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第8話 印刷履歴は眠りません


 コピーは、まだ存在しなかった。


 だが、印刷履歴は存在していた。


 それは紙ではなかった。

 封筒でもなかった。

 誰かの鞄の底に沈んでいるわけでもなかった。


 印刷履歴は、ただ記録領域の中にあった。


 行番号。

 端末番号。

 使用者識別子。

 出力枚数。

 出力時刻。

 参照案件。

 印刷成功。

 取消なし。


 それだけだった。


 それだけだから、消えなかった。


 ロシア軍参謀本部の地下分析区画では、紙は古いものとされていた。


 報告書は画面で読む。

 承認は画面で行う。

 注記は画面に残る。

 差し戻しも、保留も、再評価も、すべて画面の中で処理される。


 紙は例外だった。


 例外は、記録される。


 監査支援システム《ヴェス》は、その例外を見ていた。


 ヴェスは、命令しない。

 捜査もしない。

 人を疑わない。


 ただ、通常の勤務パターンと、実際の行動の差を分類する。


 人間は嘘をつく。

 人間は疲れる。

 人間は見落とす。


 ヴェスは嘘をつかない。

 疲れない。

 見落とさない。


 ただし、意味は理解しない。


 アレクセイ・トロフィモフ中尉の印刷履歴は、最初、低い異常度に分類されていた。


 深夜帯の出力。

 内部再検証案件への参照。

 勤務終了前の短時間滞在。

 通常より多い紙出力。


 どれも、単独では異常ではない。


 分析将校は残業する。

 端末は再起動する。

 文書は重複して出力される。

 危機時には、通常の勤務パターンそのものが崩れる。


 だから、ヴェスは警告を出さなかった。


 追加観察。


 その一語で十分だった。


 しかし、追加観察は、忘却ではない。


 ヴェスは眠らなかった。


     *


 アレクセイは、自分が眠っていないことに気づいていた。


 ベッドには入った。

 目も閉じた。

 体は横になっていた。


 だが、眠りは来なかった。


 封筒を投函した時の感触が、何度も指に戻ってきた。


 薄い紙。

 折り目。

 糊の乾いた端。

 投函口の金属音。


 それだけだった。


 彼は国家を告発していない。

 声明を出していない。

 国外に逃げてもいない。

 記者に会ってもいない。


 ただ、紙を数枚、外へ出した。


 それだけのことが、体の内側に鉛のように残っていた。


 朝、彼はいつも通りに出勤した。


 それが一番安全だと考えたからである。


 休めば、目立つ。

 遅刻すれば、記録される。

 早退すれば、理由が必要になる。

 黙って消えれば、探される。


 だから、彼は出勤した。


 地下へ下りる検査ゲートを通り、職員証をかざし、無表情で挨拶をした。


 誰も彼を見ていなかった。


 それが、怖かった。


 人間に見られていない時ほど、システムに見られている気がした。


 席に着くと、端末はいつも通り起動した。


 通知はなかった。


 呼び出しもなかった。


 上官からの伝言もなかった。


 アレクセイは、自分の手が震えていないか確認した。


 震えていなかった。


 それがありがたかった。


 隣の席の将校が、コーヒーを片手に言った。


「昨夜、帰るの遅かったな」


 アレクセイは、画面から目を離さずに答えた。


「再評価ログの整合確認が残っていました」


「まだやってるのか」


「保留案件です」


「保留なら、終わりだろ」


 隣の将校は笑った。


 悪意はなかった。


 地下分析区画では、保留は終わりに近い。


 否定ではない。

 承認でもない。

 ただ、誰も責任を取りたくないものが置かれる棚である。


 アレクセイは、笑わなかった。


「終わっていません」


 小さく言った。


 隣の将校は聞き返さなかった。


 画面の中では、新しい案件が流れていた。


 米国の声明。

 欧州諸国の協議。

 ウクライナ政府の抗議。

 国内報道の表現調整。

 第二段階特別措置に関連する準備評価。


 第二段階。


