「何故、旧王朝の王女が騎士団の長なんかしてるんだ。クーデターの元凶になること間違いないだろう?」
喉に貼りついたままの異物を何とか吐き出そうとしながらも、ルージュは途切れ途切れに言った。
「そうだね。確かに。普通は処刑するよね」
彼女は開いたままになっている門を潜り抜け、ルージュとリュダを中へと誘った。ご丁寧に、「足元、気をつけて」という忠告までしてくれた。ガイドとしてはなかなか優秀だ。
「さっき言ったけどね、このクーデターは巫女が原因で起こったんだよ。王家に巫女が生まれてしまったことが原因だった」
「そうだったな」
「当時軍の副団長だったミースラは、巫女を保護したんだ。で、こう言う。『さぁ、務めを果たせ』ってね。でもさ、想像してみてよ。親を殺されて、幸福を奪われた女が素直に首を縦に振ると思う?」
無理な話だな。彼は心の中で即答するが、エルースに残してきた彼女なら何と言うだろう、と考える。答えは出なかった。彼女は強い女性だった。失ったものを嘆くだけの自分がちっぽけに思えるほど、大きな存在感と強い決意を秘めた女性だった。
答えないルージュに構わず、ティラは答えへと誘った。
「勿論断ったんだ。彼女はこの国よりも、世界よりも、大事な存在があったから。薄情なやつだけど、巫女も人間だから仕方ないよね」
どこかその口調は言い聞かすような響きを帯びていた。
「その先は想像できるよ」
ルージュもエルースの騎士団長という立場でそれなりに国の政治というものを見てきた。どんなに優れた王が国を治めようとも、また逆にどんなに愚かな王が国を治めようとも、政治の中には綺麗ごとでは済まされないようなことが必ず存在する。正義という言葉を決して軽々しくは振り翳せないものであることを知っていた。
ナシュアは巫女にとっての人質なのだ。
あいつを生かしておきたければ『さぁ務めを果たせ。命を削れ』と。
どうして巫女という悲しい存在が生まれてしまったのだろう。命を削り、闇を封じる楔として生きるだけの存在。一方で闇を封じる器が壊れれば殺される運命を背負っている。ルージュは生の心臓を手で握りつぶされるような傷みを感じた。
「見て」
彼は呼吸をすることすら忘れた。それは先ほどまで不機嫌な表情のまま無言で歩き続けていたリュダも同様だった。
門を潜り、古びた黒い柱が並ぶ回廊を通り抜けた先に、広がる世界があまりに美しかった。モノクロの死後の世界を思わせる景色に鮮やかな緑色のペンキを乱雑に撒き散らしたような荒々しさと素朴さがあった。所々で深紅や純白の花が咲いている。
それは庭園というよりも楽園と呼ぶに相応しかった。無惨にも倒壊する柱や彫刻など構わずに、根を伸ばし生きようとする力強さがある。繁茂する草木や花はその存在をアピールするようにチラチラと輝き、その眩しさに涙が出そうになる。もし天使がこの世にいるならばこの楽園にこっそり集まり、くだらない戦争や森林伐採などを小馬鹿にしながら、美しい川や柔らかい風の話などをするのだろうな、と想像する。
「ここを見せたかったんだ」
彼女は照れるようにして鼻を擦った。
「あぁ」
彼女が騎士団の部下ならば勲章を与えたいくらいだ。ルージュは素直に感想を告げた。自分の言葉がとても陳腐に思えるけれど、それでも口にしたいという衝動に駆られた。
「素晴らしい」
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目の前に広がる緑の世界に、彼女は目を潤ませていた。以前、クーデターで死んだ父に言われた言葉を思い出す。
「いつかレリスの国民に緑を見せてやりたい」
真実かどうかは分からないけれど、かつてはこの国にも緑があったそうだ。いつのまにか失われた緑の世界。砂漠に森を甦らせることを父は夢としてしばしば語った。その時の父の顔が彼女は好きだった。普段は寡黙な父が多弁になるのは「緑の夢」を語るときだけだったと思う。
傍らで佇む男はこの儚く脆い楽園を見て「素晴らしい」と言ってくれた。その言葉に嘘偽りがないことくらい、誰にでも分かる。傍らで「やっぱりいい国だな」と無邪気にはしゃぐ闇の器たる少年も、同様だ。
確かめておいて良かった、と彼女は安堵し深い息を吐いた。巫女の助言を求めてやって来た彼らを疑っていたわけではないけれど、彼らがどのような人間なのか知りたかった。だから彼女は、わざわざあの小さな鬱蒼とした部屋を抜け出して彼らを追いかけてきたのだった。
失われた幸せ。巫女である彼女は取り戻せないものだけれど、それにナシュアを巻き込むことは耐えがたい苦痛だ。
巫女の呪縛に捕らわれた可哀想な己の姉を救い出してほしいという祈りを、彼女はエルースから来た彼らに託そうかと思い始めていた。