憧憬
彼女は石造りの城に再び足を踏み入れた。前方に綺麗な緑の庭が見える。この砂漠に美しい豊かな緑の庭園を作ることが如何に難しいことか、幼い頃彼女は父に聞いたことがある。いつか緑を蘇らせたい。そんな強く儚い願いがこの国を生み出したのだと、父は「少女の涙によりレリスが生まれた」という伝説と共に話してくれた。
「ナシュア様」
手入れが行き届いた庭の真ん中に立ち、汗を滲ませながら微笑んでいる初老の男は宮廷に仕える庭師だった。細い目と口の周りに乱雑に生えた白髪交じりの髭がチャームポイントだと自負する彼は、ナシュアをよく知る数少ない人物でもある。
「ナシュア様が城に参られるとは……何かあったのですか?」
「大したことではない。巫女に用があって来たのだ」
ナシュアがそう告げると庭師は大きく息を呑み「それはそれは」と仰々しく囁いた。
「先ほど連れていた珍妙な2人が関係あるのですか?」
「見られていたのか。あぁそうだ。彼らの処遇について巫女に意見を仰ぎたく参ったのだ」
「王に許可を得られたのですか?」
「まさか」
彼女は嘲笑を浮かべる。
「レリスの民のために存在する巫女だ。彼女は王の私物ではないのだから王に許しを乞う必要はあるまい。これで王が騒ぐならば、かつての王が咎められた道理がないだろう?」
「道理」という単語に庭師は顔を歪めて笑う。
「道理などとうに失われております」
「違いないな」
艶めく黒い髪をかきあげながら、ナシュアは苦々しく笑った。
「ナシュア様、ところで彼らは何者です? 貴方が客人を巫女に会わせるとは珍しいですね」
庭師は健康的な白い歯を見せて微笑んでいる。
「あの男達は楽園から来たらしい」
「ほう。それは珍しい」
「楽園から来た者が天使か悪魔か、私には判断できなかったのでね」
「なるほど。それでどちらだったのです?」
「判断しかねるな。巫女は善悪を語らなかったよ。だがいずれにせよ――」
「利用価値はある、というわけですね」
庭師は不揃いな髭をさすりながら含みのある笑みを浮かべる。のんびりと木々や芝生の手入れをしている老父には決してない鋭利な眼光を放っている。年老いても相変わらず衰えていないなとナシュアは感心する。
「今から巫女に会ってくるよ」
そして真意を確認したい――彼女の思いは口に出されることなかったが、庭師は「その方がよいですね」と柔らかな笑みを浮かべた。ナシュアは軽く頭を下げてから、庭師に背中を向け、再び狭い回廊へと足を運んだ。
彼女は自分の履いた編み上げブーツの鳴らす固い音を耳に入れながら、先ほどの会話を反芻していた。世界に潜む闇とそれを収める器、闇の楔である巫女と楔を打つ竜。巫女が何故存在するのかという問いは何度も繰り返してきたことだった。その問いを彼女の親や周囲の大人達にぶつけては、不満を募らせた。その素朴な問いは「何故ヒトを殺してはいけないのか」という疑問のように、大人達を著しく困らせた。彼らからすれば、徒に大人を困らせるダメな子供に映ったけれど、彼女には切実な問題だった。長年の疑問が、いとも簡単にエルースからやってきた男に明かされるなど昨晩は考えてすらなかった。
世界に危機が迫っている。彼はそう言ったけれど実感も危機感もない。頻繁に襲いかかる砂嵐や魔族達にレリスは脅かされていて世界を見通す余裕はないし、彼女には世界よりも大切な存在がいる。ふと城門前で無邪気にはしゃぐリュダが思い出された。
――お姉ちゃん。
彼女がまだ幼い少女だった頃、レリスの国境にある小さなオアシスに行ったことを思い出す。母親と先ほどの庭師、フェリン。そこにはナシュアに酷似した妹スウェロもいた。透き通った広大な青い空と木々の緑色が美しかったのを覚えている。そこにある小さな泉は多少濁っていたものの、カップで掬いしばらくおけば、砂が瞬く間に沈殿し飲むこともできた。スウェロは「すごいよ」と目を輝かせて、ピョンピョン跳ねていた。彼女が感動したのは水が飲めるようになることではなく、カップの底に沈殿している微粒の砂だった。光を散乱しながら沈んでいく砂を彼女は喜んでいた。砂漠の宝石と称されるレリスのようだと、彼女は笑った。どんなに願い望もうが、あの安らかな日々は帰ってこない。無慈悲なクーデターにより国が変わったあの日に戻ることは不可能だ。
彼女は思考を止めた。目の前には巫女のいる部屋の扉がある。取っ手を握り締め、ぐりっと捻りながらゆっくりと開ける。
「話がある」
彼女は変わらずにある衝立に向かって話しかけた。
「何故――」
話を続けようとしたけれど、ふと口ごもる。
「巫女……?」
何か様子がおかしい。衝立の向こうに何の気配もないではないか。ナシュアは足早に衝立に迫り、その向こうを見る。
そこには古い木で造られた椅子しかなかった。