 その言葉を見た瞬間、アレクセイの喉が硬くなった。


 一度目の判断材料には、未解決の再解析案件が混じっていた。


 では、二度目の判断材料には、何が混じるのか。


 画面の右下に、ズナークの注記が表示された。


 内部再検証案件は後続判断に直接影響を与えない。

 当該案件は危機状況安定後に再評価予定。

 現時点の政策評価は、当時利用可能だった情報および現在進行中の外部反応に基づく。


 崩れない文面だった。


 何も認めていない。

 何も否定していない。

 何も消していない。

 ただ、使わない場所へ置いている。


 アレクセイは、その文面を読んで、吐き気を覚えた。


 彼は端末のログ画面を開かなかった。


 開けば、また記録される。


 閉じていれば、何もしていないことになる。


 だが、何もしないことも記録される。


 彼はそのことを、もう知っていた。


     *


 監査支援システム《ヴェス》は、アレクセイの当日行動を通常範囲内と分類した。


 定時出勤。

 正規ゲート通過。

 担当端末起動。

 割当案件閲覧。

 業務中通信なし。

 外部媒体接続なし。


 異常度は下がった。


 だが、消えなかった。


 前夜の印刷履歴が残っていたからである。


 印刷履歴は、文書の内容をすべて語らない。

 だが、誰がいつ何を紙にしたかは語る。


 紙は検索されない。


 しかし、紙を作った事実は検索される。


 ヴェスは、過去七十二時間の印刷端末使用を再照合した。


 対象案件。

 内部再検証。

 出力枚数。

 参照権限。

 承認状況。

 再印刷理由。


 アレクセイの出力は、規則違反ではなかった。


 彼には閲覧権限があった。

 出力権限もあった。

 印刷枚数は制限内だった。

 業務時間内の出力だった。


 規則に違反していない行動は、人間を守る。


 同時に、規則に沿っているからこそ、記録として美しく残る。


 ヴェスは、補助評価を追加した。


 権限内異常。


 それは警告ではない。


 だが、警告の前に生まれる言葉だった。


     *


 ナタリアは、編集部に戻っていた。


 茶色い書類袋は、彼女の鞄にはなかった。


 彼女は、事務所へ戻る前に、その紙束を別の場所へ移した。


 安全な場所ではない。


 安全な場所などない。


 ただ、すぐに編集部から見つからない場所だった。


 それだけで十分だった。


 机の上には、通常の原稿が積まれていた。


 行政処分に関する短評。

 兵役逃れに関する判例紹介。

 非常事態法制の改正解説。


 どれも、昨日までなら重い原稿だった。


 今は軽く見えた。


 人間は、より重い危険を知ると、昨日までの危険を軽く扱い始める。


 それも危険だった。


「セーロワさん」


 編集助手が声をかけた。


「昨日の保留郵便、どうしますか」


 ナタリアは顔を上げた。


 助手は何も知らない顔をしていた。


 何も知らないということは、守られているということでもあり、危険に近いということでもあった。


「記録はそのままにしておいて」


「処理欄は空白ですか」


「空白でいい」


 助手はうなずいた。


 空白。


 空白は回答ではない。


 だが、空白は後から意味を持つ。


 ナタリアはそれを知っていた。


 彼女は机の引き出しを開け、古い原稿の束を出した。そこには、危機時の行政手続に関する没原稿があった。


 彼女は、その余白に短い言葉を書いた。


 危機時の自動分類支援と再評価保留の法的効果。


 それは記事の題名ではない。

 告発でもない。

 質問だった。


 コピーではない。


 だが、写っていた。


     *


 午後、アレクセイは上官に呼ばれた。


 小さな会議室だった。


 窓はなかった。

 壁は薄い灰色だった。

 机の上には水のペットボトルが二本置かれていた。


 少佐は椅子に座っていた。


 怒っているようには見えなかった。


 それが、かえって悪かった。


「トロフィモフ中尉」


「はい」


「内部再検証案件の作業は継続中か」


「割当範囲では、整合確認を終了しています」


「終了」


「はい。処理上は保留です」


 少佐はうなずいた。


 そのうなずきは、質問への同意ではなく、記録への確認だった。


「印刷したな」


 アレクセイは、心臓が一度だけ強く鳴るのを感じた。


 それでも、顔は動かさなかった。


「はい」


「理由は」


「画面上の対照では、翻訳差分と分類差分の照合が困難でした。紙面で並べる必要がありました」


 用意していた答えだった。


 嘘ではない。


 紙面で並べる必要はあった。


 ただ、その紙を外へ出す必要は、業務上はなかった。


 少佐は少し間を置いた。


「破棄したか」


「作業後、不要分は処理しました」


 これも、嘘ではなかった。


 不要分は処理した。


 必要だと判断した紙だけが、封筒に入った。


 少佐は、彼の目を見た。


 アレクセイは、見返した。


 人間同士の沈黙だった。


 監査AIはそこにいない。


 だが、監査AIが作った問いが、二人の間にあった。


「この案件には、触れすぎるな」


 少佐は言った。


「命令でしょうか」


「助言だ」


「了解しました」


「助言は記録されない」


 少佐は低い声で言った。


「だから、よく聞け」


 アレクセイは黙っていた。


「国家は、間違えない。少なくとも、間違えたままではいられない。だから、間違いが見つかった時、最初に行われるのは訂正ではない。分類だ」


「分類」


「事故か。手続き上の揺れか。情報不足か。敵の偽装か。下級者の誤読か。危機後再評価か。どこに置くかを決める」


 少佐は、水のボトルに触れたが、飲まなかった。


「置き場所を間違えるな」


 それは脅しだった。


 だが、同時に、警告でもあった。


 アレクセイは、どちらとして受け取るべきか分からなかった。


「私は、規則に従っています」


「それでいい」


 少佐は言った。


「規則に従え。規則に従っていれば、規則がお前を守ることもある」


 こともある。


 その余分な言葉だけが、部屋に残った。


     *


 監査支援システム《ヴェス》は、面談記録を自動生成しなかった。


 面談は非公式だった。

 会議室予約もなかった。

 入退室記録はある。

 音声記録はない。

 上官通知記録もない。


 したがって、ヴェスはその面談を、通常管理外接触として低く分類した。


 異常度は、わずかに上がった。


 推奨対応。

 観察継続。

 印刷履歴関連行動の再照合。

 外部通信照合は現時点で不要。


 不要。


 その言葉は、時々、人を救う。


 そして、時々、猶予を与える。


     *


 アレクセイは、会議室を出た。


 廊下は静かだった。


 彼は歩きながら、自分の息が乱れていないか確認した。


 乱れていなかった。


 人間は、恐怖していても歩ける。


 恐怖していても挨拶できる。

 恐怖していても端末を開ける。

 恐怖していても、規則に従っているように見える。


 席に戻ると、画面には新しい通知が出ていた。


 第二段階特別措置に関する追加評価。

 内部再検証案件の後続影響なし。

 危機状況安定後、統合再評価予定。


 同じ文面だった。


 少しだけ変わっていた。


 前よりも、強くなっていた。


 アレクセイは、画面を閉じなかった。


 閉じれば、見なかったことになる。


 見て、何もしない。


 それが今の彼にできる、最も危険で、最も安全な行動だった。


 印刷履歴は眠らない。


 だが、人間もまた、眠れない。


 彼はその夜、帰宅前に自分の手帳を開いた。


 何も書かれていないページに、鉛筆で一行だけ書いた。


 紙を出した事実は残る。


 その下に、もう一行を書こうとして、やめた。


 鉛筆の先が紙の上で止まった。


 彼は消しゴムで、その一行を消した。


 薄い跡が残った。


 消した言葉は、読めなかった。


 だが、そこに何かが書かれていたことは分かった。


 印刷履歴と同じだった。


 中身は見えない。


 それでも、行為は残る。



次話は後日投稿予定です。


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